次の本を読んだ。
『ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』
おおたとしまさ著 ディスカヴァー携書
本のタイトルからして強烈である。
著者は、家庭教育や受験に興味のある親であれば、聞いたことがある人も多いかもしれない。
現場の教員には絶対に書けない刺激的なタイトルである。
ちなみに帯には次の言葉が書いてある。
================
「あなたのため」は呪いの言葉
何が「過度に教育熱心な親」を駆り立てるのか?
================
刺激的である。
さて、内容だが、タイトルの刺激以上に、実に丁寧なルポルタージュである。
教育虐待を受けた子どもだけでなく、その兄弟や親までを公正な視点で追っている。
また「子育てベストセラー本」や一般的に良いとされている教育手法への疑問も呈しており、一読の価値がある。
全体を通しての自分なりの気付きがあった。
それは
大人のコンプレックスが全ての虐待を生む
ということである。
大人の側にある種の見栄があるとする。
よく見られたい。
他人より優位に立ちたい。
そのための自己実現の道具として、子どもが利用される。
それが、教育虐待の始まりである。
「しつけ」と称する暴力行為もこれに当てはまる。
自分の思い通りに相手を変えたいから、暴力をふるう。
あるいは、周りから自分のしつけが悪いからと思われるのが嫌だから、子どもに暴力をふるったり圧力をかける。
特に専業主婦の場合、夫がうるさい、姑がうるさい等、周囲の雑音が大きいほど、こうなりやすい傾向があるらしい。
すべて、根本は大人の見栄とコンプレックスである。
私は基本的に、教育に関心が高い親の方がよいと思っている。
子どもを「授かりもの」として、ある種「自分とは別の個人」として捉え、本当の意味で「子どものため」を考えているなら素晴らしい。
しかし、この関心の高さが、見栄や私心によるものだと、激しくマイナスである。
かけ算でマイナスをかけると、絶対値が大きい分だけマイナスが大きくなるということと同じである。
それなら、関心が低い方がマシである。
(これはそのまま、教員にも当てはまる。)
自分は、毒親、毒教師になっていないか。
自分のやってきたことにある程度の自信がある人ほど、一読をおすすめしたい本である。
2019年9月29日日曜日
2019年9月28日土曜日
教育における「ハウツー」は通用するか
「こうすればこうなる」というのが「ハウツー」である。
ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。
ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。
これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。
「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。
タイプとは、類型化である。
例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。
大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。
しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。
教育書や育児本などの教育ハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。
似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。
違う人間なのだから当然である。
兄弟は違う性格に育つ。
同じ親が育てているのにも関わらずである。
「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。
よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳の時点で全く違う。
つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる「種」が違うと考える。
当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。
胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。
実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る。
(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する。)
多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。
均質ほどつまらないことはない。
ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。
競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。
しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。
公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。
協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。
独自の個性を発揮して、他と調和することである。
ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある。
