指導と支援のバランスについて。
この二つは、似ているようで違う言葉である。
指導は、現在地より高みを指し示し導くことで、主に教育の分野で使われる用語。
一方で支援は、支える、援助するという意味。
困っている状態から通常の状態になるまで、手を差し伸べて上げることを指す。
介護や軍事などでも使われる用語である。
つまりクラスの「気になる子」は、他の子どもに比べ、指導よりも支援の割合が高めになる。
通常なら問題なく通過できるところで、ひっかかるからである。
具体的な例でいくと、算数なら問題を一緒に解いてあげるといったことになる。
もっと根本的なところだと、休み時間に教科書とノートの用意を手伝ってあげるといったことも支援にあたる。
「算数ができない」という子どもは、算数の学習内容の理解不足だけが問題なのではない。
・ものの準備自体ができない
・はさみやのりを用いた操作活動が苦手
・視点の移動が苦手(黒板の文字のように、自分から遠いところに書かれた文字をノートに写せない)
・落ち着いて座っていられない
など、複合的に問題を抱えていることが多い。
だから、特別な支援をしてあげる必要がある。
逆にいえば、能力的に高い子どもに関しては、指導の割合を高めにする。
具体的な例でいくと、算数なら発展問題を解かせるとか、自分で問題を作らせるといったことが挙げられる。
より詳しい説明を求めたりするのも指導である。
指導しないと、現在のレベルにとどまってしまうからである。
支援は外面へ直接的に、指導は内面へ間接的に、というイメージである。
直接手を出すか、手を出さないで指し示すか、というイメージともいえる。
すべての子どもが学習に参加できるようにする。
子どもによって指導と支援のバランスを変えることが、結果的に「公平」な扱いとなる。
生活全般でいうと、低学年の子どもは、何をどうしていいかわからないことが多い。
だから、支援の割合が高くなる。
一方、高学年の子どもは、自分で動いてできることが多い。
だから、指導の割合が高くなる。
中学、高校になれば指導でも支援でもない「見守る」の割合が高くなるだろう。
関連して、次の言葉を紹介する。
子育て四訓(『日本時事評論』H.P.より引用)
乳児はしっかり肌を離すな
幼児は肌を離せ 手を離すな
少年は手を離せ 目を離すな
青年は目を離せ 心を離すな
けだし、名言である。
2015年2月11日水曜日
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