今日はバレンタインデーであるが、今回はクリスマスに書いた記事。
子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。
大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。
「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。
人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。
サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。
世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。
クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスにせよバレンタインデーにせよ、多くの人にとって良い日になることを願う。
2020年2月14日金曜日
2020年2月13日木曜日
いい子といたずらっ子
クリスマス前にメルマガ上で書いた記事。
クリスマスの時期になると読む絵本がある。
次の絵本である。
『サンタさんのいたずらっこリスト』
訳/石津ちひろ 絵/デルフィーヌ・デュラン 作/ローレンス・デイヴィッド 小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09727359
ネタバレになるので、詳しくは書かないが、簡単に言うと
「よいことをした数より、いたずらした数が多いと、プレゼントをもらえない」
というルールがサンタにある。
これにサンタの息子(これもいたずらっ子)が納得いかず、何とかしようとする物語である。
子どもがほっとする、心温まる物語である。
この物語が問題点を指摘しているように、子どもたち(あるいは世の中)には、ある種の思い込みがある。
それは
「いいことをするのはいい子」で「いたずらっ子は悪い子」
という思い込みである。
もっというと
「いい子だと愛されて、悪い子は愛されない」
という思い込みである。
これが、思い込みならまだいい。
現実だとしたら、悲惨である。
いい子かどうかで子どもをジャッジすると、裏表のある子どもになる。
つまり、親や教師の前でだけ「いい子」を演じるようになる。
もっと可哀そうなのは、「いい子」でないと、人に愛されないという思い込みをもったまま大きくなった大人である。
いつまでも人の顔色を伺って「いい人」の自分を演じ、ストレスフルな人生になる。
(演じていることにすら気付いていないこともある。)
これは、フロイトの心理学的には「超自我」と呼ばれる部分が必要以上に大きくなった状態である。
「超自我」は、親をはじめとする社会によって規定された「規範意識」である。
ある程度ないと社会に不適応を起こす部分である一方、大きすぎると本来の自分を必要以上に抑え込むことになる。
子どもに、規範を教える。
一方で、いたずらも認める。
この両者のバランスが大切である。
子どもは、どうであっても愛される。
それが、大きくなって、大人にも適用される。
そうすれば「〇〇な人でないとダメ」ということはなくなる。
人に対する好き嫌いはあってもいいのである。
行動に対しての「NO!」があってもいい。
しかし、存在自体はいつでも肯定されるものでありたい。
例え自分と正反対の考えをもった人であっても、存在を否定する必要はない。
全ての子どもには、いい子といたずらっ子が混在する。
いい子の部分は安定と規範を担保し、社会の持続に貢献する。
いたずらっ子の部分はエネルギーと創造性を担保し、社会の発展に貢献する。
全ての子どもの全ての面に価値がある。
そこを認めていける大人集団でありたい。
クリスマスの時期になると読む絵本がある。
次の絵本である。
『サンタさんのいたずらっこリスト』
訳/石津ちひろ 絵/デルフィーヌ・デュラン 作/ローレンス・デイヴィッド 小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09727359
ネタバレになるので、詳しくは書かないが、簡単に言うと
「よいことをした数より、いたずらした数が多いと、プレゼントをもらえない」
というルールがサンタにある。
これにサンタの息子(これもいたずらっ子)が納得いかず、何とかしようとする物語である。
子どもがほっとする、心温まる物語である。
この物語が問題点を指摘しているように、子どもたち(あるいは世の中)には、ある種の思い込みがある。
それは
「いいことをするのはいい子」で「いたずらっ子は悪い子」