(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。
「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる。)
多種多様な個性の育成。
これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。
ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。
ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。
これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。
「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。
タイプとは、類型化である。
例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。
大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。
しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。
教育書や育児本などの教育ハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。
似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。
違う人間なのだから当然である。
兄弟は違う性格に育つ。
同じ親が育てているのにも関わらずである。
「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。
よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳の時点で全く違う。
つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる「種」が違うと考える。
当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。
胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。
実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る。
(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する。)
多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。
均質ほどつまらないことはない。
ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。
競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。
しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。
公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。
協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。
独自の個性を発揮して、他と調和することである。
ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある。
(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。
「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる。)
多種多様な個性の育成。
これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。
2019年9月27日金曜日
学校の常識を見直す
学校の常識への疑いについて。
諸外国の学校では、道徳の授業がない。
宗教があるので、そこが担保しているといえる。
日本の学校でも、ミッション系の学校などでは、神様について学ぶ時間があるという。
常識というのは、宗教が担保する部分が大きい。
各宗教の中で、例えば「愛」「隣人に優しくすること」「生かされていることへの感謝」「労働への感謝」などが教えられる。
道徳の内容はほぼ全て網羅される。(しかし、全ての国でその道徳的な行為をする国民が育っているかは別問題である。)
一方で宗教というのは、為政者にとって都合のいいように捻じ曲げられて利用されている部分もある。
「その地位に生まれたら、そこに感謝して労働をして生きるのが正しい」
「貧しくてもいい」という信念は、為政者にとって大変都合がいい。
反乱を防げるからである。
一部の権力者が利益を貪ることにもつながる。
これらの考えを踏まえて、学校の常識に戻る。
学校の常識を規定しているのは何か。
例えば中学や高校の校則などは、誰かにとって都合がいいようにできている。
校則のない小学校でも「常識」「当たり前」「いつもそう」が、誰かにとって都合のいいようにできている。
誰にとってなのか。
学校の存在価値は、子どもにある。
つまりは、児童・生徒にとって都合がいいようにできているはずである。
・・・そうかな?という疑問の声が子どもたちから当然上がる。
子どもにとって都合のいい常識、というのもない訳ではない。
「全ての教育活動において、子どもの安全に配慮するべき」というのは、望ましい常識である。
一昔前は、ここがないがしろにされていた感も否めない。
部活動においても、死ぬほどきつい訓練が「常識的」に行われていた時代もあったし、体罰が当然という時代もあった。
