質以前の量、数の大切さについて。
自分の名前で検索をかけてみて、気付いた。
もう、記事が拾いきれないほどになっている。
自分でも何を書いたか覚えていないほどになってきた。
色々なコメントがついて何かと盛り上がっているものもある。
もはや手を離れすぎて、私の記事ではなくなっているものもある。
中には、良質なものもあるし、そうでないものもある。
たくさん読まれているのがいいかものというと、そうでもない。
ただ「キャッチー」なコピーが後付けされたものの方が読まれる傾向があるのは間違いない。
つまり、本質的な価値と広がりは必ずしも一致していない。
しかし、市場の価値は市場原理で決まるので、本人の願いとは一致しない。
「自分が最も言いたいこと」が書いてある記事よりも、そうでないものの方が認められているというのが実情である。
ただ読み返すと、言いたいことを結構言っている。
何年前の記事を読んでみても、今もそうだと思う。
軸自体は全く変わっていないのである。
常に「根本・本質・原点」を考えよという師の教えに従っているお蔭様である。
そして、同じようなことをかなり繰り返し書いている。
これが大切である。
同じことを、手を変え品を変え、何度でも言う。
そうしないと、伝わらないのである。
今年また、新しい本を書く。
書くのだが、書いている本質は、今まで出した他の記事や本と同じである。
例えばクリーンヒットした『切り返しの技術』。
(韓国語版が刊行予定である。書いた本人が読めないのが残念無念である。)
これの根本の思想は「教師自身の在り方が全て」。
これは最初に出した『やる気スイッチ』の根本思想と同じである。
また一番新しい『お年頃の高学年に効く!』は、切り返しの技術の高学年特化版である。
教育の成功原則の根本は「子どもの成長を第一に願う」という一点である。
『「捨てる」仕事術』も、書いてあることの要は仕事の能率化が子どもの成長につながるという一点のみで、やはり全く同じである。
質も欲しいが、先に欲しいのは圧倒的に量である。
どうせ万人に伝わるように上手くなんて書けないのである。
自分では下手くそだと思った文章が、意外にもある人にはストンと入ることもある。
わからないものである。
だから、下手でも書く。
実は量をこなす中で、質が高まるという面が大きい。
データが多いほど、共通項がはっきりしてくる。
本質の輪郭がはっきりと見えてくる。
まずは、質より量。
上手いやり方を求めてコロコロ変えるより、まずそれをたくさんやってみる。
量を集めてこそ、共通項である本質も見えてくると思う次第である。
2020年2月28日金曜日
文脈なしの真似は、害悪
正月に行ったセミナー後の気付き。
かつて、プロレスごっこが流行っていた。
テレビで放映していたことも大きいのだろう。
私の子ども時代にも、アニメで放映されたプロレスものの大ヒットアニメがあった。
当時のお茶の間の子どもたちも当然「受けの美学」なんてことはさっぱり知らない。
しかし、アニメヒーローの「大技」には憧れる。
どうなるか。
クラスの友達に対し
「理由もなくいきなりコブラツイストや四の字固めをかけたがる」
「教室の床へパイルドライバー」
みたいなことになる。
まあ、相当危険な上に極めて迷惑な話である。
また別の例だが、小学校高学年の頃、私の友達の一人が、親と本物の相撲を見に行ったとえらく興奮して話していた。
彼をAと呼ぶ。
そこでAが「相撲とろうぜ!」と仲間に向かって言い出した。
「相撲ごっこ」は仲間内でもよくしていたので、仲間の一人Bが「いいよ」とOKをした。
(ちなみに、ちょうど校庭の砂場のところにいたのである。
放課後だったが、当時は学校の運動場に自由に出入りできた。)
「はっけよ~い、のこった!」
突然、AがBの横面を「バチン!」と思い切り引っぱたいた。
突然の事態にびっくりするB。
涙目のB。
当然である。
みんな、一瞬凍り付いた。
A曰く満面の笑みで
「相撲は、張り手をするんだぜ!当たり前だよ!」
・・・・・・
いやいや、待て待て。
そうかもしれないが、そうではないだろう。
「誰か、次!やろうぜ!」
当然、誰もやらない。
何が言いたいかというと、
「文脈なしの真似は、害悪」
ということである。
プロレスも相撲も、文字通り死ぬ気で鍛え上げた肉体同士のぶつかり合いである。
だからこそ、成立する。
張り手でびっくりしたり倒れたりするほど、ヤワじゃないのである。
しかし子どもが生半可にこれを見て真似をすると、とんでもない危険な目にあう。
それぞれの技を使うまでの土台も文脈も違うのである。
また、その技ができるからといって、それを使うべき場面というのもある。
プロレスならいきなり大技をかけるようなもので、完全に文脈から外れている。
しかも、それ一点張り。
それでうまくいくはずがない。
(そもそも勝つためだけのプロレスは、エンターテインメントになっていない。)
文脈なしで手法を真似ると、逆に大きくマイナスである。
それよりも、先に土台となる基礎を徹底的に磨き、そこから根本的な信念や哲学面を磨くべきである。
心技体をバランスよく伸ばす必要がある。
文脈なしの真似は、害悪。
ついつい素晴らしく見える実践や有名な先生に憧れてしまう若手に向けて、老婆心ながら一言申し上げる次第である。
