木更津技法研祝賀会での学び。
技法研のメンバーも、教育委員会や行政等の仕事に就くことがある。
そういう場合、御栄転ということで、集まってお祝いをする。
文科省や県庁、指導室長や指導主事、教育委員長、私立校長等、様々な経歴の方々の話が聞ける貴重な機会である。
この場は、ひたすら聞くことに徹した。
なぜなら完全な未見の地の話であり、コメントなどできようもない。
聞けば聞くほど、現場とはまるで違う仕事である。
例えば、文書の書き方一つとっても、厳密である。
学級や学年で出すお便りとは訳が違う。
字間や余白、フォント等まで、細かく形式がしっかりと定まっている。
同じ所属長の名前で出す以上、そこの表現に個性は必要ない。
同じ所属長の名前の文書で、それぞれの担当者の個性を出されると、矛盾が生じて訳がわからないことになる。
本質的に、行政という場は「保守」だという。
確かに、安定した政権の国はどこも保守である。
革命だらけでトップがどんどん交代して方向転換する国の国民は、安心して暮らせない。
では、行政職に「強烈な個性」は不要かという話が出た。
否。
強烈な個性+バランス。
これが大切だという。
強烈な個性だけで押されると、バランスを崩す。
他部署に迷惑がかかるのである。
ただでさえ保守な機関なのに、部分を大幅に変えられると、全体のバランスが取れないのである。
私見だが、ファッションに例えると、男性のスーツスタイルであると解釈した。
ここは、何十年もの超保守で、マイナーチェンジの繰り返しのみである。
そこに突然流行のハーフパンツを取り入れたいというような提案と解釈すれば、良くないことがわかる。
行政職といえば、スーツスタイル。
保守の姿勢がファッションあるいは「ユニフォーム」にも反映しているともとれる。
かといって現在のクールビズが本当にいいかどうかは、微妙なところである。
ネクタイをとったらもはやスーツではない気がするのは私だけだろうか。私も保守なのかもしれない。
閑話休題。
一方で、個性が全くなければ、何も変わらない。
誰がやっても同じということになる。
それではいつまで経っても、良くならない。
やはり、全体のバランスを取りながら、強烈な個性を発揮できる人材が必要だという。
確かに、今回お祝いした方々も、強烈すぎるほどの個性の持ち主である。
個性的な提案をしない人物が、重要なポジションに選出されることはない。
(ただし、向き不向きはある。)
実際、現場の時にも、言いたいことをずばっと言って現場の改革を推進している。
保守とは対照的な立ち位置である。
それぐらいの人が就いて、ちょうど良く変わるということだろう。
完全保守では時流に乗れず、現場が困る。
朝令暮改の改革だらけでもやはり困る。
バランスである。
曰く、
「ルーティーンの中にどれだけ自分を出せるか」。
ここにかかっているという。
これは、行政職だけでなく、現場教員、いや、家事を含めたあらゆるすべての仕事に言えることである。
ルーティーンに埋もれることも嘆くこともなく、そこに自分を出して生きていきたい。
2018年6月29日金曜日
2018年6月27日水曜日
ダメなことはダメと教えられる大人に
ある日曜日の、電車の中での気付き。
その日は、マナーの悪い子どもに何人か出くわした。
電車で通路を挟んで向かい合って、大声でしゃべり騒ぐ兄弟。
車内で騒ぎ駆け回る子ども。
座席の上に立ち上がって遊ぶ子ども。
親は何をしているか。
横で、にこにこと「可愛いね」という笑顔で見ている。
騒ぐ子どもを連れる大人の共通項を見出だした。
母親不在である。
日曜日で、気をきかせて父親あるいは祖父母が連れて歩いているのかもしれない。
多分、母親がいたら、大方は
「静かにしないさい」のピシャリで終わりである。
(それ以前に、座席の上に立ち上がったりしない。)
甘いのである。
父親は、接する時間が短い。
嫌われたくないのかもしれない。
だから、悪いことやマナー違反を、叱らない。
じじばばに至っては、ここに輪をかけてひどい。
「孫を見る温かい目」である。
しかし、車内は、家じゃない。
車内は社会である。
周りの人と形成されている社会である。
ルールは、場にある。
人にはない。
場がルールを規定する。
社会において、個人の教育方針は、優先順位が低いのである。