これらの常識は、時代の流れに沿って、望ましい形で変わっていったものといえる。
つまり「常識は変化する」ということが常識にとっての一つの命題である。
一方で、変化していない常識もある。
学校には、この方が多い。
昭和(あるいは明治・大正)の頃から未だに変わらない、という類のものは、全てこの「変化していない常識」である。
常識というのは、誰かしらに都合がいいから定着した訳である。
あるいは、不易のものとして本当に価値があるから定着していることもある。
一体、その常識やルールは、誰にとって都合がいいのか。
子どもにとってのものであれば、それは問題ない。
しかしもしそれが、大人にとっての都合、大人にとっての安心感のためであれば、それは見直すべき常識やルールである。
諸外国の学校では、道徳の授業がない。
宗教があるので、そこが担保しているといえる。
日本の学校でも、ミッション系の学校などでは、神様について学ぶ時間があるという。
常識というのは、宗教が担保する部分が大きい。
各宗教の中で、例えば「愛」「隣人に優しくすること」「生かされていることへの感謝」「労働への感謝」などが教えられる。
道徳の内容はほぼ全て網羅される。(しかし、全ての国でその道徳的な行為をする国民が育っているかは別問題である。)
一方で宗教というのは、為政者にとって都合のいいように捻じ曲げられて利用されている部分もある。
「その地位に生まれたら、そこに感謝して労働をして生きるのが正しい」
「貧しくてもいい」という信念は、為政者にとって大変都合がいい。
反乱を防げるからである。
一部の権力者が利益を貪ることにもつながる。
これらの考えを踏まえて、学校の常識に戻る。
学校の常識を規定しているのは何か。
例えば中学や高校の校則などは、誰かにとって都合がいいようにできている。
校則のない小学校でも「常識」「当たり前」「いつもそう」が、誰かにとって都合のいいようにできている。
誰にとってなのか。
学校の存在価値は、子どもにある。
つまりは、児童・生徒にとって都合がいいようにできているはずである。
・・・そうかな?という疑問の声が子どもたちから当然上がる。
子どもにとって都合のいい常識、というのもない訳ではない。
「全ての教育活動において、子どもの安全に配慮するべき」というのは、望ましい常識である。
一昔前は、ここがないがしろにされていた感も否めない。
部活動においても、死ぬほどきつい訓練が「常識的」に行われていた時代もあったし、体罰が当然という時代もあった。
これらの常識は、時代の流れに沿って、望ましい形で変わっていったものといえる。
つまり「常識は変化する」ということが常識にとっての一つの命題である。
一方で、変化していない常識もある。
学校には、この方が多い。
昭和(あるいは明治・大正)の頃から未だに変わらない、という類のものは、全てこの「変化していない常識」である。
常識というのは、誰かしらに都合がいいから定着した訳である。
あるいは、不易のものとして本当に価値があるから定着していることもある。
一体、その常識やルールは、誰にとって都合がいいのか。
子どもにとってのものであれば、それは問題ない。
しかしもしそれが、大人にとっての都合、大人にとっての安心感のためであれば、それは見直すべき常識やルールである。
2019年9月25日水曜日
子どもファッションの記号を読み解く
髪染め問題に関連して、ファッションの読み解き方や対応について。
持論だが、ファッションは、記号である。
つまり、「自分はこういう人間だ」「こう扱かって欲しい、見て欲しい」という外的アピールである。
「ファッションに無頓着」というのも一つのファッションである。
つまり「外見に判断を左右されない人間だ」というアピールになる。
スーツや制服も記号である。
「社会的安定」を表す。
スーツや制服を着崩すというのは、社会的安定へのアンチというメッセージになる。
(単に着方やマナーを知らないというのは別問題である。)
染めた金髪も記号である。
周りがそうでないからこそ、反社会的メッセージになる。
「周りの普通とは違う」というアピールになる。
みんな金髪が普通の文化の中では、そのアピールができない。
また、マンガやドラマのキャラクターやアイドルに憧れて染めたい、そういう髪型にしたいということもある。
いずれの場合にせよ、発したいメッセージと、受け取る側のメッセージに齟齬が生まれる可能性がある。
例を挙げる。
「木更津」というとどういうイメージがあるだろうか。(全く知らない人もいるかもしれない。)
元々は、「証城寺の狸」のイメージであり、現に木更津市内にあるマンホールの蓋はどれも証城寺の狸と歌詞の絵柄である。
しかし某映画で有名になったお蔭で、それよりも「ヤンキー」のイメージが強くなったように思う。
だから、木更津では、アイドルも含め、チラシやポスターでも割とヤンキーファッションが多い。
昭和の暴走族の「夜露死苦」なイメージである。
しかし、外国人の考える日本人のちょんまげ問題と同じで、木更津の一般人には、そんな恰好をした人はもちろんいない。
これは一つの「木更津的」という記号であり、文化である。
木更津の一般人的には完全に誤解なのだが、「ヤンキー」は木更津(あるいは横浜)を示す記号である。
(お陰で、一部の人々の中で「木更津は家庭が荒れてるらしい」という誤解があることが判明。もはや完全にネタである。)
だから、ヤンキーファッションをすれば、それだけで「木更津っぽい!」ということをアピールできる。
(木更津の狸のご当地キャラを一度リーゼントにさせたいと思っている木更津市民は、私だけではないはずである。)
つまり木更津市内で荒れてる風を目指してヤンキーっぽい感じにすると、ネタっぽくなってしまい、本当に荒れてるアピールはしにくい。
何が言いたいかというと、教師は子どものファッションを「記号として受け止める」という姿勢で読み解く必要がある、ということである。
