今回は需要の高い8の字跳びの話。
縄にタイミング良く入れない子どもがいる。
必ずいる。
いない方が珍しい。いなかったら異常事態ぐらいに思ってよい。
それぐらいに当たり前に何人もいるのが普通である。
というより、うまく入れないのが普通だと思った方が良い。
タイミングがわからないといった知識や技能的な問題もなくはないが、一番の原因は恐怖感。
恐怖感も大きく二つ。
1.身体的苦痛への恐怖
2.精神的苦痛への恐怖
低学年から高学年になるほど1から2に移っていく。
低学年の内は縄無しで跳んだり「へび」などの遊びをしたりして、動きの基礎作りを「痛くない状況」から始める。
縄も大きく回すことで空間的・時間的余裕を作り、体に当たる確率を減らす。
ついでに、体育館より外の方が縄が地面に当たる音がしないので、精神的恐怖感も減る。
とにかくわかっていなくて技能的な面が未熟なので、まずはそちらを重視する。
高学年では、縄が当たる痛み自体は大した恐怖でもない。
問題は、精神的苦痛を受けることへの恐怖。
「ミスはいけないこと」
「自分だけができない」
「自分が足をひっぱっている」
「みんなはどう思っているのだろう」
・・・・・・
真面目な子どもほど深く悩む。
これを取り除けるのは、クラスの仲間の力しかない。
本人の努力だけでは無理である。
(そもそも真面目に努力するタイプだから悩むのである。)
苦戦している人の前後に割と得意な人ではさみ、後ろの人が軽く押してあげる。
これは主に技能的なサポート。ここも必要。
より大切なのは、他の全員の仲間からの声かけ。
ひっかかっても、縄に飛び込んだこと自体をO.K.とする。
全肯定する。
跳べたかひっかかったかということすらどうでもいい。
飛び込んだ時点で勇気を発揮したのだから、そこに価値がある。
全て「トライ&エラー」の繰り返しであり、トライするごとに成長すると考える。
ゲームでいう「経験値」の獲得である。
エラーも成功へのステップでしかない。
そういう視点を、担任が率先垂範して声かけしながら、クラス全員に共有させる。
そもそも縄に入れない前提に「ひっかかってはいけない」という「思い込み」がある。
全ての失敗恐怖症の原因は、失敗してはいけないという前提。(=挑戦しないのが安全。)
ひっかかっていい。
そこはどうでもいい。
そうじゃなくて、飛び込む勇気のみにまずは価値を見出す。
ひっかからないようにするにはどうするかは、飛び込めるようになった後にみんなで考えればよい。
具体的には「ドンマイ!」よりも「オッケー!」「ナイストライ!」である。
「いいね!」や「やった!」でも、肯定語なら何でもいい。
(「ドンマイ!」は主にうっかりなミスをした時の励ましに用いる。)
ひっかかっても、本当に喜べるようにしていく。
担任なら、子どもの勇気ある行動に心から称賛をおくれる。
そこについてきてくれる子どもが必ずいる。
それが、インフルエンザよりはるかに強い感染力で、どんどん広がる。
8の字跳びは学級経営そのもの。
みんなが「楽しい」と思える取り組みにしていきたい。
2014年2月20日木曜日
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