先日、同僚の先生と話していて、深く納得した話。
要約すると、実習生を教えるのも子どもに教えるのも、教える側の心構えは一緒ということ。
大切にしようということ。
実習生を考える。
教育実習生は、教員免許をとろうとする人である。
それも、このご時世に。
仕事は他にいくらでも選択肢があるはずである。
教職の大変さは、いくらか知っているはずである。
そこも含みおきで、教育学部に通っている。
大学生である以上、当然、未習のことも多い。
だからこそ、知っている現職の教員が教える意味がある。
そこがうまくいかないとしたら、本人たちの問題ももちろんあるが、結局は自分自身の指導も省みる必要がある。
これは、子どもにもいえる。
何はともあれ、学校に子どもが登校してくるという事そのものが有難い。
勉強が好きで好きでたまらない子どもがいる。
(そんな子どもはいないという人が時々いるが、これは現実にいる。
知識欲や探求心が人並み外れて高い子どもである。)
一方で、勉強が嫌で嫌でたまらない子どももいる。
色んな子どもがいても、全員教えるのが仕事である。
うまくいかないとしたら、自分の教え方を省みるのが第一優先である。
一方で、うまくいかないことを全て自分の責任だと思いすぎないことも大切である。
世の中のすべてのことは、波や流れがある。
自助努力で波に乗ったり流れを引き寄せることもできるかもしれないが、満潮の状態を干潮に戻すことはできない。
自分でどうにもできない面もあると割り切ることも同時にしないと、真面目な人は倒れる。
少し話しが逸れたが、要は、相手も自分も大切にするということである。
それは、単に甘やかすのではなく、指導すべきをきちんと指導するということ。
へとへとで倒れそうな状態なら、いたわる。
単に依存しているだけなら、指導して自分でやらせる。
これらの対応は、自分自身へのセルフケアとしても同じことがいえる。
相手や自分の状況に応じて、臨機応変に動くが、要は「相手を大切に」ということが根本・本質・原点である。
目の前で一所懸命に学んでいる相手を、大切にしたい。
2015年11月30日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