例えば高学年女子相手であれば、その奇抜さは「おしゃれに見せたい」のか、「荒れてる」アピールなのか。
読み解き方で、対応が変わる。
割とよくあるのが、夏でも長袖や厚着、フードを被る、マスクを取れないといったパターン。
内に籠っている。(日光に当たってはいけないという理由等のこともあり、その場合は別。)
外と関わりたくない、あるいは身体を見せたくないという思いがあり、そのアピールである。
無理に外させると、心理的に不安定になる。
理解して見守る姿勢が必要かもしれない。
余談だが、海外では外でマスクをしていると、怪しい人と警戒されるそうである。
マスク常用は、旅館の浴衣で出歩くのと同様、日本国内でのみ通用する「常識」である。
閑話休題。
つまりは、ファッションという記号から、感じるままではなく、正しく相手の思いを読み解くということである。
特に低学年であれば、親の思いや方針も読み取れる。
いわゆるきちんとした恰好をさせているようなら、そういう風に育って欲しい、見て欲しいという願いになる。
何日も同じ服を着ている場合はどうか。
この場合の読み解きには、全く異なるパターンがある。
一つは、こだわり傾向の可能性。
自閉症スペクトラムの特徴の一つで、子どもが他の服を嫌がってそれしか着ないのである。
(あるいは単に幼児性がまだ強く、こだわっていることもある。)
親は苦労して毎日洗濯&乾燥をしている、あるいは2着以上同じものを用意している。
学校生活でも、そういう傾向がある可能性を考えて接する必要がある。
もう一つは、ネグレクトの可能性。
着るものをまともに与えられていない。
この場合、大抵は洗濯していないので、臭いが判断基準の一つとなる。
虐待の可能性を含めた丁寧な対応が必要である。
ちなみにここと関連して、公立小学校でも制服という場合があるが、これはいじめから守るための手段ということもある。
制服であれば、家庭の経済格差が表に出ない。
お坊ちゃん、お嬢様風にするためではなく、「配慮の制服」である。
制服というもののもつ、一つのプラス効果である。
ファッションは記号。
これは当然、教師の側にも当てはまる。
自分がどんな風に見られたいと思っているのか、あるいはどんな風に見られているか。
改めて観察してみると、新たな発見があるかもしれない。
持論だが、ファッションは、記号である。
つまり、「自分はこういう人間だ」「こう扱かって欲しい、見て欲しい」という外的アピールである。
「ファッションに無頓着」というのも一つのファッションである。
つまり「外見に判断を左右されない人間だ」というアピールになる。
スーツや制服も記号である。
「社会的安定」を表す。
スーツや制服を着崩すというのは、社会的安定へのアンチというメッセージになる。
(単に着方やマナーを知らないというのは別問題である。)
染めた金髪も記号である。
周りがそうでないからこそ、反社会的メッセージになる。
「周りの普通とは違う」というアピールになる。
みんな金髪が普通の文化の中では、そのアピールができない。
また、マンガやドラマのキャラクターやアイドルに憧れて染めたい、そういう髪型にしたいということもある。
いずれの場合にせよ、発したいメッセージと、受け取る側のメッセージに齟齬が生まれる可能性がある。
例を挙げる。
「木更津」というとどういうイメージがあるだろうか。(全く知らない人もいるかもしれない。)
元々は、「証城寺の狸」のイメージであり、現に木更津市内にあるマンホールの蓋はどれも証城寺の狸と歌詞の絵柄である。
しかし某映画で有名になったお蔭で、それよりも「ヤンキー」のイメージが強くなったように思う。
だから、木更津では、アイドルも含め、チラシやポスターでも割とヤンキーファッションが多い。
昭和の暴走族の「夜露死苦」なイメージである。
しかし、外国人の考える日本人のちょんまげ問題と同じで、木更津の一般人には、そんな恰好をした人はもちろんいない。
これは一つの「木更津的」という記号であり、文化である。
木更津の一般人的には完全に誤解なのだが、「ヤンキー」は木更津(あるいは横浜)を示す記号である。
(お陰で、一部の人々の中で「木更津は家庭が荒れてるらしい」という誤解があることが判明。もはや完全にネタである。)
だから、ヤンキーファッションをすれば、それだけで「木更津っぽい!」ということをアピールできる。
(木更津の狸のご当地キャラを一度リーゼントにさせたいと思っている木更津市民は、私だけではないはずである。)
つまり木更津市内で荒れてる風を目指してヤンキーっぽい感じにすると、ネタっぽくなってしまい、本当に荒れてるアピールはしにくい。
何が言いたいかというと、教師は子どものファッションを「記号として受け止める」という姿勢で読み解く必要がある、ということである。
例えば高学年女子相手であれば、その奇抜さは「おしゃれに見せたい」のか、「荒れてる」アピールなのか。
読み解き方で、対応が変わる。
割とよくあるのが、夏でも長袖や厚着、フードを被る、マスクを取れないといったパターン。
内に籠っている。(日光に当たってはいけないという理由等のこともあり、その場合は別。)
外と関わりたくない、あるいは身体を見せたくないという思いがあり、そのアピールである。
無理に外させると、心理的に不安定になる。
理解して見守る姿勢が必要かもしれない。
余談だが、海外では外でマスクをしていると、怪しい人と警戒されるそうである。
マスク常用は、旅館の浴衣で出歩くのと同様、日本国内でのみ通用する「常識」である。
閑話休題。
つまりは、ファッションという記号から、感じるままではなく、正しく相手の思いを読み解くということである。
特に低学年であれば、親の思いや方針も読み取れる。
いわゆるきちんとした恰好をさせているようなら、そういう風に育って欲しい、見て欲しいという願いになる。
何日も同じ服を着ている場合はどうか。
