教師と子どもの関係について。
教師と子どもの関係に「信・敬・慕」の3つがあることが望ましい。
(例の如く、この言葉は野口芳宏先生の教えである。)
しかし、実際問題として、教師だから信頼・尊敬されるということはない。
教師だから慕われるということもない。
これは、一般社会における通常の人間対人間の関係と同様である。
ただ、役割として考えた時、教師は適切に指導し、子どもはその指導に従うのが望ましい。
社会なら、職務上であれば、上司の命令に従うのが原則。
基本的に、選択はできない。
そう、「基本的に」である。
実際問題として、役割に、感情が絡む。
指導に従うべきだが、従いたくないという感情。
原因を考えると
1 取り組むべきものへの好き嫌い
2 一緒に取り組むメンバーへの好き嫌い
3 指導者への好き嫌い
4 心身の調子の良し悪し
等々、いくらでも考えられる。
だから、役割として選択できないはずのことに、誤りが起きる。
例えば、義務教育という点で考えた時、学校に行くかどうかに選択肢はないが、行きたくないという感情は起き得る。(大人の仕事も同様。)
感情に理性が負ければ、休むことになる。
正しくはないが、現実にはそうなる。
世の中が正しいこと(=道徳)で通らないのは、感情が最終的に個人の「正義」を規定するからであると考える。
「これがいい」の規準を決められるのは、最終的に本人だけである。
「価値の押しつけ」批判をはじめとする道徳の評価が難しいという点がここにある。
(つまり、「正義」は実際には、個人内でのみ存在し、通用する。
他者にとって自分の「正義」は、害悪にすらなり得る。)
そう考えると、役割としてだけでなく、感化・影響者としての教師を考える必要が出る。
「これがいい」という教師の指導に、進んで共感しようという感情が起きるかどうか。
そこには「信・敬・慕」がどうしても必要になる。
授業をすれば知識の伝達はできるかもしれないが、信・敬・慕なくして相手の中には入らない。
「信・敬・慕」がなくても、指導自体はできる。
ただ、指導効率が著しく落ちる。
(あるいは、マイナスに働く。)
子どもとの間に「信・敬・慕」の関係を築くのは、実質上、教師という役割の義務である。
次号では、どのようにその関係を築くかを考えていく。
2015年2月25日水曜日
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