という思い込みである。
もっというと
「いい子だと愛されて、悪い子は愛されない」
という思い込みである。
これが、思い込みならまだいい。
現実だとしたら、悲惨である。
いい子かどうかで子どもをジャッジすると、裏表のある子どもになる。
つまり、親や教師の前でだけ「いい子」を演じるようになる。
もっと可哀そうなのは、「いい子」でないと、人に愛されないという思い込みをもったまま大きくなった大人である。
いつまでも人の顔色を伺って「いい人」の自分を演じ、ストレスフルな人生になる。
(演じていることにすら気付いていないこともある。)
これは、フロイトの心理学的には「超自我」と呼ばれる部分が必要以上に大きくなった状態である。
「超自我」は、親をはじめとする社会によって規定された「規範意識」である。
ある程度ないと社会に不適応を起こす部分である一方、大きすぎると本来の自分を必要以上に抑え込むことになる。
子どもに、規範を教える。
一方で、いたずらも認める。
この両者のバランスが大切である。
子どもは、どうであっても愛される。
それが、大きくなって、大人にも適用される。
そうすれば「〇〇な人でないとダメ」ということはなくなる。
人に対する好き嫌いはあってもいいのである。
行動に対しての「NO!」があってもいい。
しかし、存在自体はいつでも肯定されるものでありたい。
例え自分と正反対の考えをもった人であっても、存在を否定する必要はない。
全ての子どもには、いい子といたずらっ子が混在する。
いい子の部分は安定と規範を担保し、社会の持続に貢献する。
いたずらっ子の部分はエネルギーと創造性を担保し、社会の発展に貢献する。
全ての子どもの全ての面に価値がある。
そこを認めていける大人集団でありたい。
2020年2月12日水曜日
「子育てに自信がないです」
もう二十年近く学級担任をやっているので、保護者面談もかなりの数を行ってきた。
単純計算して500人を相手に、1000回以上は行ってきたことになる。
(大体どの学校も1年間で2回以上は面談を行う。)
その中で、十数年前から変わらず、多くの保護者が共通して感じていると思われることがある。
それは
「自分の子育てはもしかして間違っているのではないか」
という不安感である。
同時に
「周りは上手にやっているから、自分も合わせないといけない」
という焦りである。
しかし実際、この二つが事実だとしたら、同時に成立することはない。
つなげて考えると
「ほとんどの人が子育てを間違えていて、かつほとんどの人は子育てが上手だ」
ということになる。
論理的に矛盾が起きる。
要は「隣の芝生は青く見える」という現象である。
みんな相当に全力を尽くし、これ以上なく真っ当に子育てをしているのだが、自信がない。
なぜか。
全員「初めてのこと」だからである。
(初めて生まれてきた子を育てるのも初めてだし、一人目を育てながら二人目を育てるのも初めてである。)
初めてのことというのは、大抵の人は自信がない。
そして自信がないと、周りの人が上手くやっているように見えるものである。
つまり、「子育てに自信がもてる」という事態は、ほとんどの人にとって一生訪れることはない。
常に「トラブルの連続」であり、「悩みの連続」であり、一生「結果待ち」である。
更に悩みを増長させる要素の一つに、周囲の余計な雑音があることも多い。
周囲から「もっとこうすればいい」「もっとうまくやれないの」と言わている気がする。
最近は様々な子育て情報が溢れかえっているせいで、逆に悩みの種が増える。
ビジネス的視点からだと、子育ては大変に非能率で非論理的に見える。
大抵、周囲はあまり関わっていない割に余計なことを言ってしまい、当事者の親を困らせ悩ませているものである。
(私自身も御多分に漏れない。)
「わかっちゃいるけど、どうしようもできない」というのが大抵の本音のようである。
朝から晩まで全力で子どもと「ぶつかり稽古」をしている親の苦労なぞ、知る由もない。
(反抗期は特にひどい。)
こちらがどんなに理解を示しても、「出産の苦しみがわかる」というようなもので、本人以外の完全な理解は無理である。
要は、みんな全力でやっている以上、その子育てに間違いはないというのが真実である。
ただ全力でやっていても、「こうなって欲しい」という願いにその子どもがこたえるかどうかは、別問題である。
子どもは「こうなりたい」と願うものにしかならない。
薔薇の花を咲かせてほしくても、子どもの持っているのは向日葵の種かもしれないのである。
だから親は「こうなったら本当はいいんだけど、ならなくてもいいや」ぐらいの余裕のスタンスが欲しいところである。
ただ日の当たるところに置いて(適度な環境)、水やり(愛情)だけは忘れないことである。