(だから、電車への「遅刻」は認められない。
さようなら、次の電車をご利用ください、である。)
いい顔をするのは楽である。
甘やかせば、子どもは「パパ、大好き!」となる。
モノを存分に買ってやれば「じじばば、大好き!」となる。
この割を食うのは、母親である。
子どもの「大好き!」に惑わされてはいけない。
それは、「組み易し」という意味の可能性がある。
要は、普段接する厳しい母親と違って「チョロい」のである。
しかしである。
厳しさと本当の大好きは、両立する。
ジャイ○ンと母ちゃんの関係である。
クラス一の悪ガキをしつける母ちゃんは、誰よりも大変である。
子どものマナー違反は、ほぼ100%その場に一緒にいる大人の責任である。
普段の学校なら、教師である。
休日なら、親である。
習い事なら、そこのコーチである。
ダメなことはダメと教えられる大人。
誰にでもそう言われる、という認識が大切である。
人を見て態度を変える子どもを育てているのは、周りの甘い大人である。
その日は、マナーの悪い子どもに何人か出くわした。
電車で通路を挟んで向かい合って、大声でしゃべり騒ぐ兄弟。
車内で騒ぎ駆け回る子ども。
座席の上に立ち上がって遊ぶ子ども。
親は何をしているか。
横で、にこにこと「可愛いね」という笑顔で見ている。
騒ぐ子どもを連れる大人の共通項を見出だした。
母親不在である。
日曜日で、気をきかせて父親あるいは祖父母が連れて歩いているのかもしれない。
多分、母親がいたら、大方は
「静かにしないさい」のピシャリで終わりである。
(それ以前に、座席の上に立ち上がったりしない。)
甘いのである。
父親は、接する時間が短い。
嫌われたくないのかもしれない。
だから、悪いことやマナー違反を、叱らない。
じじばばに至っては、ここに輪をかけてひどい。
「孫を見る温かい目」である。
しかし、車内は、家じゃない。
車内は社会である。
周りの人と形成されている社会である。
ルールは、場にある。
人にはない。
場がルールを規定する。
社会において、個人の教育方針は、優先順位が低いのである。
(だから、電車への「遅刻」は認められない。
さようなら、次の電車をご利用ください、である。)
いい顔をするのは楽である。
甘やかせば、子どもは「パパ、大好き!」となる。
モノを存分に買ってやれば「じじばば、大好き!」となる。
この割を食うのは、母親である。
子どもの「大好き!」に惑わされてはいけない。
それは、「組み易し」という意味の可能性がある。
要は、普段接する厳しい母親と違って「チョロい」のである。
しかしである。
厳しさと本当の大好きは、両立する。
ジャイ○ンと母ちゃんの関係である。
クラス一の悪ガキをしつける母ちゃんは、誰よりも大変である。
子どものマナー違反は、ほぼ100%その場に一緒にいる大人の責任である。
普段の学校なら、教師である。
休日なら、親である。
習い事なら、そこのコーチである。
ダメなことはダメと教えられる大人。
誰にでもそう言われる、という認識が大切である。
人を見て態度を変える子どもを育てているのは、周りの甘い大人である。
2018年6月25日月曜日
一人残らず「ひいき」せよ。
今度の公開研&セミナー講師の、赤坂真二先生の次の著書からの言葉。
『最高の学級づくり パーフェクトガイド 指導力のある教師が知っていること』明治図書
https://www.amazon.co.jp/dp/4181695158
一人残らず「ひいき」せよ。
赤坂先生が師と仰ぐ、橋本定男先生のお言葉だという。
「ひいき」はいけないというのが一般的な解釈である。
しかし、クラスの一人残らず、誰に対してもこの「ひいき」ができたら、それは最高の学級経営なのである。
商売でも何でも、成功しているところは「自分だけは特別」だと思わせるのがうまい。
広告等のキャッチコピーもよくこれを使う。
「あなただけ」「特別」。
広告の場合は、モノを売るという使命があるので、また話は別なのだが、心理的作用は同じである。
学級の子どもの一人ずつを「ひいき」するには、一人ずつをきちんと見ていないとできない。
ざっくりはやれない。
表面的なのは、すぐばれる。
本心から「あなたは特別」と思って伝えないといけない。
親は、これができる。
できるというより、自然にそうなる。
