お正月は日常を離れて休むべきである。
そもそも、おせち料理も何も、人々がきちんと休めるようにという先人の知恵から来る風習である。
非日常が大切なのである。
いや、お正月も、普段通りの生活リズムで生きるべきだ。
そもそも、お正月とはのんびり遊ぶための時間ではない。
その時間に、良書を一冊でも読みなさいと、かの吉田松陰先生も言っている。
「一年の計は元旦にあり」。
日常のスタートとして捉えることが大切なのだ。
・・・・・・
どちらが正しいと言えるのか。
少し考えてみてから読み進めて欲しい。
実はこの二者択一が全てではないのだが、○×をつけること自体はできる。
自分がどちらかの立場に決めればいい。
決めて退路を断つ=「決断」である。
授業に参加させる時には、このスタンスが必要になることがある。
○か×かの話し合いから、△の意見を生み出す場合も、まずは立場を決めて考えさせる。
立場が決まれば、主体者意識を持って授業に参加できる。
○×をつけない考え方もある。
第3者的な立場で見て、これもいいよね、こっちもいいよね、という見方である。
主体性はないが、観客的に外から見る分にはこれでいい。
ただこの場合も、最後は、自分ならこうすると決めることになる。
決めないままあやふやにいくと、結局人の意見に振り回されることになる。
何が言いたいのかというと、自己決定への肯定である。
「これでいいの」と自分の選択をどこかで割り切る。
どうせ万人にとっての「これがベスト」はないのだから、決断する。
「少しも寒くないか」と問われたら、寒いのだが、そこは自分で決めた以上、やせ我慢でもがんばる。
身近な人やら仲良しの人やら、上司やら偉い人やらが言ったとかどうこうではなく、自分で決める。
人の意見に耳を傾けつつ、最後は自分の頭と心で決断する。
例えば、以前紹介した未来予想図の学級通信の手法だって、やるかやらないかは完全に個人の好みである。
「好きか嫌いかは、自分が決める。
良いか悪いかは、社会が決める。
正しいか正しくないかは、歴史が決める。」
誰が言ったか、至極名言であると思う。
つまり、自分が決められる範囲は、やるかやらないかということの選択だけである。
教室にいる子どもたちも同様。
子どもだって、みんな一人の人間である。
それぞれ好き嫌いがある。
最後は自分で決断する人間に育って欲しいと思う。
目標一つとっても、自分で決めて、自分で実行する。
担任は、その手助けができればいいと思う。
2015年1月23日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