それでたとえ薔薇の花が咲かなくても、それは親の責任ではないし、元々不可能な注文である。
また一方で「ガラスの覆い」までしてやる必要はない。
蝶やハチは花の友達なのだから、放っておく。
不安から焦って先回りしすぎないことである。
温室育ちは、自然の中に出た時に大変弱い。
自分が本気でがんばっていると思えるのなら、その子育てに間違いはない。
ただ「これはやりすぎかも?」と思ったら、立ち止まって、然るべき相手に相談すればよい。
面談も、そういう点で意味がある。
みんな、自信がない中で、がんばっている。
だから、他人と比べなくても、とりあえず大丈夫なのである。
(どちらかというと、周りと比べて焦って余計なことを色々やりすぎる方が、かえってよくない。)
子育てに自信がないと言われる全国の親御さんに、少なくともここまでは大丈夫ですとエールを送りたい。
単純計算して500人を相手に、1000回以上は行ってきたことになる。
(大体どの学校も1年間で2回以上は面談を行う。)
その中で、十数年前から変わらず、多くの保護者が共通して感じていると思われることがある。
それは
「自分の子育てはもしかして間違っているのではないか」
という不安感である。
同時に
「周りは上手にやっているから、自分も合わせないといけない」
という焦りである。
しかし実際、この二つが事実だとしたら、同時に成立することはない。
つなげて考えると
「ほとんどの人が子育てを間違えていて、かつほとんどの人は子育てが上手だ」
ということになる。
論理的に矛盾が起きる。
要は「隣の芝生は青く見える」という現象である。
みんな相当に全力を尽くし、これ以上なく真っ当に子育てをしているのだが、自信がない。
なぜか。
全員「初めてのこと」だからである。
(初めて生まれてきた子を育てるのも初めてだし、一人目を育てながら二人目を育てるのも初めてである。)
初めてのことというのは、大抵の人は自信がない。
そして自信がないと、周りの人が上手くやっているように見えるものである。
つまり、「子育てに自信がもてる」という事態は、ほとんどの人にとって一生訪れることはない。
常に「トラブルの連続」であり、「悩みの連続」であり、一生「結果待ち」である。
更に悩みを増長させる要素の一つに、周囲の余計な雑音があることも多い。
周囲から「もっとこうすればいい」「もっとうまくやれないの」と言わている気がする。
最近は様々な子育て情報が溢れかえっているせいで、逆に悩みの種が増える。
ビジネス的視点からだと、子育ては大変に非能率で非論理的に見える。
大抵、周囲はあまり関わっていない割に余計なことを言ってしまい、当事者の親を困らせ悩ませているものである。
(私自身も御多分に漏れない。)
「わかっちゃいるけど、どうしようもできない」というのが大抵の本音のようである。
朝から晩まで全力で子どもと「ぶつかり稽古」をしている親の苦労なぞ、知る由もない。
(反抗期は特にひどい。)
こちらがどんなに理解を示しても、「出産の苦しみがわかる」というようなもので、本人以外の完全な理解は無理である。
要は、みんな全力でやっている以上、その子育てに間違いはないというのが真実である。
ただ全力でやっていても、「こうなって欲しい」という願いにその子どもがこたえるかどうかは、別問題である。
子どもは「こうなりたい」と願うものにしかならない。
薔薇の花を咲かせてほしくても、子どもの持っているのは向日葵の種かもしれないのである。
だから親は「こうなったら本当はいいんだけど、ならなくてもいいや」ぐらいの余裕のスタンスが欲しいところである。
ただ日の当たるところに置いて(適度な環境)、水やり(愛情)だけは忘れないことである。
それでたとえ薔薇の花が咲かなくても、それは親の責任ではないし、元々不可能な注文である。
また一方で「ガラスの覆い」までしてやる必要はない。
蝶やハチは花の友達なのだから、放っておく。
不安から焦って先回りしすぎないことである。
温室育ちは、自然の中に出た時に大変弱い。
自分が本気でがんばっていると思えるのなら、その子育てに間違いはない。
ただ「これはやりすぎかも?」と思ったら、立ち止まって、然るべき相手に相談すればよい。
面談も、そういう点で意味がある。
みんな、自信がない中で、がんばっている。
だから、他人と比べなくても、とりあえず大丈夫なのである。
(どちらかというと、周りと比べて焦って余計なことを色々やりすぎる方が、かえってよくない。)
子育てに自信がないと言われる全国の親御さんに、少なくともここまでは大丈夫ですとエールを送りたい。
2020年2月11日火曜日
心理術は自分自身に使う
私が長らく続けているクラス会議は、アドラー心理学がベースである。