学級の中でも、我が子は特別の「ひいき」に決まっている。
そうでないと困る。
担任がこれをやるのは、容易ではない。
私は実習生時代に担当の先生に
「その子どもと何でつながるのか。」
「子ども一人一人を見るというのは、言うのは簡単だがとても難しい」
ということを教えていただいた。
これと同じなのだと思う。
何で「ひいき」できるか。
子どもは、何を見て「先生は私のことだけを見てくれている」と感じるか。
それは、その子どもの「特別」を掘り出し、洗い出す仕事である。
リーダーは、放っておいても「ひいき」しやすい。
例えば、応援団長には、特別に厳しくなる。
40人から立候補したリーダーに対しては、40倍厳しい。
何百人集まる場でリーダーをつとめさせるなら、甘やかす訳にはいかない。
そして、他の誰よりも労い、声をかけ、認められる。
感謝もできる。
全てにおいて、特別扱いの「ひいき」である。
また一方で「やんちゃ坊主」も、意識しないとむしろ「ひいき」しすぎる。
拙著『切り返しの技術』にも書いたが、叱っているつもりが周りには
「先生のお気に入り」
と認識される可能性がある。
どちらかというと気にかけるべきは、特別なことをしない子どもの方である。
ここをいかに「ひいき」するか。
当たり前なようで流れがちだけど立派なところを、見て留める(認める)ことができるか。
ここの方に、学級経営の肝がある。
特別に目立たない8割以上の子どもこそが、正常な機能を有する学級を支えているのである。
「あの子」をいかに「ひいき」するか。
一辺に全員にはできない。
日々、関わりを意識して過ごしたい。
『最高の学級づくり パーフェクトガイド 指導力のある教師が知っていること』明治図書
https://www.amazon.co.jp/dp/4181695158
一人残らず「ひいき」せよ。
赤坂先生が師と仰ぐ、橋本定男先生のお言葉だという。
「ひいき」はいけないというのが一般的な解釈である。
しかし、クラスの一人残らず、誰に対してもこの「ひいき」ができたら、それは最高の学級経営なのである。
商売でも何でも、成功しているところは「自分だけは特別」だと思わせるのがうまい。
広告等のキャッチコピーもよくこれを使う。
「あなただけ」「特別」。
広告の場合は、モノを売るという使命があるので、また話は別なのだが、心理的作用は同じである。
学級の子どもの一人ずつを「ひいき」するには、一人ずつをきちんと見ていないとできない。
ざっくりはやれない。
表面的なのは、すぐばれる。
本心から「あなたは特別」と思って伝えないといけない。
親は、これができる。
できるというより、自然にそうなる。
学級の中でも、我が子は特別の「ひいき」に決まっている。
そうでないと困る。
担任がこれをやるのは、容易ではない。
私は実習生時代に担当の先生に
「その子どもと何でつながるのか。」
「子ども一人一人を見るというのは、言うのは簡単だがとても難しい」
ということを教えていただいた。
これと同じなのだと思う。
何で「ひいき」できるか。
子どもは、何を見て「先生は私のことだけを見てくれている」と感じるか。
それは、その子どもの「特別」を掘り出し、洗い出す仕事である。
リーダーは、放っておいても「ひいき」しやすい。
例えば、応援団長には、特別に厳しくなる。
40人から立候補したリーダーに対しては、40倍厳しい。
何百人集まる場でリーダーをつとめさせるなら、甘やかす訳にはいかない。
そして、他の誰よりも労い、声をかけ、認められる。
感謝もできる。
全てにおいて、特別扱いの「ひいき」である。
また一方で「やんちゃ坊主」も、意識しないとむしろ「ひいき」しすぎる。
拙著『切り返しの技術』にも書いたが、叱っているつもりが周りには
「先生のお気に入り」
と認識される可能性がある。
どちらかというと気にかけるべきは、特別なことをしない子どもの方である。
ここをいかに「ひいき」するか。
当たり前なようで流れがちだけど立派なところを、見て留める(認める)ことができるか。
ここの方に、学級経営の肝がある。
特別に目立たない8割以上の子どもこそが、正常な機能を有する学級を支えているのである。
「あの子」をいかに「ひいき」するか。
一辺に全員にはできない。
日々、関わりを意識して過ごしたい。
