新刊に関連して、リアクションとスルーの選択の大切さについて。
学級担任や親などの立場で、気を付けた方がいい口癖がある。
「○○していいよ」
である。
日常生活には「指導」すべきことがたくさんある。
子どもが何か言ったら大概「リアクション」を求められる。
よって「スルー」すべきところの判断が難しい。
事実、子どもたちは、何かと「許可」を求めてくる。
よくある一般的でわかりやすいのが
「トイレに行ってもいいですか」
である。
本来は、トイレに行きたい人に「ダメだ」などと言える訳がない。
なぜこんなことになるのか。
恐らく、長い学校の歴史の中で、かつてトイレで遊ぶとか、さぼるといったことがあったのかもしれない。
(今もあるのかもしれないが。)
「許可制」は、続けていると、どうしても依存的になってしまう。
「○○してもよい」は、責任をこちらが引き受ける言葉である。
つまりは、子どもからすれば、相手に責任をもってもらう行為である。
なぜこうなるのか。
学級担任自身も、何かと「許可制」で動くことが多いからかもしれない。
学校は、担任個人の思うようにできることは多くない。
何かをしようとすれば、何かと許可がいるし、しかも大概は許可がおりない。
その代わりに、管理職など上の立場の人に責任をもってもらえる。
その上には、もっと大きな組織が責任をとってくれている。
つまり、学級担任と子どもという関係は、巨大な責任多重構造の底辺の部分にいるといえる。
だから、学校としてのルールを越えるようなことは、担任個人では残念ながら許可ができない。
逆に言えば、ただでさえ裁量権が少ないのだから、子ども個人で完結するような事柄に、いちいち口出しをしない方がよい。
トイレへ行くことなどはその最たるものである。
例え休み時間に行っていたとしても、急にお腹の調子が悪くなるなどの個人的事情は十分に考えられる。
許可するような類のものではない。
間に合わなくなる前にさっさと行った方がよい。
小雨時や雨上がりなどに「外で遊んでもいいですか」も同じ。
本来なら適切に考えて自己判断すればよいのだが、担任に判断を委ねてくる。
「スルー」すべきところであるが、
「思い切り転んで泥まみれのまま教室に入るのは結構困る」ということだけは伝えておいてもよいかもしれない。
(要は「お気をつけて」ということである。)
子どもたちは、「正解」を常に他に求めているのである。
テストはこれを顕著に表す。
テストは提出すれば〇×がついて返ってくる。
普段から、「正解」のある世界に慣れ過ぎているのかもしれない。
自己判断の力をつけるには、漢字の小テストの相互〇つけをするとよい。
正誤の判定のきわどいものに対しては「これは〇か×か」ときいてくる。
いちいち「こうこうこういう訳で、〇(あるいは×)だと思う」と伝える。
これを繰り返していく内に、次のことが身に付く(人が多い)。
・自分の中で何が〇か×かの判定基準ができてくる
・正誤の判断をしづらいもの(雑)が〇つけの際に迷惑だとわかる
→解答を書く時に丁寧になってくる
担任の立場からすると、最初はいちいちリアクションをとっていたのが、その内にそれが減ることになる。
原則、ここを目指す。
最初の内は、手取り足取りでもいいのである。
しかし、それはやがて手放していくもの。
スルーでいける部分を増やしていくのが学級経営のコツである。
細かなチェック機能も、最初の内だけでよい。
例えば持ち物のようなものも、習慣化さえすれば、チェック不要になっていく。
スルーできるところをいつまでもリアクションしないことである。
それだと、いつまでたっても子どもが成長しない。
今回の新著を読んでいただくとわかるが、圧倒的に「リアクション」の方が多い。
この理由は、リアクションをするのは、スルーできない段階だからである。
本の一番の想定読者は若年層ため、最初の内の「育っていない」状態を想定している。
よって、リアクションが多めの配分となっている。
ただし、適切なリアクションをしていく中で、スルーにもっていくというのが肝要である。
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