2021年12月17日金曜日

「したい」を実現する場と時間をつくる

前号と関連して、ルールと「したい」について。


個人の人生においては、社会のルールではなく「したい」が優先されるべきである。

社会のルールに合わせたに自分自身が倒れたら元も子もない。


しかし、社会においては個人の人生は優先されないというのが現実である。

それぞれの社会的な場にはルールがあるので、個人の「したい」は優先されないというのが現実である。


例えば、会社や学校については「出社時刻」や「勤務時間」などへの規定がある。

規定で定められたものを守る義務がある。

その場のルールを変えない限り、個人の「こうしたい」は優先されない。


「したい」だと優先されない一方で、個人的にでも「すべき」「しなければならない」ことだと優先してもらえる。

病気のための対処などはそうである。

トイレに行きたいなどという生理的現象もそうである。

交通機関の乱れによる遅刻も、認めてもらえることが多い。

こういったことは「仕方ない」こととみなしてもらいやすい。

(一部の企業では、これらの当然の人権すらも認められないということで、社会問題にもなっている。)


こういった「仕方ない状況」でない限り、個人的な「したい」は、社会の「すべき」に優先されない。


そうなれば、自分で「したい」が実現できる状況を作るしかない。

自分の「したい」が優先される場にいくことである。

あるいは、その場を作り出すことである。


「したい」が社会の「してほしい」「すべき」と合致するのが最高である。

好きなことが仕事になれば最高である。

即ち、自分から「したい」が実現できる状況を作り出す必要がある。


学校では、何ができるか。


子どもの「したい」が出せる場や時間を作ることである。

係活動などはこれにあたる。

学級会も、ルールを決めたり問題を解決したりするだけでなく、「したい」を出し合う場として使える。


子どもに、場のルールとそれを守ることを教えるのは大切である。

一方で、ルールにただ従うだけでは無思考であり、自分の「したい」を出す必要があることも教える。


今の学校は、ルールや社会的な「すべき」でがんじがらめである。

そうであるからこそ、「したい」を実現する場を意図的に設けていく必要がある。

2021年12月15日水曜日

ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す

先日の学習会で話題になったことのシェア。

ルールについての話である。


社会において個人の「したい」を最優先すると、滅茶苦茶になる。

学校も同様である。


では、社会ではどういう場合の「したい」が実現されているか。

周りの人の迷惑にならない場合は、実現できる。

もっといいのは、周りの人のためにもなる「したい」で、これは歓迎される。


周りの人の迷惑になる「したい」は、制限がかかる。

それが、ルールである。

学校のルールも原則はそこである。


実際、社会においての役割では「したくはないけれど、するべきだからする」ということの方が圧倒的に多い。

これをいたく否定する動きもあるが、これ自体は必要である。


危険な仕事、汚れる仕事、きつい思いをする仕事などは、誰もなかなか進んではやりたがらない。

しかしながら、そのような仕事をする人がいてくれるからこそ、人々が快適に暮らせている。


自分のやりたいことだけを最優先して生きる。

とても響きがいいし、素晴らしいことだと思う。

しかし実際は、その人の生活は、周りの人の「縁の下の支え」があってこそである。

やりたいことだけをやっている人だけで社会が回る訳ではない。


学校はどこにスタンスを置くのか。

周りのことなど考えずに、自分のことだけを最優先する人間の育成でいいのか。

義務教育段階で求められているところは、そこではない。

人間同士に限らず、地球規模の支え合いを考えようというのがユニバーサルスタンダードである。


もし社会において全ての人の「したい」が最優先されるなら、学校自体が成り立たない。

その理論でいけば、教師の側も嫌な態度の相手を全て拒否していいということになる。

嫌なことでも、逃げずに向き合って真摯にやるのが現実の仕事である。


公のルールは、その負担を軽減してくれる。

言わずとも、お互いの節度を守らせてくれる有用な道具である。


ルールやマナー、礼儀の存在意義を見直す。

そんな当たり前のことこそ、今見直されるべきではないかというのが一つの結論である。