2018年6月23日土曜日
ルールと自由
前号の続き。
学校は、ルールの中での自由を学ぶ場であるというスタンスで考える。
例えばクラス会議では、自治的集団を目指す。
アドラー心理学でいう「共同体感覚」を身に付けることが目的となる。
これには、ルールが伴う。
全員に確実に話す順番が平等に回ってくる。
発言中は聞く。
暴言や発言中の横槍といった横暴は許されない。
だから、安心して発言できるのである。
ただし。
実際の社会がこうであるかというと、話はまた別である。
会議の最中におしゃべりや居眠り、暴言やヤジ。
(国会ですらしばしば問題になる。アピールを兼ねた計画的な行為でもある。)
つまり、本番は、もっときつい。
そこに慣らしていくという意味でも、いつまでも型通りではいけない。
守破離の守をきちんとやったら、段階的に崩していく必要はある。
そう考えると、クラス会議も、生き物である。
ルールというのは、自由になるためにある。
だから、初期段階では、ルールを外さない。
自由な学びを保証したいからこそ、まずはルールをつくる。
学校をはじめとする社会における自由は、タダではない。
無人島の自由とは違う。
先人の血のにじむ努力によって獲得されたものである。
選挙の自由も当たり前のものではないし、学校で学べることも働けることも当たり前ではない。
安全に生きる自由を与えられているのだから、ルールを守る義務がある。
ゲームだったら悪質なルール違反やその繰り返しは最終的に「退場」の処分である。
学校や家庭では、処分をしない代わりに、叱る。
時に怒る。
そして、ほぼ100%許す。
社会に出る前段階の練習の場だからである。
許されることに甘えさせてはいけない。
許されなくなる本番は、目の前だと思って教育に当たる。
自由なクラスを作りたいと熱い思いをもつ若者に向けて、その実現のためにもそこはきちんと伝えておきたい。
学校は、ルールの中での自由を学ぶ場であるというスタンスで考える。
例えばクラス会議では、自治的集団を目指す。
アドラー心理学でいう「共同体感覚」を身に付けることが目的となる。
これには、ルールが伴う。
全員に確実に話す順番が平等に回ってくる。
発言中は聞く。
暴言や発言中の横槍といった横暴は許されない。
だから、安心して発言できるのである。
ただし。
実際の社会がこうであるかというと、話はまた別である。
会議の最中におしゃべりや居眠り、暴言やヤジ。
(国会ですらしばしば問題になる。アピールを兼ねた計画的な行為でもある。)
つまり、本番は、もっときつい。
そこに慣らしていくという意味でも、いつまでも型通りではいけない。
守破離の守をきちんとやったら、段階的に崩していく必要はある。
そう考えると、クラス会議も、生き物である。
ルールというのは、自由になるためにある。
だから、初期段階では、ルールを外さない。
自由な学びを保証したいからこそ、まずはルールをつくる。
学校をはじめとする社会における自由は、タダではない。
無人島の自由とは違う。
先人の血のにじむ努力によって獲得されたものである。
選挙の自由も当たり前のものではないし、学校で学べることも働けることも当たり前ではない。
安全に生きる自由を与えられているのだから、ルールを守る義務がある。
ゲームだったら悪質なルール違反やその繰り返しは最終的に「退場」の処分である。
学校や家庭では、処分をしない代わりに、叱る。
時に怒る。
そして、ほぼ100%許す。
社会に出る前段階の練習の場だからである。
許されることに甘えさせてはいけない。
許されなくなる本番は、目の前だと思って教育に当たる。
自由なクラスを作りたいと熱い思いをもつ若者に向けて、その実現のためにもそこはきちんと伝えておきたい。
2018年6月19日火曜日
不自由な中で自由を学ぶ空間
学校と自由と学びについて。
今の学校に求められるもの。
主体的・対話的で深い学び。
このフレーズから、どんな単語を連想するか。
○○な学び、という感じで、何が当てはまるか。
その中の一つにおそらく「自由」が挙げられる。
主体的とか深いとかは、特にこの単語を連想しやすい。
しかし、学習の場合に当てはまる「自由」は、いつもの生活で用いている「自由」とはちょっと訳が違う。
ところで、我々が最も「自由」を謳歌できるのはどこか。
