「こうすると絶対うまくいく」というハウツーはない。
その時、誰が、誰に、どんな状況なのかによって、使う手法が変わる。
特に「誰が使うか」は外せない要素である。
以前にも書いたが、名人の手法をただ一挙手一投足、一字一句真似てやってみても、うまくいかない。
イチローの「振り子打法」を徹底的に研究してコピーしても、全然打てないというのと同じである。
「振り子打法」はバッティング手法の一つで、素晴らしい打率を生み出している事実はあるが、かなりの離れ業である。
難しすぎて、普通の人には使いこなせない。
「守破離」の「離」に当たる部分である。
「守」の基本的なバッティング練習を徹底して、「破」で自分流にして練習し続け、初めて至る境地である。
初心者がいきなり真似しても、全く参考にならず、場合によってはフォームが乱れて害悪にすらなる。
教育界でも「名人」と呼ばれる人の手法をそのまま真似しても、大火傷することが多い。
例えば社会科の名人、有田和正先生の実践を、教材研究はほどほどに表面的に真似してみるとする。
意見がとんでもなく拡散して、とてもではないが対応できない。
ぐちゃぐちゃのまま終了である。
または、出た意見を無視して、無理矢理教師の解に落ち着けるのがオチである。
どんな意見にも対応できる深い教材研究と対応力に裏打ちされて、初めて成立する。
本気で学んで真面目にやれば、少しずつ理想に近付くことは可能である。
しかし単なる「うまくいく方法」を求めて真似すると、がっかりでは済まない悲惨な結果になるかもしれない。
(この辺りがわかっておらず、名人芸に対し「〇〇先生の方法は全然ダメ」と吹聴する残念な人も、中にはいる。)
手法は、使い手がつかいこなせることがまず第一である。
次に、使う相手も考える。
「追究の鬼」を目指して何年も鍛え上げられてきた子どもと、初めて追究活動をする子ども相手では、当然やり方が変わる。
ただ、特に学びの初期は、たくさんの手法を知ること自体は大切である。
それで、火傷する経験も避けられない。
何はともあれ、やってみること。
うまくいかない点を、修正して、またやってみること。(または、合わないと思って見切ること。)
その繰り返しで、初めて自分の「技」として身についていけるのではと思う次第である。
2015年9月21日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
0 件のコメント:
コメントを投稿