相手が間違った行為をする。
つい遠慮して言わないとする。
すると、次も同じことをする。
同じどころか、少し程度がひどくなるかもしれない。
そう考えると、間違いを教えてあげることは必要である。
この辺りは、漢字の習得と同じである。
子どもが、漢字を間違って覚えて、そのままテストを受ける。
正しくない字形だが、見過ごしてしまったり、「おまけ」で〇にしてしまったりする。
そうすると、その間違えのまま進む。
やがて、大人になって、手紙を書く場面などでミスをして、相手に苦笑いされるはめになる。
もっと前に、受験の場面で間違えて書いて、大きな損をするかもしれない。
きちんと間違いを正してもらえなかった不幸である。
私は二十代後半の頃、師匠の野口芳宏先生に、間接的にだが、次のようなことを言われた。
「教えは素直にきく。いちいち自分はこうだとか言わない。それはずっと後でいい。」
自信過剰だと、相手がどんな人であろうと、平気で自分の論を並べ立てる。
自分の論が正しいと思い込んでしまっている。
経験と知識の差だとか、読んでいる本の量とかを考えたら、恥ずかしくて言えないはずなのだが、そこが若さである。
もちろん、意見を述べることは大切だが、あくまで「聞いた上」である。
一旦教えを受容する。
そのずっと後で、熟考した後、「やはり、違うと思うのですが」というのは、有りである。
それをその場でやり返してしまうようでは、教えを受ける資格がないと言っていい。
それなら、別の場で学んでと言われてしまう。
師の教えは「守破離」の「守」である。
その段階にオリジナリティは必要ない。
外に学びに出る時も同様。
批判的に見るのは、それを深く知った後でいい。
まずは、そういうものだと受け容れること。
その上で、自分の考えを入れていく。
素直に受容する姿勢を身に付ける。
批判的な大人からは批判的な子どもが育つ。
子どもに教えたいことは、先に自分が身に付ける必要がある。
2015年11月26日木曜日
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