この心理学の究極は「勇気づけ」から「共同体感覚」を身に付けることである。
全ての行動に目的があるという「目的論」が根底にあり、「個人心理学」と呼ばれる。
今、大学で改めて心理学を学んでいる。
そんな折に、ちょうどそこに関連した雑誌原稿の機会をいただいた。
『授業力&学級経営力 2020年1月号 子どもがなぜか動きたくなる「心理術」』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/21118
この原稿依頼をいただいた時に、ちょっと「危ない」感じがした。
自分の原稿が誤読されて、子どもを「操ろう」という風潮が広まるとよくないと感じたからである。
心理テクニックは、ご存知の通り悪用が効く。
相手の望まない方にも心理誘導できる。
こちらの「都合のいい」状態にもっていけるのである。
例えばわかりやすいのが、褒めるという行為。
これは、心理学的には他者からの承認欲求への刺激である。
「アメとムチ」方式で「懲罰」と組み合わせて使えば、劇的な効果が出るのは周知の通りである。
劇的な効果というのは、多くの場合、劇的な副作用も含む。
つまり、これは指示待ちロボット人間を作ることにもなる。
これは、よろしくない。
心理学、心理テクニックは、人々が幸せになるために用いられるべきものである。
そこでこの雑誌原稿では、冒頭に「子どもを操ろうなどと思ってはいけない」ということを書いた。
「心理術」というと、どうしても操作的な印象である。
正しい使い方としては、良い方向に集団をもっていくために用いる、という感覚である。
そのためには、教師自身が心理術を用いて、自分自身を変えていくというのが効果的である。
例えば今回「安心感を与えるコミュニケーションのポイント」という項目があった。
そこには「ラポール形成」のための、教師の「笑顔」と「わかりやすいこと」を挙げた。
「笑顔」も、作り笑いではいけない。
笑顔になるポイントは、実は「感謝」や「リスペクト」である。
つまり、教師自身への心理操作の方が先である。
心理テクニックは、自分自身に用いるのが一番いい。
心理操作をしようと思うものと、されたいと思うものが完全一致する。
「自分にはできる」といった自己暗示やルーティーン動作などはその最たるものである。
先に挙げた教師というキャラクターが「わかりやすいこと」というのも、つまりは自己開示である。
自己開示するには、自信が必要になる。
正確には、自信というより、「自分には価値がある」という「セルフエスティーム」である。
ここがしっかりしていると、自分のありのままを出しやすい。
結論、子どもの心を操作するより、自分自身の心を操作すべきである。
教室では、変な心理操作を考えるより、基本的に本音で伝えるべきである。
まして担任と子どもはずっと一緒にいるのだから、親子関係のように、隠したところでどうせ気心は知れたものである。
他人よりも、自分自身をコントロールする方に注力したい。
この心理学の究極は「勇気づけ」から「共同体感覚」を身に付けることである。
全ての行動に目的があるという「目的論」が根底にあり、「個人心理学」と呼ばれる。
今、大学で改めて心理学を学んでいる。
そんな折に、ちょうどそこに関連した雑誌原稿の機会をいただいた。
『授業力&学級経営力 2020年1月号 子どもがなぜか動きたくなる「心理術」』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/21118
この原稿依頼をいただいた時に、ちょっと「危ない」感じがした。
自分の原稿が誤読されて、子どもを「操ろう」という風潮が広まるとよくないと感じたからである。
心理テクニックは、ご存知の通り悪用が効く。
相手の望まない方にも心理誘導できる。
こちらの「都合のいい」状態にもっていけるのである。
例えばわかりやすいのが、褒めるという行為。
これは、心理学的には他者からの承認欲求への刺激である。
「アメとムチ」方式で「懲罰」と組み合わせて使えば、劇的な効果が出るのは周知の通りである。
劇的な効果というのは、多くの場合、劇的な副作用も含む。
つまり、これは指示待ちロボット人間を作ることにもなる。
これは、よろしくない。
心理学、心理テクニックは、人々が幸せになるために用いられるべきものである。
そこでこの雑誌原稿では、冒頭に「子どもを操ろうなどと思ってはいけない」ということを書いた。
「心理術」というと、どうしても操作的な印象である。
正しい使い方としては、良い方向に集団をもっていくために用いる、という感覚である。
そのためには、教師自身が心理術を用いて、自分自身を変えていくというのが効果的である。
