「こうあって欲しい」という姿がある。
それに対し、直接的に「○○しなさい」と指導することもあり得る。
一方で「○○して欲しい」という言い方もある。
二つは似ているが違う。
前者は主語が相手で、後者は自分である。
今回は、後者の言い方もきちんとしていこうという主張。
「姿勢を正して」という号令は相手への命令だが、「子どもの姿勢を正そう」というのは、自分の願望である。
どちらも、「姿勢を正すことは良い」という価値観が根底にあるが、伝え方が異なる。
学級経営は、指導という名の要求の連続である。
係の仕事、授業中に話を聞くこと、指導を素直に受け容れることまで、全て主体は子どもの側にある。
どれもやってくれないと、担任側が困る。(そして担任が困ることは、結果的に子どもが困る。)
担任の方が権限が強いように見えるが、実質、子どもに選択権がある。
集団で選択権の濫用をした状態が、学級崩壊である。
権利の全てを自己主張に使っている状態である。
(この状態は結果的にお互いが不利益を被り、結果全員が不幸である。)
だから「自分はこうして欲しい」という思いを、日常的に伝えていく必要がある。
さらに言うと、なぜそうして欲しいかも伝える必要がある。
「あなたの将来のためを思って」と言われても、受け容れられない。
特に、あまり信頼できない人がそのように言ってきても、胡散臭いだけである。
一方で、「自分はこういう思いがあって、あなたにこうして欲しい」と言われれば、話は別である。
なぜそうして欲しいかがわかるから、選択の際に一考できる。
その理由に納得できなければ従えないこともあろうし、納得できれば進んで従える。
「ルールを守りなさい」ではなく、
「ルールを守れないと、私もあなたも周りの人もこんな風に困るから、守って欲しい」と伝える。
「掃除をしなさい」よりも、
「掃除を一生懸命やる人は、人が面倒くさがることを進んでやれる人だから、私はそういう人を信頼する」と伝える。
要は好みの問題なのかもしれないが、子どもからすればどんな価値観を持った人なのかわかりやすい。
その上で、ついていくかついていけないか判断できる。
立派なことばかり言って「先生面して」と思われるよりいい。
だから、ダメなところも多少見せる必要もある。
そういうのも見た上で、やはりついていきたくないと判断されたら、それも仕方ない。
万人受けを狙う必要はなく、ただ自分はこういう人間で、こういう風に考えていると伝える。
学級担任にはある意味「わかりやすさ」が必要である。
何を考えているかわからない人間についていくのは怖い。
だから、自己開示をする必要がある。
普段から、価値観を開示して伝えていく。
よく道徳授業への批判で使われる「価値の押しつけ」ではなく、あくまで自分はこう考えていると伝える。
自分の学級経営の肝になる部分ではないかと思い、紹介してみた。
2015年2月2日月曜日
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