または、いつか。
単純に考えて、「家」での「休日」である。
(人によっては、家よりも別の場所の方が自由かもしれないが。)
つまり、そういうことである。
家にいる方が、「自由」の学習はできる。
極論、学校に行かないという選択肢が一番「自由」である。
社会人の場合、「学校」が「会社」になるだけである。
では、学校とは何の場所なのか。
師の野口芳宏先生は
「教育とは、そのままにしておかないこと」
と仰っている。
「善意の強制、価値ある強制」
とも仰っている。
つまりは、自然そのままでは、不都合が生じるということ。
荒れ放題の庭と同じである。
庭が野生化したら、庭としての役割を果たせなくなる。
庭とジャングルは、違うのである。
人間らしい暮らしという望ましい状態をイメージしての、手入れが必要なのである。
誤解を恐れずに言うと、学校という場所は、学問を身につける他に
「不自由を学ぶ場所」でもある。
家なら叱られないことが、学校では叱られる。
寝転がってお菓子を食べながら授業を受けることは許されない。
(いや、これは家でも叱られるかもしれないが。
少なくとも、自分の部屋なら無法地帯である。)
なぜ不自由など学ばせないといけないのか。
それは、社会が、完全な自由空間ではないからである。
文化的な空間だからである。
文化的空間には、それぞれの規律がある。
それを学ばずに社会に出ると、不都合が生じる。
規律を知らずに外に出ると、本人にも周りにも危険だし迷惑である。
アメリカで車を運転する際には、日本と逆の右車線を走るというようなものである。
場ごとの交通ルールは、一つの文化である。
結論。
学校は、本質的に不自由な中で学ぶ場である。
不自由な中で自由を学ぶ空間である。
(各種習い事の空間も同様である。)
サッカーやテニスのコート同様、決められた枠の中でこその自由という話である。
枠をきちんと示せば、プレーヤーはその中で自由に動ける。
枠がわからないのが、一番困るのである。
ルールがないのが、一番恐ろしいのである。
(いつ殴られるかわかったものではない。)
言葉を表面的に捉えない、踊らされない。
主体的・対話的で深い学びのねらいの、本質を外さないようにしたい。
今の学校に求められるもの。
主体的・対話的で深い学び。
このフレーズから、どんな単語を連想するか。
○○な学び、という感じで、何が当てはまるか。
その中の一つにおそらく「自由」が挙げられる。
主体的とか深いとかは、特にこの単語を連想しやすい。
しかし、学習の場合に当てはまる「自由」は、いつもの生活で用いている「自由」とはちょっと訳が違う。
ところで、我々が最も「自由」を謳歌できるのはどこか。
または、いつか。
単純に考えて、「家」での「休日」である。
(人によっては、家よりも別の場所の方が自由かもしれないが。)
つまり、そういうことである。
家にいる方が、「自由」の学習はできる。
極論、学校に行かないという選択肢が一番「自由」である。
社会人の場合、「学校」が「会社」になるだけである。
では、学校とは何の場所なのか。
師の野口芳宏先生は
「教育とは、そのままにしておかないこと」
と仰っている。
「善意の強制、価値ある強制」
とも仰っている。
つまりは、自然そのままでは、不都合が生じるということ。
荒れ放題の庭と同じである。
庭が野生化したら、庭としての役割を果たせなくなる。
庭とジャングルは、違うのである。
人間らしい暮らしという望ましい状態をイメージしての、手入れが必要なのである。
誤解を恐れずに言うと、学校という場所は、学問を身につける他に
「不自由を学ぶ場所」でもある。
家なら叱られないことが、学校では叱られる。
寝転がってお菓子を食べながら授業を受けることは許されない。
(いや、これは家でも叱られるかもしれないが。
少なくとも、自分の部屋なら無法地帯である。)
なぜ不自由など学ばせないといけないのか。
それは、社会が、完全な自由空間ではないからである。
文化的な空間だからである。
文化的空間には、それぞれの規律がある。
それを学ばずに社会に出ると、不都合が生じる。
規律を知らずに外に出ると、本人にも周りにも危険だし迷惑である。
アメリカで車を運転する際には、日本と逆の右車線を走るというようなものである。
