終戦記念日に関連して、最近、読んだ本から考えたこと。
次の本を読んだ。
『しない生活』幻冬舎新書 小池龍之介 著
http://www.gentosha.co.jp/book/b7753.html
自分の次の新著(https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5)のテーマが「捨てる」なので、こういったテーマの本には関心がある。
この本の中で、次の文が心のフックにひっかかった。
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(引用開始)
つまり、ものごとは、公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。
この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。
(引用終了)
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人間というものは、「不公平」や「不平等」が気持ち悪くて仕方無いということである。
しかし、実際の世の中は不平等だし不公平だというのが現実である。
個人レベルでの不平等も、世界レベルで大きく見てバランスがとれている状態といえる。
私の尊敬する野口芳宏先生も
「安心・安定・秩序・格差。」と仰っている。
安易な平等主義は、むしろ危険であるという。
(こういうことを言うと「平等主義」という「常識」に叩かれるから普通言わないのだが、それを言い切るのがすごい。)
「justice」の語幹「just」は天秤の釣り合いを示す。
前にも紹介したことがあるが、タロットカードのNo.11「justice」の絵柄は、天秤と剣を持った「裁判の女神」の姿である。
裁判とは、物事を測る天秤が「正義」の水平を示すようバランスをとる行為に他ならない。
つまり、罪の深い者に「正義の剣」で罰を与え、他方に利益をもたらすことで、両者のバランスをとろうとするものである。
難しいのは、その「正義の剣」を誰がふるうかという点である。
歴史上では、「正義の剣」を持つものは、常に強者、勝者である。
日本は、降伏宣言を1945年8月15日にした。
しかし、当時の敗戦国に「正義」の権利はない。
ロシアが「そんなの知らない」といえば、ロシアの「正義」が通る。
北方領土問題の解決の難しさは、「正義」の所在の違いである。
今、「正義の剣」は、どの国が握っているのか。
言わずもがな、アメリカ合衆国に他ならない。
世界中のどの国も、アメリカを無視しての国政は有り得ない。
日本にとっても、アメリカの「核の傘」の恩恵は無視できないし、下手に沖縄から米軍を撤退させられない。
自衛隊の米軍への後方支援としての「人道支援」とは何なのかという、安保問題の難しさもある。
結局、日本はアメリカの「正義の剣」によって、「平和」のバランスをとっているのが実情である。
つまり「平和に向けた正義の戦い」というのは、世界レベルの視点からいうと、有り得ない。
ある特定の国の視点でしかない。
そもそも英語の「justice」と日本語の正義という言葉はイコールではない。
日本語の「正義」には「人間行為の正しさ」という意味がある。
戦争に「justice」はあっても「正義」はない。
文化の違いである。
終戦記念日は、日本という国の在り方について考える機会にしたい。
2017年8月16日水曜日
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