例えば今回「安心感を与えるコミュニケーションのポイント」という項目があった。
そこには「ラポール形成」のための、教師の「笑顔」と「わかりやすいこと」を挙げた。
「笑顔」も、作り笑いではいけない。
笑顔になるポイントは、実は「感謝」や「リスペクト」である。
つまり、教師自身への心理操作の方が先である。
心理テクニックは、自分自身に用いるのが一番いい。
心理操作をしようと思うものと、されたいと思うものが完全一致する。
「自分にはできる」といった自己暗示やルーティーン動作などはその最たるものである。
先に挙げた教師というキャラクターが「わかりやすいこと」というのも、つまりは自己開示である。
自己開示するには、自信が必要になる。
正確には、自信というより、「自分には価値がある」という「セルフエスティーム」である。
ここがしっかりしていると、自分のありのままを出しやすい。
結論、子どもの心を操作するより、自分自身の心を操作すべきである。
教室では、変な心理操作を考えるより、基本的に本音で伝えるべきである。
まして担任と子どもはずっと一緒にいるのだから、親子関係のように、隠したところでどうせ気心は知れたものである。
他人よりも、自分自身をコントロールする方に注力したい。
2020年2月10日月曜日
給食 ラスト1つのおかわりをどうするか
前号の続き。
競争の不毛な教育から、どう抜けるか。
とにかく「日常が全て」がある。
だから、単に打ち上げ花火的な研究授業などには、実はあまり興味がない。
(その日だけの「貼りもの」だらけの授業は無意味である。)
それよりも、授業を公開するよりずっと前の、日常からの育ちの方に興味がある。
そこを含めて見れば、研究授業の意義も変わってくると思う。
つまり、どういう教育環境を日常的に作っているかである。
ごく些細な例を挙げる。
例えば、給食の「おかわり」の場面である。
私は自学級で、長らく給食のおかわりの仕方については、「じゃんけん」を基本にしてきた。
それを今年度は、やめてみた。
(給食システム自体が、昨年度から大きく変わっているのは、以前お伝えした通りである。)
↓参考記事URL:教師の寺子屋「選択できる子どもを育てる」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/03/blog-post_23.html
もし1つだけ余っている牛乳に、複数の子どもがおかわりを希望した時どうするか。
色々な手段がある。
早い者勝ち。
じゃんけん。
くじ引き。
何かしらの優先順。
その他、様々にある。
しかしどれも「ゼロサムゲーム」であることは変わらない。
誰かが十分に得ることで、誰かは失う(手に入らない)という構造である。
ふりかえって、おかわりをする必要、必然性はあるのか。
これは、単なる「もっと」の欲求の充足である。
であるならば、「分ける」という選択肢がある。
これを「どうする?」などと投げ掛ける必要はない。
「こういう場合は、分けます」と決めてしまう。
食欲のような根源的な欲求に関しては、リーダーが制するというのが基本である。
(そうしないと、本能的に弱肉強食の原理が働く。人間から遠ざかる。)
牛乳パックを空けて、それぞれのパックに注ぐだけである。
量も、適当である。
分けた後に精密に比較することなどないのだから、大体同じであればよい。
それ以前に、そういう「せせこましい」ことを言わせないのも、教育である。
こういうことを日常の「当たり前」にしておく。
これが、給食以外にも適用されるようになる。
「どうやって分けようか?」
以前AC JAPANの広告であったが、割り算は、思いやり算である。
日常で、競争原理を持ち込まない。
教育における不毛な競争を、日常から排していく姿勢が大切である。
競争の不毛な教育から、どう抜けるか。
とにかく「日常が全て」がある。
だから、単に打ち上げ花火的な研究授業などには、実はあまり興味がない。
(その日だけの「貼りもの」だらけの授業は無意味である。)
それよりも、授業を公開するよりずっと前の、日常からの育ちの方に興味がある。
そこを含めて見れば、研究授業の意義も変わってくると思う。
つまり、どういう教育環境を日常的に作っているかである。
ごく些細な例を挙げる。
例えば、給食の「おかわり」の場面である。
私は自学級で、長らく給食のおかわりの仕方については、「じゃんけん」を基本にしてきた。
それを今年度は、やめてみた。
(給食システム自体が、昨年度から大きく変わっているのは、以前お伝えした通りである。)
↓参考記事URL:教師の寺子屋「選択できる子どもを育てる」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/03/blog-post_23.html