2021年12月11日土曜日

いじめや物隠しの「犯人」にしない

毎年のことだが、教育実習をしていると本質的な質問をされることが多い。

「いじめの対応についてどうお考えですか」

というかなり大切な質問をされたので色々と真剣に答えた。


いじめやトラブルをどう考えるか。


例えば、誰かが誰かをいじめている時。

例えば、誰かが誰かの物を壊してしまった、あるいは隠してしまった時。


どう捉え、何をしていくかである。


いじめ対応の順番は原則があり

「いじめられている子どもを守る」が先で

「いじめてしまった子どもに事情をきく」が次である。


交通事故などと同じである。

まずは目の前の命を守ることが最優先である。


しかしながら、その命が助かったからそれでよし、とはしない。

事故の原因を究明し、再発を防ぐ必要がある。

治療は予防の100倍以上のコストがかかる。

だから、再び事故が起きないようにする予防に全力を尽くす。


いじめ問題の場合は、そこがいじめをしてしまった側への対応である。

再発防止に努める必要がある。


学校は、そもそも悪さを罰するための場ではない。

文字通り全ての子どもが良くなるための場である。


そうであるならば、うまくいかず過ちをしてしまった子どもほど、救いの手が必要である。

不幸でない人ならば、いじめや物隠し、公共への迷惑行為などしないからである。

例えば暴走族に入る少年少女は、自らの不幸を爆音や暴走という形で発散し叫んでいる子どもたちである。

少年院に入る少年少女は、自らの不幸を自分ではどうにもできなくなってしまった子どもたちである。


クラスの場合だと、やたら意地悪をしたり迷惑をかけたりしがちな子どもは、自信がない不幸な子どもである。

それらを放置してしまった結果の最終的に行きつく先が、先の暴走族に入る、少年院に収監という方向へ行ってしまうことがある。

つまりは、家庭をはじめ、学校を含めた子どもへの教育全般の結果である。

学校はその課された使命から、全力で子どもの生活改善に努めねばならない責務を負う。


物隠しなどで、誰がやったかわからないまま、ということがある。

やられてしまった個人がいる場合に、そこへのケアが第一優先なのは先にも述べた通りである。

しかし、その時にも伝えるべきメッセージは「それをやってしまった人への心配」である。

それをやったのは、確実に不幸な子どもなのである。

その子どもこそが、真に哀れみと愛を注ぐべき対象なのである。


「犯人捜し」と断罪の発想になれば、行きつく先は地獄である。

競争心や優劣の意識の強い人は、とかくこの発想になりがちである。

「犯人」が見つからないことを「私の負け」とみなすからである。


そんなことは、取るに足らない下らないことである。

ゲームやスポーツレクの勝負の結果に一喜一憂しているのと同じレベルである。

勝とうが負けようが、泣いたり怒ったり文句を言ったりしていたら、本来の目的を見失っている証拠である。


大切なこと、本質的なことは、やってしまった子どもに救いの手や言葉を差し伸べることである。

正直に出てこなくても、その子どもの心に残ることの方が大切である。

やった子どもが発見できることよりも「あなたが心配だ」というメッセージが伝わることの方が100万倍大切なのである。

だから、それを誰がやったかどうしてもわからない場合、全体へのメッセージとして伝え続ける必要がある。


「周りの誰かが不幸ならば、それは巡り巡って私の不幸となる」という原則を教える。

逆も然りで、仲間が幸せだと、私も幸せにならざるを得ないということである。

不幸な一人の仲間を放っておくようなクラスは、自分を含めた全員が不幸になることを容認しているといえる。

困っている人がいたら「大丈夫?」と声をかけて手を差し伸べる人の多いクラスにしていくことが、本質的に大切なことである。

(ただし現実問題として「いつも全員」がその域に達するのを目指すのはなかなか苦しい。誰しも時に余裕がないからである。)


学校の原則は、子どもが良くなる場であること。

この本質さえ外さなければ、大きく間違えることはないと考える次第である。

2021年12月8日水曜日

集団の中に生きる個を考える

 動物は相互扶助を行う。

その一方で、平常時には権力争いやいじめもする。

全て本能的にプログラムされた行為である。


例えば死にそうな仲間がいたら助ける。

中には、群れが襲われそうになった時、囮になる者さえもいる。(親が子を守る時など顕著である。)