場ごとの交通ルールは、一つの文化である。
結論。
学校は、本質的に不自由な中で学ぶ場である。
不自由な中で自由を学ぶ空間である。
(各種習い事の空間も同様である。)
サッカーやテニスのコート同様、決められた枠の中でこその自由という話である。
枠をきちんと示せば、プレーヤーはその中で自由に動ける。
枠がわからないのが、一番困るのである。
ルールがないのが、一番恐ろしいのである。
(いつ殴られるかわかったものではない。)
言葉を表面的に捉えない、踊らされない。
主体的・対話的で深い学びのねらいの、本質を外さないようにしたい。
2018年6月17日日曜日
やる気スイッチを入れる極意
前号で日誌を例に、日誌や継続することの大切さを書いた。
しかし、あれだけ実績を知っていても、大抵の人は、やらない。
大谷選手がやっていると知り、効果てきめんとわかっても、まず、やらない。
なぜなのか。
答えは、
「やる気が出ないから」
である。
正確に表現すると
「最初の1歩目が出ないから」
である。
やる気スイッチが入らないのである。
そこで、先日「中谷塾」での中谷彰宏先生から学んだ言葉を紹介する。
「やる気は、5分後にやってくる。」
この言葉が、実はやる気スイッチを入れる「極意」である。
私も飯村友和先生との共著
『やる気スイッチ押してみよう!』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
の中で、学校における教師と子どものやる気スイッチを入れるための様々なアプローチを紹介した。
どの手法であれ、突き詰めるとどれも「とりあえず、やる」が全てである。
本を読んで「やってみよう!」と思ったことを最速でやってみることである。
「感動は生もの」なので、始める時は早ければ早いほどいい。
日誌だったら、気合いを入れないで、とりあえず5文字書いてみることである。
5文字書けば、もう少し書きたくなってしまう。
結果的に、書き続けている自分に気付くはずである。
ここがわかると、やる気スイッチを「入れない」ための方法もわかる。
「うまくいかない・できない理由をあれこれ考える」である。
最たるものは「時期」や「年齢」に関する言い訳である。
「まだ若すぎる」「もう年を取りすぎている」の両極である。
極論、「ちょうどいい時期」というのは、人生において「今」この瞬間以外に存在しない。
そういえば中谷先生がある本の中で
「本を最後まで読んでるようでは、情熱が足りない」
というようなことを書いていたのを思いだした。
「これ読んでる最中に今すぐ本を放り出して動け」
ということである。
それぐらい、行動がすべてということ。
やる気がしないでも、やる。
それには、師の野口先生の提唱する「他律的自律」が効果的である。
何かに属し、やらざるを得ない状況に自分を追い込む。
サークルに入るのもいい。
セミナーに参加するのもいい。
とにかく、人が集まる場に出向くことである。
そうすれば、必ず何かがかわる。
行く前は面倒になる。
「〇〇ブルー」は、変化に際する時には必ず起こる。
その変化が、どんなに素晴らしいことでも起きる。
飲み会すら面倒になる。
でも、よほどの「人でなし」でない限り、他人と約束したからには、行くはずである。
やる気は、5分後にやってくる。
だから、とりあえず他人を巻き込んでやらざるを得ない状況に、自分を追い込む。
当たり前のようで、意外と軽視されている。やる気スイッチを入れるための極意である。
という訳で、千葉大附属小の公開研と、赤坂真二先生のセミナーのご案内。
◎第51回千葉大附属小公開研究会 7月6日(金)7日(土)開催
↓ご案内&申し込みフォーム
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html
◎7月8日(日)10:00~16:00 会場:JR市川駅前ホテルを予定
「最高の学級づくり パーフェクトセミナー」講師:赤坂真二先生
https://www.kokuchpro.com/event/07116f254ad2ad5e2d7fef184f3c9458/
やる気が出なくても動けない理由があってもいいので、まずは申し込むという1アクションをおすすめする。
しかし、あれだけ実績を知っていても、大抵の人は、やらない。