もし1つだけ余っている牛乳に、複数の子どもがおかわりを希望した時どうするか。
色々な手段がある。
早い者勝ち。
じゃんけん。
くじ引き。
何かしらの優先順。
その他、様々にある。
しかしどれも「ゼロサムゲーム」であることは変わらない。
誰かが十分に得ることで、誰かは失う(手に入らない)という構造である。
ふりかえって、おかわりをする必要、必然性はあるのか。
これは、単なる「もっと」の欲求の充足である。
であるならば、「分ける」という選択肢がある。
これを「どうする?」などと投げ掛ける必要はない。
「こういう場合は、分けます」と決めてしまう。
食欲のような根源的な欲求に関しては、リーダーが制するというのが基本である。
(そうしないと、本能的に弱肉強食の原理が働く。人間から遠ざかる。)
牛乳パックを空けて、それぞれのパックに注ぐだけである。
量も、適当である。
分けた後に精密に比較することなどないのだから、大体同じであればよい。
それ以前に、そういう「せせこましい」ことを言わせないのも、教育である。
こういうことを日常の「当たり前」にしておく。
これが、給食以外にも適用されるようになる。
「どうやって分けようか?」
以前AC JAPANの広告であったが、割り算は、思いやり算である。
日常で、競争原理を持ち込まない。
教育における不毛な競争を、日常から排していく姿勢が大切である。
2020年2月9日日曜日
競争から協奏、協創へ
令和の時代の教育について。
教育には、競争原理が多分に取り入れられてきた。
受験に至っては「戦争」という物騒な名称がつくこともあるほど、教育と競争は根深い関係である。
(私自身の考えとしては、受験は自分自身との対話と比較であり、その分には結構ではないかと思っている。
偏差値70の学校に行きたければ、実は他者は関係なく、偏差値70の学力と人間性を、自分につけるだけである。)
教育における競争が有効な場合。
それは、例えばスポーツの世界である。
「切磋琢磨」という言葉がぴったりくるような関係なら、大いに結構である。
ライバルと互いの技を競い合うというような真剣勝負は、楽しいものである。
しかし、これが間違って取り入れられてきた経緯もある。
他人に勝つことを第一に考えられた教育。
隣の学級は敵。
勝てば官軍負ければ賊軍。
そういう学校風土が各校に実際にあったことは否めないだろう。
そして、周りの声を聞く限り、それは今でもたくさんあるのではないかと推察する。
(部活動においても、間違った競争が未だに繰り広げられているような学校もある。)
競争に勝つより、競争しないで済む方法を考えられる人になることが大切である。
奪い合うより、分かち合うようにするにはどうすればいいか。
助け合うにするにはどうすればいいか。
「競争」よりも「協奏」「協創」を考えられる人を育てていくべきである。
経済の視点からすると、反対されるかもしれない。
しかし長い目で見て、競争力(=人口)の低下を回避できない日本が生き残るには、こちらである。
他者の視点で見て、人に喜ばれることを協力して創造していく力が必要である。
数の上でアジア諸国に圧倒される日本が、同等の価値を生み出すにはこれしかない。
学校の日々の授業は、競争をさせているか、協奏し協創をさせているか。
前号で示した「学級担任の交替制度」も、この視点からである。
これからの日本の未来のためにも、今までの教育の在り方を、根本から見直していきたい。
教育には、競争原理が多分に取り入れられてきた。
受験に至っては「戦争」という物騒な名称がつくこともあるほど、教育と競争は根深い関係である。
(私自身の考えとしては、受験は自分自身との対話と比較であり、その分には結構ではないかと思っている。
偏差値70の学校に行きたければ、実は他者は関係なく、偏差値70の学力と人間性を、自分につけるだけである。)
教育における競争が有効な場合。
それは、例えばスポーツの世界である。
「切磋琢磨」という言葉がぴったりくるような関係なら、大いに結構である。
ライバルと互いの技を競い合うというような真剣勝負は、楽しいものである。
しかし、これが間違って取り入れられてきた経緯もある。
他人に勝つことを第一に考えられた教育。
隣の学級は敵。
勝てば官軍負ければ賊軍。
そういう学校風土が各校に実際にあったことは否めないだろう。
そして、周りの声を聞く限り、それは今でもたくさんあるのではないかと推察する。
(部活動においても、間違った競争が未だに繰り広げられているような学校もある。)
競争に勝つより、競争しないで済む方法を考えられる人になることが大切である。