この場合の読み解きには、全く異なるパターンがある。
一つは、こだわり傾向の可能性。
自閉症スペクトラムの特徴の一つで、子どもが他の服を嫌がってそれしか着ないのである。
(あるいは単に幼児性がまだ強く、こだわっていることもある。)
親は苦労して毎日洗濯&乾燥をしている、あるいは2着以上同じものを用意している。
学校生活でも、そういう傾向がある可能性を考えて接する必要がある。
もう一つは、ネグレクトの可能性。
着るものをまともに与えられていない。
この場合、大抵は洗濯していないので、臭いが判断基準の一つとなる。
虐待の可能性を含めた丁寧な対応が必要である。
ちなみにここと関連して、公立小学校でも制服という場合があるが、これはいじめから守るための手段ということもある。
制服であれば、家庭の経済格差が表に出ない。
お坊ちゃん、お嬢様風にするためではなく、「配慮の制服」である。
制服というもののもつ、一つのプラス効果である。
ファッションは記号。
これは当然、教師の側にも当てはまる。
自分がどんな風に見られたいと思っているのか、あるいはどんな風に見られているか。
改めて観察してみると、新たな発見があるかもしれない。
2019年9月23日月曜日
本当は、きちんとしたい方なんだ。
災害復興支援ボランティア活動での学び。
千葉県各地は台風で大きな被害を受けた。
県内各地でボランティアセンターが立ち上がったので、私も参加させていただいた。
センターにはボランティアとしての心得が書かれており、冒頭に
「ボランティアは、させていただくという精神でのぞみましょう」
というように書いてあった。
この考え方が常識になってきたということである。
そして、参加させていただく度に、この言葉は本当だと実感する。
以下は、そこに関するエピソードである。
例のごとく、私が一緒にいるのは、南相馬へ定期的に活動を続けている「被災地に学ぶ会」のチームの面々である。
チームには見るからに職人の方もいるし、私以外は明らかに「慣れている感じ」の雰囲気の方々である。
そういうチームには、優先的に大変そうなところを回していただける。
今回の災害で多い依頼は「屋根が吹き飛んだから助けて欲しい」というパターンだったようである。
ニュースで流れている通り、ブルーシートを張るような作業である。
私たちの向かった先の家屋は、屋根の一部がなかったのではなかった。
屋根はおろか、二階部分の一部屋が、完全に「青空」である。
屋根の補修ではなく、雨風でめちゃくちゃになったものや、できればそれ以外のものも全て廃棄して欲しいという依頼である。
そして、一人暮らしの高齢者の男性宅である。
それも、奥様を亡くして久しいようである。
家の中がどうなるか。
想像がつくと思う。
(テレビでよく流れるあの状態である。あれは、やらせではなく、現実である。)
正直、私の中では「これは台風どうこう以前の問題では・・・」という思いがあった。
しかし、私のその浅はかな考えを叩き潰すような言葉を、60手前となるチーム最ベテランの方が仰った。
一階の、恐らくご主人の部屋であろう場所に、たくさんの古びたスーツがあった。
それを見て、次のように呟いた。
「きっと、この方は、本当はきちんとした方なんだ。
だけど、きちんとしたくても、きちんとできない状況だったんだよ。
だから、辛いんだよ。」
二階のものは全てめちゃくちゃだったので片っ端から捨てたが、かろうじて、タンスだけは無事だった。
タンスを開けると、中には、女性の洋服がきれいに整頓されて、ハンガーにかかって並んでいた。
まるで、昨日まで誰かが使っていたかのように、その中だけ、時が止まっているかのようだった。
見て一瞬の後、タンスの扉をそっと閉めた。
「ここだけは、中身も大丈夫みたいだから、手をつけないでおきましょう。」
ということで、タンスだけはそのまま残した。
チームの仲間の方のお陰で、自分の考えの浅さ、思慮のなさに気付けた。
人のことなど、本当は何もわからない。
自分の教えている子どもや保護者のことも、わかっているようで、わかっていないのである。
きっと、そのことを教えていただくために、この日は、このお宅に呼ばれたのかもしれない。
人間というのは、複雑である。
師の野口芳宏先生から教わった言葉に
「人間は、無限多面体である」
というものがある。
今回の件は、その意味を改めて考えさせていただける機会であった。
今回も、ボランティアに参加したのは、完全に自分のためである。
「人を助けてあげよう」等という優しい思いからではない。
自分の存在が何か一寸でも役立てられそうなら、自分のために自分を使いたいという思いだけである。
結局、願い通り、そういう結果になった。
自分のためになった訳である。
自分の他人への見方に、大きな誤り、偏りがあることに気付けた。
「誰かの何かをダメだと思ったら、自分の中に何かダメな部分がある」
ということである。
自分の目に、心に、映る全ては、鏡である。
その日の夜は、予報通り大雨が降った。
全国各地から集まってくださった方々の活動が、少しでも誰かの助けになれていたら、いい。
きっと、活動した方々の方の心も救われたと思う。
それだけでも、その日に日本が、世界が少し良くなったのではないかと思う。
千葉県各地は台風で大きな被害を受けた。
県内各地でボランティアセンターが立ち上がったので、私も参加させていただいた。
センターにはボランティアとしての心得が書かれており、冒頭に
「ボランティアは、させていただくという精神でのぞみましょう」
というように書いてあった。
この考え方が常識になってきたということである。
そして、参加させていただく度に、この言葉は本当だと実感する。
以下は、そこに関するエピソードである。
例のごとく、私が一緒にいるのは、南相馬へ定期的に活動を続けている「被災地に学ぶ会」のチームの面々である。
チームには見るからに職人の方もいるし、私以外は明らかに「慣れている感じ」の雰囲気の方々である。