動物には、個の生命保存以上に、種の保存を優先することがある。


助ける行為がある一方で、権力争いもする。

群れの中に上下関係ができて、統治される。

昆虫の中にさえ、アリやハチのような上下関係のある分業コミュニティを作るものがある。


人間の場合はどうか。

他が困っている状況を認識すると、赤ん坊はそこへ手を伸ばそうとするという話を聞いたことがある。

(上越教育大学教職大学院教授の赤坂真二先生による自治的学級づくりのセミナーで聞いた話である。)

本能的に助け合う能力がプログラムされている。

そして、権力闘争を行うところも同じである。


つまりは、個としての欲求も充足したい一方で、コミュニティも守りたい。

人間社会というものを大事にして貢献しつつ、私自身も充足させたい。

これが健全な状態である。


学校教育でも、ここを目指す。

個のためが全てでも、集団のためが全てでもない。

集団の発展のために個を生かす。


自分の思うように集団(あるいはその仲間)がならないことに文句を言わない。

スポーツと同じで、場のルールに従わないプレーヤーはプレーを続行できない。

自分の行動を変えるべきである。


一方で集団が良くない方向にいっているなら、自分のためにもそこへ働きかける。

集団に困った状況があるなら、解決へ貢献する。

自分の行動を変えるべきである。


日常の生活の中で、個として充実した時間を過ごせているか。

また、個として集団へ貢献できているか。


公の場では、私的欲求よりも公的利益が優先される。

ここを勘違いすると、社会にとっても個人としても不幸な人間ができる。


個の尊重が集団の貢献へとつながるようにする。

抽象的だが、特に義務教育段階の学校教育の役割としてはここが重要なように思われる。

2021年12月6日月曜日

場のルールとミーイズム

 10月に行った「学校教育のリアルな本音を語る会」での学びのシェアの続き。


11月3日は文化の日だった。

昨年もこれについてふれたが、日本国憲法公布の日である。

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2020/11/blog-post.html


憲法はルールそのものというより、ルールを作るための拠り所であり、基本理念や原理である。

大まかな方針を示しており、日本国憲法は「民主主義」が前提にある。

だから、あらゆることに対し、民主的であることが大前提に議論される。

民主的国家を守るための法的な懲戒や罰則は認められる。

民主的国家で個人の尊厳を傷つける行為は当然容認されないし、パワハラもセクハラも許されない。


その一方で、行き過ぎた個人主義が問題にもなる。

「ミーイズム(自己中心主義)」である。

学校現場が悩んでいるのは、このミーイズムの人たちの多岐にわたるあらゆる主張の数々である。


大人と子ども、家庭と学校と職場、人と場所を問わず、社会のあらゆるところに、ミーイズムは存在する。

相手が自分の都合に合わせないことに対し、怒り、わめき、糾弾する。

「他人が自分のために存在している」という前提が正義にあるため、自らの狂気を疑うこともない。


学校とは、個人の欲求を恣に充足するための場なのか。

そんなはずはない。

学校とは、学びの場である。


義務教育段階の学校は、社会を学ぶための入り口である。

最も学ぶべきは「社会は私に合わせて動いてくれない」という点である。

「私が社会に合わせて動く」ということを否が応でも学ぶ。

社会というものは大きすぎて、多少の配慮はしてくれるものの、私だけに合わせるほどの小回りは利かないのである。


分かりやすいのは、公共交通機関である。

定刻になったら当然出発する。

私が勝手に乗り遅れて置いていかれたことにクレームをつけても仕方がない。

また逆に交通機関側の都合で、自然災害や不慮の事故で動かなくなることがあるが、私のために動けと騒いでも無理なことである。


スポーツでたとえるなら、トス、あるいはセンタリングに合わせて動いていくのは自分である。

自分の立っているところに思うとおりにボールをくれないことに文句を言っても仕方ない。

せっかくのナイスセンタリングであっても、そこに自ら動く必要がある。

どんなにいいセンタリングをあげても、ミーイズムの選手は文句しか言わない。

当然、仲間からも嫌われ、避けられるようになる。


ミーイズムの人たちは、端的に言って社会そのものが嫌いである。

公の正しさの定義と自分の中の正しさの定義が正反対で違うから、摩擦が生じる。

その流れで学校を「個性尊重」の場、さらには「私尊重」の場だと勘違いしている。


尊重してくれない相手を嫌い、嫌う周囲から当然嫌われてしまうから、孤立する。

ある意味で、最も苦しんでいる、民主主義の社会が助けるべき存在でもある。

ミーイズムが子どもであれば、学校はこれを放置せず助ける義務を負う。

大変で辛いが、それが学校というところでもある。


個性の使い方を、逆にする必要がある。

学校とは、その潰しても潰しても潰れない強烈な個性を、どうやって社会に生かすかを自ら考えるようにする場である。

学校に行けば、他人と自分との違いがわかる。

自分の凹凸がわかる。

自分にできないことを支えてもらう感謝と、自分ができることを提供する喜びも学べる。


次の言葉がある。


「個性も私物化すると短所になる」

(『鍵山秀三郎 日めくり 良樹細根』PHP研究所)

https://www.php.co.jp/goods/detail.php?code=83502


個性は、人の役に立てる方向に生かそうとすることで、初めて長所となる。

学校という場で、「私」を張れば、周囲への害悪になる。

みんなが自分の要望を通せない状況で「ちょうどいい落としどころ」を学ぶ場なのである。

わがまましたければ、自分の部屋や家庭で思う存分したらいいのである。

誰にも文句を言われない。

(そもそも家庭内で満たされないからこそ、外で暴れるという面は無視できない。)