大谷選手がやっていると知り、効果てきめんとわかっても、まず、やらない。
なぜなのか。
答えは、
「やる気が出ないから」
である。
正確に表現すると
「最初の1歩目が出ないから」
である。
やる気スイッチが入らないのである。
そこで、先日「中谷塾」での中谷彰宏先生から学んだ言葉を紹介する。
「やる気は、5分後にやってくる。」
この言葉が、実はやる気スイッチを入れる「極意」である。
私も飯村友和先生との共著
『やる気スイッチ押してみよう!』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
の中で、学校における教師と子どものやる気スイッチを入れるための様々なアプローチを紹介した。
どの手法であれ、突き詰めるとどれも「とりあえず、やる」が全てである。
本を読んで「やってみよう!」と思ったことを最速でやってみることである。
「感動は生もの」なので、始める時は早ければ早いほどいい。
日誌だったら、気合いを入れないで、とりあえず5文字書いてみることである。
5文字書けば、もう少し書きたくなってしまう。
結果的に、書き続けている自分に気付くはずである。
ここがわかると、やる気スイッチを「入れない」ための方法もわかる。
「うまくいかない・できない理由をあれこれ考える」である。
最たるものは「時期」や「年齢」に関する言い訳である。
「まだ若すぎる」「もう年を取りすぎている」の両極である。
極論、「ちょうどいい時期」というのは、人生において「今」この瞬間以外に存在しない。
そういえば中谷先生がある本の中で
「本を最後まで読んでるようでは、情熱が足りない」
というようなことを書いていたのを思いだした。
「これ読んでる最中に今すぐ本を放り出して動け」
ということである。
それぐらい、行動がすべてということ。
やる気がしないでも、やる。
それには、師の野口先生の提唱する「他律的自律」が効果的である。
何かに属し、やらざるを得ない状況に自分を追い込む。
サークルに入るのもいい。
セミナーに参加するのもいい。
とにかく、人が集まる場に出向くことである。
そうすれば、必ず何かがかわる。
行く前は面倒になる。
「〇〇ブルー」は、変化に際する時には必ず起こる。
その変化が、どんなに素晴らしいことでも起きる。
飲み会すら面倒になる。
でも、よほどの「人でなし」でない限り、他人と約束したからには、行くはずである。
やる気は、5分後にやってくる。
だから、とりあえず他人を巻き込んでやらざるを得ない状況に、自分を追い込む。
当たり前のようで、意外と軽視されている。やる気スイッチを入れるための極意である。
という訳で、千葉大附属小の公開研と、赤坂真二先生のセミナーのご案内。
◎第51回千葉大附属小公開研究会 7月6日(金)7日(土)開催
↓ご案内&申し込みフォーム
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html
◎7月8日(日)10:00~16:00 会場:JR市川駅前ホテルを予定
「最高の学級づくり パーフェクトセミナー」講師:赤坂真二先生
https://www.kokuchpro.com/event/07116f254ad2ad5e2d7fef184f3c9458/
2018年6月16日土曜日
書くことを継続する
最近SNS上などで、大谷翔平選手の高校時代の日誌や、曼荼羅目標シート等が話題になっている。
本メルマガの長い読者ならご存知かと思うが、大谷選手が用いているのは、原田隆史先生の目標達成プログラムである。
私も「東京教師塾」で学んだ手法であり、在塾中に曼荼羅の手法も教えていただいた。
実際、大谷選手が教師塾の「聴講生」として会場に来て一緒に学んだこともある。
ちなみに、夜中の7時から2時のことである。
プロ野球選手として忙しい中、あんな時間にわざわざ来て学ぼうというのが普通ではない。
塾の中では、実際の例として他の方が書かれた目標達成シートやルーティーン表が配られる。
原田先生の教え子の日本一になった中学生のものだったり、企業の方のものだったりする。
それを見ると、どれもとにかく書いてある量が半端ではない。
シート内にびっしりと書き込まれている。
しかも、どれも具体的である。
