2021年8月2日月曜日

期待値を下げる

 願いをもつことの大切さは古くから言われている。


しかしながら、ここに実は一つ落とし穴がある。

使い方次第で有用だし、使い方次第で害悪にもなりうる。


前号に書いた、期待の方向に加え、今回はその大きさについて。


二者間で考える。

全ての人間関係は、二者間の連続によるネットワーク構成となっているからである。

どれも紐解いていけば、二者間の関係になる。


互いの期待の方向が一致していること。

これが良い期待の関係というのは前号で書いた。

ここにずれが生じると不幸を生む。

この方向がずれている時点で、もう既にうまくいかない。

(例:期待している側だけが勝手に期待している状態、または逆の状態。)


もう一つが、質量といえばいいか、期待の大きさである。

期待値である。

方向が一致していても、それが過剰な場合である。


期待というのは、ある結果を待っている。

つまり、遂行能力を信じているわけである。


しかし、期待値に対する能力が足りていないということは十分にあり得る。

そうなると、期待しているほどの結果が出ないので、がっかりする。

場合によっては、お互いに悲しみだしたり怒りだしたりする。


例を挙げる。

テストの結果が出た。

90点だった。

自分はもともと100点をとれると思っていなかったので、いいだろうと思っている。

相手は、自分の100点のみを期待していた。


そのがっかり感が伝わる。

がっかりする、されるという残念な結果である。


自分自身との関係にもいえる。

もともと、100点をとれるほどの努力を実はしていない。

しかし、自分はがんばったし、100点をとれると信じ込んでいた。


こうなると、90点で落ち込む。

自分はだめなんだと自暴自棄な気分になる。

「あんなに一生懸命やったのに」と考えるという、残念な結果である。

本来は、能力通りの結果が正しく出ただけである。


要するに、期待値が実際よりも高いと、怒りや哀しみを生む原因になる。

逆に言えば、期待を一切手放すと、怒りや哀しみは生まれない。


例を挙げる。


朝、教室が騒がしい。

物が散乱し、けんかも起きている。


静かな状態を期待していると、とても残念な気持ちになる。

しかし何も期待していないと、フラットでそれを見られる。

「散らかっているな」「何かあったかな」

という感じである。


総じて、学級担任は子どもに期待しすぎになりがちである。

「自分ができていないことは、子どもにもできない」という前提が頭から抜け落ちている。


さらに厄介な事実がある。

自分自身ができていないと気にしていることほど、子どもができていないと気になる。


じゃあ自分ができないといけないのだ、と考えると、不幸の元である。


ここには、救いもある。

自分ができていなくても気にならないことだと、子どもができていなくても気にならない。


要は、捉え方が全てである。


今の期待値を下げる。

自分自身へも、相手へもである。


しかし、未来へは大きめの期待をしておく。

今はこうでも、1年後にはこうなるはず。

変わっているはずという希望をもつ。

それが、「今」の原動力につながる。

これこそが目標というものの在り方であり、目標活用の有用性はそこである。


最悪、1年後にがっかりする分にはいいと割り切って考える。

むしろ、その時に期待通りになっていなくても、意外にがっかりすることはない。

がっかりするとしたら、いつでも「今」に期待しすぎているからである。

1年後も、1年後になれば「今」なのである。


期待値を下げる。

ストレスを感じているなら、それは自分にも他人にも期待しすぎていないか。

見直してみるといいかもしれない。

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