前号で「うまくできなくてもやらせる」ということを書いたので、そこに関連した話。
地元の国語の指導主事の先生からの学び。
同僚の先生の行った校内授業研の後の協議会(テーマは「学び合い」)で、次のようなことを話していただいた。
「先生の美しい説明よりも、子どものたどたどしい説明を。」
「先生の関わりを、子どもたち自身ができますか。」
つまり、全部教師がうまくやろうとせず、子どもにやらせてみよとのことだった。
以下は、それを聞いての自分の解釈。
子どもにやらせると、うまく伝わらない気がしてしまう。
補足説明程度なら必要かもしれない。
しかし実際は、補足どころか、子どもがやった何倍もの時間をかけて説明してしまう光景をよく見る。
(特に、算数の授業研で顕著である。子どもの発言のまとめは、難しい。)
子どもからすれば「じゃあ、最初から先生が説明すればいいじゃん」と思ってしまう。
やがて「待っていれば、先生が正しい答えを教えてくれる」という受け身の姿勢を作り出す。
子どもが自分の頭で考えないとか、自分でやろうとしないと嘆く時、それは大人の責任ではないか。
我々の立場で言えば、学校教育の責任である。
例えば幼児は、全部自分でやろうとする。
それが経験によって、「失敗するならやらない方がよい」と学んでしまう。
教室で、どれだけ失敗が本当に「称賛」されているか。
これによって、チャレンジ精神の有無が決まる。
自主性を持たせたいなら、失敗を推奨して褒める必要がある。
安全さえ確保できるなら、どんどんやらせてみる。
余計な口や手を出さずに我慢。
辛抱強さが、勝負の分かれ目である。
2014年11月5日水曜日
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