2021年10月22日金曜日

自ら伸びる存在として見る

子どもと接する仕事でも、なるべく大人に接する時と同様にするというのを基本に考える。

子どもを相手にする時、基本的にあまり「子ども扱い」しすぎないということである。

どちらかというと、人間同士として見る、というのを基本にする。


例えば、しっかりとした店だと、子どもが相手でも大人に対するように丁寧な言葉できちんと対応してくれる。

それも、あくまで相手にわかる言葉で、である。


逆に、敢えて普段から丁寧な対応をしないという人もいる。

職人タイプというか、大人相手でも基本ぶっきらぼうで、子どもでも変わらない。

そういう店や人もあるが、これもこれでいいと思う。


要は、相手によって無用な差をつけないということである。

人としてフラットというか、相手へのサービスがフラットなのである。

(礼儀があるないという話とは全く別である。)


だから、子どもを相手にする時も「できない」前提で見ない。

やったことがないからできないだけ、という見方である。

代わりに「知らない」前提で見る。


知らないことで必要なことなら、教える。

そして「知らない」が「知った」になったら、そこから先は本人次第である。

それを使うか使わないか、やってみるかやってみないか。

全て本人が主体的に行うことである。


例えばパソコン端末の扱いについては、正直こちらも完全にはわからない。

だから、最低限のところだけ教えるし、安全面として制限をかける部分もある。

あとは、本人が使いながら覚えるしかない。


小学校の教員をしていると、この辺りについてお節介が過ぎてしまうことが多い。

ついつい、あれこれ手出し口出しをして、指示や無用な制限をしてしまう。


その方がなまじ上手くいくものだから、子どももそれを学ぶ。

そして、スピードや効率化を学ぶ。

やがて指示されるのを待つ、許可されないと自分から動かないという状態が起きる。

自分でやると失敗も多く、効率が悪く大人に歓迎されないということを学ぶ。


結局、相手を子ども扱いをすると、この悪循環にはまりやすい。

大人相手に子ども扱いをしても同様である。

新人だろうが異動者だろうが初心者だろうが、そういう扱いをしていると、主体的に動けなくなる。


大切なのは、教えたら、後は任せて見守る姿勢である。

失敗もするけど、その時は一緒に後処理を手伝うつもりで、任せて見守る。

一つできたら、一つ一緒に喜ぶ。

子どものトイレトレーニングの時の心構えと同じである。


この相手を子ども扱いする、お節介が過ぎる、というのが学校の抱えている病理の根本原因のように思われる。

何なら、場合によっては保護者に対しても子ども扱いかもしれない。

そこまでやらないといけない相手と決めつけて、勝手に過剰サービスしている可能性もある。


過剰サービスは、自分で考える力を失わせる。

成人して一人立ちして暮らした後でも、実家に帰るとつい親に家事を甘えてしまうという心理。

時に甘えることは大切だが、成長の機会を害するまでやり続けると、それは「甘やかし」になる。


学校の場合で考えれば、子どもの成長や保護につながるならば、それは誰相手だろうが、やってあげればいい。

逆に、子どもの成長を阻害するのであれば、それはやってあげない方がいい。


子ども扱いしない。

相手は、今は単に「未知」なだけであり、これから伸びる存在と考える。

自分でできることは、すぐにはうまくできないことでも、自分でやるようにしていく。


よく出す譬えだが、植物の成長と同じである。

伸びろと言って引っ張っても伸びないし、成長促進剤を注入するようなことをしても、健康には育たない。

自ら伸びる存在なのだから、しっかりと土の手入れや適切な環境を整えたら、後は成長を見守るだけである。

ただし人間と植物との決定的な違いは、成長したら自ら環境を選び、作り出せる点である。


命に関わる大きな危険にはさらさないようにした上で、小さな冒険に対してはチャレンジさせてみる。

子どもを子ども扱いしすぎることが、子どもの成長を阻害していると感じる次第である。

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