そういうチームには、優先的に大変そうなところを回していただける。
今回の災害で多い依頼は「屋根が吹き飛んだから助けて欲しい」というパターンだったようである。
ニュースで流れている通り、ブルーシートを張るような作業である。
私たちの向かった先の家屋は、屋根の一部がなかったのではなかった。
屋根はおろか、二階部分の一部屋が、完全に「青空」である。
屋根の補修ではなく、雨風でめちゃくちゃになったものや、できればそれ以外のものも全て廃棄して欲しいという依頼である。
そして、一人暮らしの高齢者の男性宅である。
それも、奥様を亡くして久しいようである。
家の中がどうなるか。
想像がつくと思う。
(テレビでよく流れるあの状態である。あれは、やらせではなく、現実である。)
正直、私の中では「これは台風どうこう以前の問題では・・・」という思いがあった。
しかし、私のその浅はかな考えを叩き潰すような言葉を、60手前となるチーム最ベテランの方が仰った。
一階の、恐らくご主人の部屋であろう場所に、たくさんの古びたスーツがあった。
それを見て、次のように呟いた。
「きっと、この方は、本当はきちんとした方なんだ。
だけど、きちんとしたくても、きちんとできない状況だったんだよ。
だから、辛いんだよ。」
二階のものは全てめちゃくちゃだったので片っ端から捨てたが、かろうじて、タンスだけは無事だった。
タンスを開けると、中には、女性の洋服がきれいに整頓されて、ハンガーにかかって並んでいた。
まるで、昨日まで誰かが使っていたかのように、その中だけ、時が止まっているかのようだった。
見て一瞬の後、タンスの扉をそっと閉めた。
「ここだけは、中身も大丈夫みたいだから、手をつけないでおきましょう。」
ということで、タンスだけはそのまま残した。
チームの仲間の方のお陰で、自分の考えの浅さ、思慮のなさに気付けた。
人のことなど、本当は何もわからない。
自分の教えている子どもや保護者のことも、わかっているようで、わかっていないのである。
きっと、そのことを教えていただくために、この日は、このお宅に呼ばれたのかもしれない。
人間というのは、複雑である。
師の野口芳宏先生から教わった言葉に
「人間は、無限多面体である」
というものがある。
今回の件は、その意味を改めて考えさせていただける機会であった。
今回も、ボランティアに参加したのは、完全に自分のためである。
「人を助けてあげよう」等という優しい思いからではない。
自分の存在が何か一寸でも役立てられそうなら、自分のために自分を使いたいという思いだけである。
結局、願い通り、そういう結果になった。
自分のためになった訳である。
自分の他人への見方に、大きな誤り、偏りがあることに気付けた。
「誰かの何かをダメだと思ったら、自分の中に何かダメな部分がある」
ということである。
自分の目に、心に、映る全ては、鏡である。
その日の夜は、予報通り大雨が降った。
全国各地から集まってくださった方々の活動が、少しでも誰かの助けになれていたら、いい。
きっと、活動した方々の方の心も救われたと思う。
それだけでも、その日に日本が、世界が少し良くなったのではないかと思う。
2019年9月21日土曜日
「悪い子」は存在するか
「どうせ俺が悪いんだろ」
何か子ども同士でトラブルがあって事情をきく時に、よく口にする言葉である。
このセリフを口にする時は、目つきもいつもと全く違う。
(大人でも結構あるかもしれない。)
ここまではっきり言ってくれる子どもならわかりやすい。
自分のことをどう思っているのか。
認識としては間違いなく
「みんな自分のことを嫌っている」
「周りは敵」
である。
何が子どもをそうさせたのか。
これは、明らかに、周りの大人である。
子どもが子ども同士で良い悪いとジャッジするということはない。
もっているのは、周囲の大人に与えられた物差しである。
教師にいつも叱られている子どもがいる。
あるいは、教師がいつも指導に困っている子どもがいる。
周りの子どもはそれを見ている。
そして判断する。
「あの子は、先生とみんなを困らせる悪い子。」
本人も判断する。
「自分は悪い子なんだ。」
これが全ての不幸の根源である。
これが、家庭でもなされていることがある。
「○○君は悪い子だから、遊んだらダメよ」
私が子どもの頃から、世間一般でよく言われていたセリフである。
これは、残念ながら今でも変わらないようである。
先生と親に「悪い子」と認定をされた子ども。
「悪い子」確定である。
誰が悪い子をつくったのか。
繰り返すが、周りの大人である。
本当の意味で「悪い子」というのは、本来存在しない。
大人が子どもたちに信じ込ませ、作り上げた存在である。
「私はそんなことをしていない」
と真面目な教師ほど思う。
しかし実は、真面目な教師ほど、これをしてしまっている可能性が高い。
そういうことを一切したことがない教師というのは、地球上に恐らく存在しないのではないかとすら思う。
真面目な教師ほど、問題行動を流さない。
つまり、問題行動を子どもの前で取り上げて指導する場面が多くなる。
もちろん、必要なことであり、善意であるのだが、必然、特定の子どもを叱る場面が増える。
これで子どもが「悪い子」と認識しない方が難しい。
私自身を振り返ってみても、子どもにそういった「誤学習」を数えきれないほどさせてきたと思う。
悪い子を作ったのは、間違いなく、私である。
「悪い子」の認識から脱する手助けをできた子どももいたかもしれないが、多分その方がずっと少数である。
本来「悪い子」は存在しない。
一方で、望ましくない行動は存在する。
何かというと、「侵害行為」である。
いじめも侵害行為の中の一つである。
いじめは、された側が嫌だと思えば成立する。
した方の認識は無関係である。
ここがポイントで「悪い子」にされてしまう子どもは、ここが上手くできない。
