2021年3月21日日曜日

法治の放置を考える

 前号のルールの話と関連して、ルールを守ることと片目を瞑ることについて。

語呂合わせして、法治の放置(スルー)についてである。


前号で「ルールは集団にとって合理的かつ最小限が望ましい」ということを書いた。

もっと以前から「ルールはそれ自体がなくなっても大丈夫な状態を目指して設定する」ということも書いてきている。

ここは根幹である。


つまりは、原則としてルールは少ない方がいいのである。

ないで済むなら、ない方がよい。

特に「万が一」に備えたルールがたくさんあるので、全部完璧に守ろう、守らせようとすると、息苦しい。


現実問題として、見えているけどスルーしていることがたくさんある。

しかし、その場のルールを司っている人の目の前で堂々と破ってはいけない。

他で片目を瞑ってスルーしていたものも、当然リアクションしなくてはならなくなる。

その姿を見た周りが騒ぎ、不信感や不安感をもつからである。


例えば、高速道路ではルール違反をしている車が結構ある。

しかしそのルールを知って守っている私の真横を明らかにスピード違反で通りすぎても、別に咎めないし、捕まえることもできない。

スルーである。

私にはその権限も力もないからである。


しかし、パトカーの真横をそのハイスピードで追い越した車は、当然捕まる。

それをしてくれないと、警察という国家権力への信用がなくなり、国の秩序が滅茶苦茶になる。


学校における教師というのは、そういう面もある。

学校の法治を担当し保障している存在といえる。

自治もあくまで法治の保障の上でこそ正常に機能する。


子どもたち同士は、自分を含めた仲間のルール破りを見ているし、知っている。

それを別にいいと思っている子どももいるし、嫌だなと思っている子どももいる。

どちらにせよ、そのごちゃごちゃな現状を「そういうもの」として受け入れている状態である。


しかし、教師の目の前で堂々と破った場合は、問題である。

これはスルーできない。

周りもどうするか見ている。

それをスルーした場合「ザル法公認」である。


本当に賢い子どもは、ここも考えている。

学校のルールの中には「万が一規定」もたくさんあり、四六時中守られるものではないとわかっている。

そして、教師の目の前で「それをやっちゃあおしまいよ」というのもわかっている。

だから、その線は越えてこない。


しかし、そこまで忖度してくれるのはもはや「子ども」ではない。

多くは、やってしまうのである。

なぜなら、それが子どもだからである。

だから、言わざるを得ない状況に、四六時中なる。


教師の側も、見えているけど敢えてスルーしていることがかなりある。

「ちょっと廊下を走ってる」などその最たるものである。

そこまで何もかもきゅうきゅうに締め付けると、お互いに苦しいからである。

(廊下を走るのを完璧に0にできたら、それは「幽霊学校」であり、もはや学校ではなくて病院である。)


しかし、目の前で堂々とやられると、困る。

近所の住民の方々など、周りの人から苦情が来る場合も、絶対に全力で対処する。

「いいんだよ」とは100%ならない。

その辺りが本当にわかって欲しいところである。


何が言いたいかというと、学校や学級は、教師と子どもの絶妙なバランスでこそ成り立つということである。

「清濁併せ飲む」で、こちらも別に子どもが100%清いとは思っていない。

(こちらがそう思われていないのも、百も承知である。)

多少のことには目を瞑る度量があるのだが、目の前、あからさま、程度のひどいものは、スルーできないので、困るのである。


お互いに、気持ちよく過ごせる程度にルールを守り、時にスルーできる程度に留めること。

この辺りの寛容さは、学校に関わる全ての人に必要なのではないかと思われる。

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