次の本を紹介する。
『現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来』
末松裕基(編著) 春風社
http://shumpu.com/archives/8819
前号で紹介したEdCampの際、参加者の一人の方が紹介してくれた本である。
ご存知の通り、私は自分のためにわざわざ人が教えてくれた本は即買いすると決めているので、その場でネット注文した。
さすが「是非」と薦めてくれた本だけあり、面白い。
現代の学校の抱える様々な問題が凝縮されて提起されている。
その中の一つに「超学校社会」という章がある。
勝手に自分なりに要約してみる。
1.世界の「学校に行かない」状況には大別して2種類ある。
①行きたいのに環境が整わない場合
②環境は整いすぎているが行かない場合
前者の代表が紛争地域や貧困地域、後者の代表が不登校。
(私見だが、仕事にも全く同様のことが言えると思う。)
2.超学校社会の一つとして「スクール・コミュニティ」の概念。
地域に開かれた学校、という発想を更に進化させ、地域が学校そのものになる。
これからの時代、学校の存在意義そのものが変わる。
学校に通わなくても学べる時代は既に来ている。
「学校に通うよりYouTubeで有名講師に学んだ方が手っ取り早い」という人もいる。
だとしたら、学校の存在意義は何なのか。
地域が学校になるという発想。
スウェーデンの過疎化地域の復活の好例が挙げられている。
例えば給食は街のレストランからの提供で、図書室は街の図書館でもある。
体育館は放課後から地域の映画館になるという。
住民の利用するあらゆるサービスが集まった場が「学校」。
普通にランチに出かけたら、我が子が同じ場で食事しているというような状況である。
風邪を引いて病院に行ったら、我が子も医師に手当を受けていたというような状況である。
地域密着というより、地域がそのまま学校である。
そうなってくると、教師の在り方も変わってくる。
教師という立場は何を求められるようになるのか。
当然だが、最も求められるのは専門的な授業である。
しかも、地域の専門家や学者と連携した、ネットでは代用できない人と人とがつながる生の授業である。
今の日本の教師は、このスウェーデンの例の逆をいっている。
多くの業務を求められすぎていて、本業を見失っている感がある。
本業の授業者以外に、S.E.であり会計士であり警備員であり警察官であり心理カウンセラーであり研究者であり職業相談所でありスポーツクラブのコーチである。(立場によっては、もっともっとある。)
しかも、そんなに「兼業」したら、どれも「中途半端」にならざるを得ない。
どの業務も本職のプロにはかなわない。
こちらの本業「教師」は、授業で子供に力をつけるのが仕事である。
何でも屋をやっている間に、本業である授業の準備に時間が割けない異常事態である。
ここを無視して「スウェーデンやフィンランドの教育を見習え」と言われても無理である。
夕方には家族全員が揃うのがスタンダードの国とは、業務内容と量が全く違う。
毎日が「本業に力をかける余裕のない緊急事態」である。
(行政的には新たな業務はこれから更に増え、減らされる案はない。
この時代に教師になろうという若者は、それだけでもう「宝物」である。)
授業同様、学校の教師に専門性が強く求められるのが「学級経営」であるが、こちらにも時間を割けない異状事態。
外部からは簡単そうに見えて、その業務の複雑さは筆舌に尽くし難いものがある。
「切り返しの技術」ぐらいは身に付けておかないと、いつ倒れるかわからない状況である。(さらっと宣伝。)
しかし、この学級の在り方すら、今後は急激に変わってくるだろう。
学ぶこと自体は地域でも自宅でも可能になる以上、学級は教科を学ぶ場としてより、コミュニティとしての色合いが今より強くなる。
つまり、人と人とをつなげる場としての学級、意見を交換する場としての授業がより強く求められるようになる。
結論は出ないが、今後は少なくとも今の「アクティブ・ラーニングへの転換」以上の大変身が求められる。
今までの「ゆとりと学力」の振り子のように、揺れ戻ることはない。
学校の教育内容というソフトの変化ではなく、社会というハード自体の在り方が変わる。
変革への困難は間違いないが、逆に今の現状に疑問を抱く教師たちにとっては、やり甲斐のある話だとも言えそうである。
2017年2月25日土曜日
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