メルマガで長崎原爆忌の翌日に書き、まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
http://www.mag2.com/p/news/260236
戦時中を思えば、今は空襲や飢餓を恐れないで生きられる分、平和である。
原爆忌は、慰霊とともに、今自分がこうして生きていること自体に感謝する機会になる。
ただ一見「平和」とはいえ、現代も静かな戦争が繰り広げられている。
国家間で武力を用いて権益争いをしている状態を「戦争」という。
先日記事にした「核兵器禁止条約」の参加国間の温度差などは、それを象徴する出来事である。
戦争の難しいところは、突き詰めると個人の「愛」に端を発する点である。
以前にも紹介したタモリさんの言葉だが
「LOVEさえなければ、PEACE」。
何かを愛する、守るという感情がなければ、争いは起きず、自然「平和」の状態になる。
愛し守る対象さえなければ、何を奪われても何の感情も湧かないのだから、当然である。
先の戦争への解釈としても、個人単位で考えれば、それぞれ自分の大切な何かを守るために、両国の人間は動いた。
例えば特攻は、自分の命を優先順位の二番手以降にしないと成り立たない。
その時の優先順位の一番目は、自分の命を越える何か、守る対象である。
しかし、「愛」によれば相手の命を奪っていいかという問題は全く別である。
「愛」と「平和」によって爆撃をしたのだ、と言われても、命を奪われた側が納得いくはずがない。
愛する者を守るためだ
戦争を終わらせるためだ
単なる実験だった
どの理由だろうが、愛する者を無情にも奪われたという本質から見れば同じことである。
「致し方なかった」理由を並べて正当化を試みても、やはりその個人の恨みは消えない。
結局、戦争は両者の(特に個人である一般市民の)恨みしか残さない。
一般生活レベルで言うと、何をどう言おうが、他人のものを奪ったりいじめたりしていい理由にはならないのと同じである。
戦争と平和について考えることは、学校教育で何を教えるかを考える上でも、大いに関係がある。
世界共通の教育テーマである。
2017年8月18日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
0 件のコメント:
コメントを投稿