決して意地悪ではないのに、相手が嫌がっていることが、さっぱりわからないのである。
双方不幸である。
ここを救えるのが、大人である。
「悪気がないのはわかっている」と認めた上で
「それは相手にとっては嫌なんですよ」と教えてあげることが仕事である。
教諭は、教え諭すのが仕事である。
これは、手間がかかる。
まどろっこしい。
忙しいと、すっとばしたくなる。
だから、一気に叱るという誤った行為になってしまう。
ここが悲劇の始まりである。
そうすれば、「悪い子」認識は本人も周囲も一気に進む。
繰り返せば、それは「信念」になり「常識」になる。
容易に崩すことができなくなる。
教師に、悪気はない。
ただ、自分の担任している子どもたちを守り、助けたいのである。
しかし、クラスの中のたった一人を「犠牲」にしてしまったら、全員にとってマイナスの教育なのである。
「異質の排除」を教えることになる。
もしも「悪い子」が存在するとしたら、それは大人の責任である。
その子どもが悪い、直させようと思っている限り、変わらないかもしれない。
すべては私の責任です。
すべての大人がそう思うことで、子どもは変わる面があるのではないかと思う。
何か子ども同士でトラブルがあって事情をきく時に、よく口にする言葉である。
このセリフを口にする時は、目つきもいつもと全く違う。
(大人でも結構あるかもしれない。)
ここまではっきり言ってくれる子どもならわかりやすい。
自分のことをどう思っているのか。
認識としては間違いなく
「みんな自分のことを嫌っている」
「周りは敵」
である。
何が子どもをそうさせたのか。
これは、明らかに、周りの大人である。
子どもが子ども同士で良い悪いとジャッジするということはない。
もっているのは、周囲の大人に与えられた物差しである。
教師にいつも叱られている子どもがいる。
あるいは、教師がいつも指導に困っている子どもがいる。
周りの子どもはそれを見ている。
そして判断する。
「あの子は、先生とみんなを困らせる悪い子。」
本人も判断する。
「自分は悪い子なんだ。」
これが全ての不幸の根源である。
これが、家庭でもなされていることがある。
「○○君は悪い子だから、遊んだらダメよ」
私が子どもの頃から、世間一般でよく言われていたセリフである。
これは、残念ながら今でも変わらないようである。
先生と親に「悪い子」と認定をされた子ども。
「悪い子」確定である。
誰が悪い子をつくったのか。
繰り返すが、周りの大人である。
本当の意味で「悪い子」というのは、本来存在しない。
大人が子どもたちに信じ込ませ、作り上げた存在である。
「私はそんなことをしていない」
と真面目な教師ほど思う。
しかし実は、真面目な教師ほど、これをしてしまっている可能性が高い。
そういうことを一切したことがない教師というのは、地球上に恐らく存在しないのではないかとすら思う。
真面目な教師ほど、問題行動を流さない。
つまり、問題行動を子どもの前で取り上げて指導する場面が多くなる。
もちろん、必要なことであり、善意であるのだが、必然、特定の子どもを叱る場面が増える。
これで子どもが「悪い子」と認識しない方が難しい。
私自身を振り返ってみても、子どもにそういった「誤学習」を数えきれないほどさせてきたと思う。
悪い子を作ったのは、間違いなく、私である。
「悪い子」の認識から脱する手助けをできた子どももいたかもしれないが、多分その方がずっと少数である。
本来「悪い子」は存在しない。
一方で、望ましくない行動は存在する。
何かというと、「侵害行為」である。
いじめも侵害行為の中の一つである。
いじめは、された側が嫌だと思えば成立する。
した方の認識は無関係である。
ここがポイントで「悪い子」にされてしまう子どもは、ここが上手くできない。
決して意地悪ではないのに、相手が嫌がっていることが、さっぱりわからないのである。
双方不幸である。
ここを救えるのが、大人である。
「悪気がないのはわかっている」と認めた上で
「それは相手にとっては嫌なんですよ」と教えてあげることが仕事である。
教諭は、教え諭すのが仕事である。
これは、手間がかかる。
まどろっこしい。
忙しいと、すっとばしたくなる。
だから、一気に叱るという誤った行為になってしまう。
ここが悲劇の始まりである。
そうすれば、「悪い子」認識は本人も周囲も一気に進む。
繰り返せば、それは「信念」になり「常識」になる。
容易に崩すことができなくなる。
教師に、悪気はない。
ただ、自分の担任している子どもたちを守り、助けたいのである。
しかし、クラスの中のたった一人を「犠牲」にしてしまったら、全員にとってマイナスの教育なのである。
「異質の排除」を教えることになる。
もしも「悪い子」が存在するとしたら、それは大人の責任である。
その子どもが悪い、直させようと思っている限り、変わらないかもしれない。
すべては私の責任です。
すべての大人がそう思うことで、子どもは変わる面があるのではないかと思う。
2019年9月17日火曜日
「ルールに反していなければいい」は主体性の真逆
前号に続き、「金髪に染めてはいけない」問題についての考察。
「ルールに反していないから、いいのだ」という考えは、主体的な生き方の真逆である。
それはつまり、何を判断するにも「ルールだから」ということである。
無条件にルールに従うことが、最も頭を使わない。
大抵の公立小学校には、明確な校則はない。
あるのは、注意事項や慣例、マナーだけである。
(一部、校則やルールブックがある小学校も存在する。)
「ルールだからそうする」というのは、「ルールに反してないことならしていい」となる。
しかし、ルールと付き合っていく態度として、これは間違っている。
本来、ルールというのは、それを設定しないと不自由や不都合、生きづらさが出るために作られている。
人々が主体的に気持ちよく動けるために存在するものである。
ちなみに、ゲームというのはルールが必須要素である。