自分の部屋や家庭内などの私でやることを、公の学校や社会に持ち込まないことである。

ルールとは、場にある。

絶対的に正しいことが存在するのではなく、その場に応じた正しいことが存在する。


ミーイズムとルール。

学校現場の根本的な問題を解決するには、ミーイズムに対しきちんと「それはルール違反ですよ」と伝えることからである。

2021年12月4日土曜日

ルールを深堀りして考える

 学習会における学びのシェア。

「学校のルールと当たり前」について議論した。


「当たり前」

「ルール」

「マナー」

の違いを定義したが、ここに

「道徳」

との違いも検討せねばならなくなった。


自分の提案の中で

「国のルールの代表的なものが憲法」

という話を例に出したが、ここに参加者から

「憲法には実質的意味としての憲法と成文の法典としての両方の意味がある」

という意見が出た。

ここでも更に「憲法はルールか」という疑問が浮かぶことになった。


よくよく考えれば、憲法は国の法としての理念を表している。

例えば刑法に反すれば罰せられるが、憲法はそれとは違う。

「基本的人権の尊重」を掲げているが、そこに反するからといって即処罰になる訳ではない。


例えば19条は「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない」とある。

ただこの自由もどこまでが自由か、という議論の余地が残る。

例えば良心に従って相手を安楽死させていいものか、というのは大きな問題である。


このように、掘り下げていくと、果てしなく深いテーマにはまり込んでしまう。

そこで立ち返って「学校の当たり前とルール」という身近なところに絞ることにした。


私は「学校には厳密な意味でのルールはない」という提案をした。

なぜならば、罰則規定がないからである。


ルールというのは、基本的に反した場合には罰則(ペナルティ)がつく。

スポーツの試合然り、刑法や交通法などの各種法律や条例然り。


学校の「ルール」にはそれら罰則がつかない。

即ち、マナーや慣習に属すものと考えることができる。


メルマガにも書いたことがあるが、私は学級の子どもに

「敗北宣言」

をする。

↓参考「教師の寺子屋」2021.2.27記事:子どもと安易に「約束」をしない

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2021/02/blog-post_27.html


無下に破られても、こちらは臍(ほぞ)を噛むことしかできないのである。

だから、ルールとは名ばかりの子どもへの「お願い」になる。

守ってくれていること自体が有難いことである。

子どもが自分の話を黙って聞いてくれていることも、有難いことである。


それぐらい、学校には実際に正式なルールが存在しない。

そこで「警察などの外部機関を入れることも検討してはどうか」という意見も当然出る。

これも一理ある。

社会に出てから法的に裁かれるよりは、義務教育の内に法を意識することも大切である。


いじめはれっきとした法律違反の犯罪であるということを強く意識するかもしれない。

窃盗も器物損壊も犯罪であるが、学校は「教育の場」ということで「だめでしょ」で法的処分なしである。

やれば警察の捜査が入るとなれば、簡単には起きなくなるかもしれない。


しかしながら、やはり教育の場においては、救いたいというのが本音である。

学校としては、なるべく警察のお世話にはなりたくない。

この意識が行き過ぎて学校内の「隠蔽」が起きているとしたら、これはやはり問題である。


当たり前もマナーも深堀りしていくと、果てしない。

それこそ「当たり前」に思っていたことを見つめ直してみると、全く当たり前ではないことがよくわかる。

当たり前を改めて考えることは、自分自身の思考パターンを見つめ直すのに有用である。

2021年12月2日木曜日

道徳教育では多様な視点を手に入れる

 道徳の授業をすると、様々な反応・意見が出る。

これをどう扱うかが授業の中心になる。