正直、最初は見るだけで「これはできないかも・・・」とひるむ。
実際書いてみると、やっぱり大変である。
書けない。
なぜか。
自分の中で、考えがはっきりしていないからである。
目標もぼんやりしているし、やるべきこともぼんやりしている。
だから、ぼんやり生きてしまうし、何も達成できないまま時間が過ぎ去るのである。
これが、日誌を「書くこと」の有用性である。
自分の考えが明確になる。
「考え」は「意識」するまで、存在しない。
あれども見えずの状態である。
さらに、塾では作ったものを発表しないといけない。
印刷されて、塾生全員に配られる。
周りも、夜中の2時まで学習しようという気合いの入った人達である。
そうなると、半端なものは書けない。
やっとできても、自分の文章を読み返すことになる。
それも、何度も何度も読み返して修正をかけて、磨き上げることになる。
そうこうしている内に、目標も自分のするべきことも潜在意識にも刷り込まれる。
書いて発表するという行為の効能である。
あらゆる学習会において、実践レポート等を大切にするのも、こういうことからである。
また「日誌」となると、毎日書かないといけない。
さぼっても正直わからないかもしれないが、それでは何のために夜中に東京まで行って学んでいるかわからない。
だから、多少しんどくても毎日書くことになる。
書く行為には、力が宿る。
そしてどんなことでも、継続が力になる。
継続を助けてくれるのは、他者の目である。
野口芳宏先生の言葉でいえば、属すことによる「他律的自律」である。
時に自分のあらゆる行為が「無駄かな」と思いくじけそうになることがあるので、書いてみた。
本メルマガの長い読者ならご存知かと思うが、大谷選手が用いているのは、原田隆史先生の目標達成プログラムである。
私も「東京教師塾」で学んだ手法であり、在塾中に曼荼羅の手法も教えていただいた。
実際、大谷選手が教師塾の「聴講生」として会場に来て一緒に学んだこともある。
ちなみに、夜中の7時から2時のことである。
プロ野球選手として忙しい中、あんな時間にわざわざ来て学ぼうというのが普通ではない。
塾の中では、実際の例として他の方が書かれた目標達成シートやルーティーン表が配られる。
原田先生の教え子の日本一になった中学生のものだったり、企業の方のものだったりする。
それを見ると、どれもとにかく書いてある量が半端ではない。
シート内にびっしりと書き込まれている。
しかも、どれも具体的である。
正直、最初は見るだけで「これはできないかも・・・」とひるむ。
実際書いてみると、やっぱり大変である。
書けない。
なぜか。
自分の中で、考えがはっきりしていないからである。
目標もぼんやりしているし、やるべきこともぼんやりしている。
だから、ぼんやり生きてしまうし、何も達成できないまま時間が過ぎ去るのである。
これが、日誌を「書くこと」の有用性である。
自分の考えが明確になる。
「考え」は「意識」するまで、存在しない。
あれども見えずの状態である。
さらに、塾では作ったものを発表しないといけない。
印刷されて、塾生全員に配られる。
周りも、夜中の2時まで学習しようという気合いの入った人達である。
そうなると、半端なものは書けない。
やっとできても、自分の文章を読み返すことになる。
それも、何度も何度も読み返して修正をかけて、磨き上げることになる。
そうこうしている内に、目標も自分のするべきことも潜在意識にも刷り込まれる。
書いて発表するという行為の効能である。
あらゆる学習会において、実践レポート等を大切にするのも、こういうことからである。
また「日誌」となると、毎日書かないといけない。
さぼっても正直わからないかもしれないが、それでは何のために夜中に東京まで行って学んでいるかわからない。
だから、多少しんどくても毎日書くことになる。
書く行為には、力が宿る。
そしてどんなことでも、継続が力になる。
継続を助けてくれるのは、他者の目である。
野口芳宏先生の言葉でいえば、属すことによる「他律的自律」である。
時に自分のあらゆる行為が「無駄かな」と思いくじけそうになることがあるので、書いてみた。
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