2015年。
今年も社会にとって、教育にとって、大きな変化が来る。
日本のグローバル化と高齢化は加速し続ける。
経済問題も絡む(というよりも中心にある)以上、避けようがない。
さて、新年早々真面目な話題で申し訳ないが、次の記事がある。
『「グローバル化時代」の日本の教育』
https://edupedia.jp/special/teidan2014
「陰山英男×小林りん×直山木綿子」という、豪華鼎談(ていだん)である。
詳しい内容が気になる方はページの方を見てもらうとして、この中で
・英語は「通じるか、通じないか」でしかない
・(教育のグローバル化は)流行ではなく、一種の地殻変動
といったことが論じられている。
この中で述べられていることに、概ね賛成である。
単に「小学校で英語をやればいい」というものではなく、通じる英語を身に付けさせる。
また、グローバル化は流行ではなく、好むと好まざるとに関わらず、避けようのない事態であると思う。
完全に個人的見解だが、私はずっとこの「グローバル化」の流れが、歴史の繰り返しであると感じてきていた。
古くは弥生時代に大陸から米作りが「輸入」された頃から始まる。
その中でも最も今に近い状態が「鎖国」からの「明治維新」の時期であると思っている。
江戸時代、日本は鎖国の状態で国内の平和を維持してきた。
しかし黒船来航により、諸外国との力の差を見せつけられ、開国せざるを得ない状況になった。
放っておけば外国に侵略されることを恐れた藩士は、それぞれ手を打った。
日本という国を守るため、諸外国から学び、諸外国に対抗できる力をつけることを選んだ。
黒船に単身乗り込んだ吉田松陰など、その最たる姿であると思う。
亡国を憂うからこそ、諸外国に積極的に学び、日本を復興させる明治維新の志士達を育てた。
大げさに聞こえるかもしれないが、教師という立場は、「志士」を育てる仕事でもあると思う。
「松下村塾」が日本全国あちこちにあればいい。
私たちの教える子どもたちが、これからの日本を決めていく。
だから、教師の仕事は「志事」であると思っている。
単に授業をして生活指導をすればいいというものではない。
どういう技能を身に付けさせ、どんな観を育てるか。
私たちが育ってきた環境とは全く違う世界が、子どもたちの未来に広がっている。
その中でのグローバル化教育の必要は、どうしても出る。
繰り返しになるが、外国語は通じることが大切であり、コミュニケーションの「手段」である。
諸外国を尊重するということは、同時に日本という国に誇りを持つことが必須である。
「隣の芝生が青く見える」というようでは、本末転倒である。
これからのグローバル教育の動向を、自分の目でしっかりと見つめていきたい。
維新とは、広辞苑によると「物事が改まって新しくなること」。
そう考えると、毎日毎時が維新である。
元旦の今日、志を新たにし、2015年を出発したい。
2015年1月1日木曜日
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