教師の仕事の大きな部分は、授業をすること。
それ以前に学級づくりも、大切な仕事である。
内実が大切である。
つまり、何をねらって授業をしたり、学級づくりをしているかである。
例えば、算数の授業。
四則演算ができるようにする。
これは大切であるが、いうなれば「教科内容」である。
もっと大きな視点でみると、「学校教育内容」というものがある。
学校教育のねらいからすれば、社会で生きる力を身に付ける必要がある。
算数でも何でも、その力はつけられる。
どの教科でも絶対に外せないのが「礼儀」の指導である。
礼儀というと、堅苦しくきこえるかもしれない。
突き詰めると、礼儀とは「人を大切にすること」に尽きる。
算数の授業で問題を解き、教師のところへ持ってこさせる。
その時に、教師に無言で差し出して、無言で帰るというのを普通にしているとする。
これは、一つの教育である。
つまり、教師を人としてみなさなくてよいという学習になる。
自動販売機とかと同じである。
そういう子どもに対し、私は冗談半分で「ドウゾ。ヨクデキマシタ。」とロボっぽくノートを渡す。
または無言で○や×をつけて返す。
(通常は必ず一声称賛や励ましの言葉をかける。)
その後で、次のように話す。
「今、無言でノートを返された人たちは、理由を考えてください。
私は機械じゃありません。
人間です。
人間相手に、無言でものを渡すのですか。
人を、自動販売機か何かと勘違いしていませんか。
そういう人に限って、自分を大切にしてくれないと、やたらに騒いだり陰で文句を言ったりするものです。
そういう人を、わがまま、身勝手といいます。
私はあなたたちを、人間だと思っています。
だから、一人の人間として対応します。
みなさんも、私を人間だと認めるなら、そうしてください。」
きついようだが、大局的にみると、これは「優しさ」に含まれると思う。
間違えているので、その場で正す。
間違えていること自体に気づいていない訳である。
礼儀以前の問題で、知らないのである。
放っておけば、そのまま大きくなるわけで、人から「無愛想な奴だ」と思われる。
それは、不本意な話である。
結局、困るのは本人である。
教える側は、一時的に疎まれり、面倒がられたり、あるいは嫌われたりもするかもしれない。
それでもやる。
口うるさいと思われても構わない。
やることをやる。
なぜなら、それが自分の役割であり、仕事だからである。
子どもが悪くなったら、マイナスの教育なのである。
大局的に見て、社会に出た時に良いと思われる方向に導く。
子どもにも保護者にも、おもねらない。
言うべきことは言う。
志を持って、仕事にあたりたい。
2016年6月13日月曜日
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