2021年8月10日火曜日

戦争と歴史に対し主体的に疑問をもつ

昨日8月9日は、長崎の原爆忌であった。

ここに関連して、主体的に疑問をもつことへの必要感について書く。


教室で常々子どもに教える言葉がある。

「2回目は別物」

という言葉である。


何でも、2回目というのは、1回目とは全く意味が違う。

1回目と全く同様の失敗を、2回目にもまたするというのは、どういうことか。

反省や改善の意思がない、あるいは、意図的と捉えらえても仕方がないのが、2回目の同じ過ちである。


この原則は日常の些細な出来事の話にとどまらない。

あらゆることに普遍的な原則である。


原爆が、立て続けに2回も落とされた。

地球の歴史上、原爆を実際に落とされたのはこの2回しかなく、日本が世界唯一の被爆国である。

1回目が8月6日の朝で、たった3日後の8月9日の昼前にまた落とされた。

この理不尽な事実に対し、どんな説明があっても納得がいくはずはないのである。


1回目で、十二分に過ぎる壊滅的なダメージを与えた。

日本に微かな希望すらも持たせないほど絶望させるのに、十分過ぎる破壊力である。

1回目から人道的に許されない出来事である。

それを2回目まで落とした上で「日本を降伏させるため」では、全く理屈も道理も通らない。


これは、単にアメリカ側を責めているのではない。

その事実について、日本人の中でもう当たり前のように受け止めていることがないかということへの投げかけである。


数年前の古い記事だが、アメリカ側もこれについては教育で重大なこととして取り上げていることがわかる。

特に、各国が戦争について語る時の「三つの語り方」と受け身のスタンスはその通りであると感じさせられる。

(参考「アメリカ人は原爆投下について多様な教育をしている」

米国の専門家に聞いた【オバマ大統領 広島訪問】 ハフポスト )


この記事の中でも、日本が戦争について語り続けてきたことへの大切さが書かれている。

風化され、当たり前に思ってしまうことが何よりも恐ろしいことである。

世界中が忘れてしまいたい出来事でも、記憶に刻み続ける必要がある。

必要な姿勢は受け身、客体ではなく、積極、能動、主体である。


その点で「主体的で対話的な深い学び」が今後必要という文科省の出す方針は、正鵠を射る表現である。

(ただし、その内実が未だ追い付いていない。相変わらず歴史教育には教育業界全体が及び腰である。)


国際社会で生きる日本人に必要なのは、言語力もそうだが、国民それぞれの歴史への見解である。

だがこれは日本において、本人が積極的に知ろうとしないと学べない。

繰り返し言うが、日本の学校教育はここに対しとてつもなく及び腰であり、きちんと教えられる機会はまずないからである。

(戦争の歴史について、公平な立場でしっかり教え、考える場を与える教師がいたら、それはかなりの気骨のある人である。)


オリンピックが真に平和の祭典足り得るためには、戦争の事実についての直視が必要である。

そのせいで未だまともに参加できていない国もあるのだから、国同士のけんかについては、全くの未解決という状態である。


原爆忌と終戦の日(あくまで日本側の呼称)を機に、自国の歴史に対しても疑問をもって見つめ直していきたい。

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