道徳の教材には


1 望ましくない現状や困った事件がある

2 何か転機が訪れる

3 望ましい状態になる


という流れのものが多い。


基本的には3の「望ましい状態」というのが道徳的価値である。

そして、子どもたちはここについての価値は、教えないでも重々知っている。


例えば

「いじめはいけない」

「盗んではいけない」

「人には親切にしよう」

「感謝をしよう」

「自然を大切にしよう」

・・・

全部知っている。


だから、これを考えさせて教えること自体にはほとんど意味がない。

「だから親切にしましょうね」と言われても、実際にはできないというのが現実である。


この「できない現実」「望ましくない現状」を正視するところからの議論が必要である。

見えている現実とは、現象である。

現象をどんなにあれこれ操作しようとしても、根本を見ないと変わらない。


例えば「いじわるをする」という主人公が出てきた場合

「この主人公の性格が悪いから直すべき」と言ったら終わりである。


そうではない。

考えるべきは「いじわるをする」という現象の根本にある、人間の性(さが)である。

人間がなぜそのような行動をとってしまうのか。

どのような本能がそうさせるのかというところまで突き詰めて議論する必要がある。

突き詰めていけば、安全・安心の欲求や承認欲求などが十分に満たされていないことに起因する。


小学生でもわかる子どもにはわかる。

大人でもわからない人にはわからない。

それは、実際の経験の有無に左右されるからである。


例えば「盗みはいけない」といったことは、誰でも頭では知っている。

そして「貧しくてつい盗みをしてしまう」という行動については、理由も何となく想像がつく。

「アラジン」の主人公などは万人に理解されやすい。


しかし問題は、諸々の事情や美談によって「盗んだ」という事実の重さが霧散されてしまう点である。

ここは十分に議論して検討する余地がある。

「自分が死にそうなら盗んでもよいのか」

「悪い相手、豊かな相手からなら良いのか」

というのは、難しいテーマである。

法に背く行為は社会的には認められず、「ねずみ小僧」はたとえ義賊であっても、最終的には捕まって公開処刑にされている。


アラジンが理解されやすい一方で「十分豊かなのに万引きをしてしまう心理」は、わかる人にしかわからない。

「豊かなのに人から盗むなんてとんでもない」で終わってしまう。

注目すべき点は、物質的豊かさと心の豊かさが必ずしも比例していないという点である。

豊かなのに盗むという人の心理を理解するのは、なかなか難しい。

一見「不合理」だからである。


自傷行為なども不合理である。

自分を守るために自分を傷つけるという行為は、非論理的であり、心理的平和の中で生きている人には理解しがたい。

一方で、自身も近い思いをしている人にとっては、この行動の理由も共感できる。


人間は時に不合理で非論理的な行動をとるということへの人間的理解が、道徳教育の中に必要である。

そして一見不合理に見える行動の中に合理性があるということも知る必要がある。


「考え、議論する道徳」の真価は、様々な立場の視点を共有するところにある。

同質の人間しかいない場では、どんなに議論したところで広がりようも深まりようもない。

人種も性別も信条も違う人間が集まれば、自ずから様々な視点が手に入る。

固定化された当たり前や常識によって閉じた世界では、議論が堂々巡りするだけである。


一方で、集団において全ての個々の信条を完全に尊重していたのでは、何もできない。

集団が進むには、一定のルールが必要である。

右側通行と左側通行の常識を両方尊重していては、道路を自動車で走ることは不可能である。

また成文化されたルールでなくとも「当たり前」という形で定着しているからこそ成り立っている面もある。


集団におけるルールや当たり前と、道徳的価値や行動については、ある程度切り離して考える必要がある。

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