ルールのないゲームは、ゲーム足り得ない。
サッカーを例に考えてみる。
「キーパー以外手を使わない」というのは、ゲームの面白さを保証するための基本ルールである。
手で運んだら、違うスポーツになってしまう。
「相手をつかんで引っ張ってはいけない」というのも当然のルールである。
球技で相手を直接つかんで押さえていいのは、ラグビーやアメフトぐらいである。
しかし、それを裏でやっている選手もいる。
ボールから離れたところ、審判の見えないところでやるので、ファウルを取られないのである。
(ひどい人だと、肘で腹や胸を殴打してくる。そういったプレーを公然と指導する監督もいる。)
これをどう考えるか。
「審判に見られていないからファウルではない。正当だ。」と考えるか。
「スポーツマンシップに反する。不当だ。」と考えるか。
オリンピックのような国際試合の場合、単なるスポーツというより、国益に関わることもある。
必死になって、そういうプレーをする選手もいるのかもしれない。指示されるのかもしれない。
ここでは、学校教育の場で考える。
「ルール違反でもファウルを取られないからいい」というのは、そもそもルールから外れている。
これは、明らかに不正である。
学校教育として考えた場合、議論の余地はなく、否定すべきものである。
では、次のような場合を考える。
サッカーにおいて、わざと一度外にボールを出して、相手チームがボールを返すことがある。
どういう場合かというと、ファウルは取られなかったが、誰か選手がケガをして倒れているので試合を一時止めるべき、という時である。
ケガをしている人が心配なので、ボールを出した。
ボールを出されたチームの側は、「ありがとう」という気持ちでボールをスローインで投げ返す。
会場からは拍手が起こる。
当たり前だが、こういう「ルール」はない。
ルールはないが、これがスポーツマンシップに則ったマナーによる行動であり、常識である。
(常識とは本来、その集団内においてそもそも説明しないでもなぜそうするのかわかる、自明のことである。)
先の「見えない場所で引っ張る」の真逆である。
学校教育で育てたいのは、どちらの人間か。
ルールに反してなければ、罰せられなければ何をしてもいいと考える人間か。
人々が気持ちよく生きるために、どうすべきか自ら考え、選択し行動する人間か。
答えは明白である。
つまりは、「ルールに反してなければいい」は、主体性の真逆である。
次号も、「金髪問題」について考える。
「ルールに反していないから、いいのだ」という考えは、主体的な生き方の真逆である。
それはつまり、何を判断するにも「ルールだから」ということである。
無条件にルールに従うことが、最も頭を使わない。
大抵の公立小学校には、明確な校則はない。
あるのは、注意事項や慣例、マナーだけである。
(一部、校則やルールブックがある小学校も存在する。)
「ルールだからそうする」というのは、「ルールに反してないことならしていい」となる。
しかし、ルールと付き合っていく態度として、これは間違っている。
本来、ルールというのは、それを設定しないと不自由や不都合、生きづらさが出るために作られている。
人々が主体的に気持ちよく動けるために存在するものである。
ちなみに、ゲームというのはルールが必須要素である。
ルールのないゲームは、ゲーム足り得ない。
サッカーを例に考えてみる。
「キーパー以外手を使わない」というのは、ゲームの面白さを保証するための基本ルールである。
手で運んだら、違うスポーツになってしまう。
「相手をつかんで引っ張ってはいけない」というのも当然のルールである。
球技で相手を直接つかんで押さえていいのは、ラグビーやアメフトぐらいである。
しかし、それを裏でやっている選手もいる。
ボールから離れたところ、審判の見えないところでやるので、ファウルを取られないのである。
(ひどい人だと、肘で腹や胸を殴打してくる。そういったプレーを公然と指導する監督もいる。)
これをどう考えるか。
「審判に見られていないからファウルではない。正当だ。」と考えるか。
「スポーツマンシップに反する。不当だ。」と考えるか。
オリンピックのような国際試合の場合、単なるスポーツというより、国益に関わることもある。
必死になって、そういうプレーをする選手もいるのかもしれない。指示されるのかもしれない。
ここでは、学校教育の場で考える。
「ルール違反でもファウルを取られないからいい」というのは、そもそもルールから外れている。
これは、明らかに不正である。
学校教育として考えた場合、議論の余地はなく、否定すべきものである。
では、次のような場合を考える。
サッカーにおいて、わざと一度外にボールを出して、相手チームがボールを返すことがある。
どういう場合かというと、ファウルは取られなかったが、誰か選手がケガをして倒れているので試合を一時止めるべき、という時である。
ケガをしている人が心配なので、ボールを出した。
ボールを出されたチームの側は、「ありがとう」という気持ちでボールをスローインで投げ返す。
会場からは拍手が起こる。
当たり前だが、こういう「ルール」はない。
ルールはないが、これがスポーツマンシップに則ったマナーによる行動であり、常識である。
(常識とは本来、その集団内においてそもそも説明しないでもなぜそうするのかわかる、自明のことである。)
先の「見えない場所で引っ張る」の真逆である。
学校教育で育てたいのは、どちらの人間か。
ルールに反してなければ、罰せられなければ何をしてもいいと考える人間か。
人々が気持ちよく生きるために、どうすべきか自ら考え、選択し行動する人間か。
答えは明白である。
つまりは、「ルールに反してなければいい」は、主体性の真逆である。
次号も、「金髪問題」について考える。
登録:
投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...