奪い合うより、分かち合うようにするにはどうすればいいか。
助け合うにするにはどうすればいいか。
「競争」よりも「協奏」「協創」を考えられる人を育てていくべきである。
経済の視点からすると、反対されるかもしれない。
しかし長い目で見て、競争力(=人口)の低下を回避できない日本が生き残るには、こちらである。
他者の視点で見て、人に喜ばれることを協力して創造していく力が必要である。
数の上でアジア諸国に圧倒される日本が、同等の価値を生み出すにはこれしかない。
学校の日々の授業は、競争をさせているか、協奏し協創をさせているか。
前号で示した「学級担任の交替制度」も、この視点からである。
これからの日本の未来のためにも、今までの教育の在り方を、根本から見直していきたい。
2020年2月8日土曜日
担任交代はメタの視点
(うっかりブログの側の更新を1週間以上忘れていたので、暫くの間、毎日更新する。)
今、朝と帰りの学級担任のローテーションをしている。
これは、現在の自分の研究テーマでもある「学年担任制」への試行である。
ねらいを簡単に説明する。
他の学級を見ることで、視野が広がる。
更に他の人に学級担任をしてもらうことで、自分の学級経営を外から見られる。
そういうことの効果を検証しようというものである。
基本的には、次のような考えに基づいている。
人間は、自分のことを考えるようになると、苦しい。
一方で、他人のことを考えるようになると、楽になる。
他人の心配を、自分ごととして、メタ認知的に考えられる。
それが自分だけだと、自分だけの視点となり、メタの視点にならない。
他学級の担任になれば、自分の領域が広がる。
隣のクラスも、自分の一部。
一方で、自分だけど、自分じゃない。
自分自身が、助けてあげたい対象になる。
そういう理論である。
要は、全ての学級担任がメタ認知の視点を自然にもてるような仕組みを作りたいのである。
特に若い時分は、自分のことでいっぱいいっぱいだからこそ、仕組みとしてないと、メタや協働の視点がもてない。
あるいは、うまくやってきたベテランは、自分だけがうまくいって、仲間がうまくいかない状況に、手が出せない。
どちらも、何とかしたいけど「どうしていいかわからない」からである。
そこで、仕組みとして、他学級のことがわかってしまうようにする。
自学級の様子が仲間にわかってしまうようにする。
そうすることで、互助の効果をねらっている。
興味のある方は、ご連絡をいただければ、詳しくやり方をお伝えする。
(非常に簡単な方法ではある。効果は、これから。)
学年内が何となくチームワーク不足と感じていたり、困っている学級があったりするようなら、ぜひやってみていただきたい。
自分をメタ認知的に見る。
苦しさから解放される有効な手段である。
今、朝と帰りの学級担任のローテーションをしている。
これは、現在の自分の研究テーマでもある「学年担任制」への試行である。
ねらいを簡単に説明する。
他の学級を見ることで、視野が広がる。
更に他の人に学級担任をしてもらうことで、自分の学級経営を外から見られる。
そういうことの効果を検証しようというものである。
基本的には、次のような考えに基づいている。
人間は、自分のことを考えるようになると、苦しい。
一方で、他人のことを考えるようになると、楽になる。
他人の心配を、自分ごととして、メタ認知的に考えられる。
それが自分だけだと、自分だけの視点となり、メタの視点にならない。
他学級の担任になれば、自分の領域が広がる。
隣のクラスも、自分の一部。
一方で、自分だけど、自分じゃない。
自分自身が、助けてあげたい対象になる。
そういう理論である。
要は、全ての学級担任がメタ認知の視点を自然にもてるような仕組みを作りたいのである。
特に若い時分は、自分のことでいっぱいいっぱいだからこそ、仕組みとしてないと、メタや協働の視点がもてない。
あるいは、うまくやってきたベテランは、自分だけがうまくいって、仲間がうまくいかない状況に、手が出せない。
どちらも、何とかしたいけど「どうしていいかわからない」からである。
そこで、仕組みとして、他学級のことがわかってしまうようにする。
自学級の様子が仲間にわかってしまうようにする。
そうすることで、互助の効果をねらっている。
興味のある方は、ご連絡をいただければ、詳しくやり方をお伝えする。
(非常に簡単な方法ではある。効果は、これから。)
学年内が何となくチームワーク不足と感じていたり、困っている学級があったりするようなら、ぜひやってみていただきたい。
自分をメタ認知的に見る。
苦しさから解放される有効な手段である。
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