かつて、プロレスごっこが流行っていた。
テレビで放映していたことも大きいのだろう。
私の子ども時代にも、アニメで放映されたプロレスものの大ヒットアニメがあった。
当時のお茶の間の子どもたちも当然「受けの美学」なんてことはさっぱり知らない。
しかし、アニメヒーローの「大技」には憧れる。
どうなるか。
クラスの友達に対し
「理由もなくいきなりコブラツイストや四の字固めをかけたがる」
「教室の床へパイルドライバー」
みたいなことになる。
まあ、相当危険な上に極めて迷惑な話である。
また別の例だが、小学校高学年の頃、私の友達の一人が、親と本物の相撲を見に行ったとえらく興奮して話していた。
彼をAと呼ぶ。
そこでAが「相撲とろうぜ!」と仲間に向かって言い出した。
「相撲ごっこ」は仲間内でもよくしていたので、仲間の一人Bが「いいよ」とOKをした。
(ちなみに、ちょうど校庭の砂場のところにいたのである。
放課後だったが、当時は学校の運動場に自由に出入りできた。)
「はっけよ~い、のこった!」
突然、AがBの横面を「バチン!」と思い切り引っぱたいた。
突然の事態にびっくりするB。
涙目のB。
当然である。
みんな、一瞬凍り付いた。
A曰く満面の笑みで
「相撲は、張り手をするんだぜ!当たり前だよ!」
・・・・・・
いやいや、待て待て。
そうかもしれないが、そうではないだろう。
「誰か、次!やろうぜ!」
当然、誰もやらない。
何が言いたいかというと、
「文脈なしの真似は、害悪」
ということである。
プロレスも相撲も、文字通り死ぬ気で鍛え上げた肉体同士のぶつかり合いである。
だからこそ、成立する。
張り手でびっくりしたり倒れたりするほど、ヤワじゃないのである。
しかし子どもが生半可にこれを見て真似をすると、とんでもない危険な目にあう。
それぞれの技を使うまでの土台も文脈も違うのである。
また、その技ができるからといって、それを使うべき場面というのもある。
プロレスならいきなり大技をかけるようなもので、完全に文脈から外れている。
しかも、それ一点張り。
それでうまくいくはずがない。
(そもそも勝つためだけのプロレスは、エンターテインメントになっていない。)
文脈なしで手法を真似ると、逆に大きくマイナスである。
それよりも、先に土台となる基礎を徹底的に磨き、そこから根本的な信念や哲学面を磨くべきである。
心技体をバランスよく伸ばす必要がある。
文脈なしの真似は、害悪。
ついつい素晴らしく見える実践や有名な先生に憧れてしまう若手に向けて、老婆心ながら一言申し上げる次第である。
2020年2月22日土曜日
参考になさってください
前号の「参考になります」が目上の人に失礼ということについて、意外と反応があった。
結構、みんな意識せずに使ってしまっているようである。
ところで、こういうことを書くと
「参考は悪い言葉」
みたいに誤解されてしまうことがある。
これは断じてそうではない。
言葉自体に良し悪しはない。
使い方の問題である。
例えば「愛」がいい言葉とか「馬鹿」はだめな言葉、という訳では決してない。
言葉自体でなく、使う文脈で意味が変わるというのが大切なのである。
例えば、自分の上司に意見を述べた。
後日「参考にさせてもらった」と言われたとする。
これは、正しい用法である。
目上の人が使うには、適切な言葉だからである。
また、誰かから、何か質問を受けて自分が答えた。
それに対して
「参考になさってください。」
という。
これも正しい。
私の意見は「参考」程度であり、相手にとっては大したものではない、という意味になるからである。
つまり、自分の立場を下げて言う、謙譲のような意味合いになる。
(「参る」という言葉自体が謙譲語である。)
この手の話は、本を読めば山ほど出ている。
職員室の電話対応で「〇〇先生ですね。」「校長先生は帰りました。」と答えてしまうというのも、「若手あるある」である。
(普段目上の人を、場に応じて呼び捨てすることに慣れていないためと思われる。
自分もかつてやっていたのでわかる。)
とにかく、知っているか、知らないかの差である。
人間性の差ではない。
知識の有無は、馬鹿にできないほど、物事の明暗を分ける。
世の中は、知らないことだらけなのだから、一生勉強。
子どもに普段から「勉強は大切」と力説する所以である。
結構、みんな意識せずに使ってしまっているようである。
ところで、こういうことを書くと
「参考は悪い言葉」
みたいに誤解されてしまうことがある。
これは断じてそうではない。
言葉自体に良し悪しはない。
使い方の問題である。
例えば「愛」がいい言葉とか「馬鹿」はだめな言葉、という訳では決してない。
言葉自体でなく、使う文脈で意味が変わるというのが大切なのである。
例えば、自分の上司に意見を述べた。
後日「参考にさせてもらった」と言われたとする。
これは、正しい用法である。
目上の人が使うには、適切な言葉だからである。
また、誰かから、何か質問を受けて自分が答えた。
それに対して
「参考になさってください。」
という。
これも正しい。
私の意見は「参考」程度であり、相手にとっては大したものではない、という意味になるからである。
つまり、自分の立場を下げて言う、謙譲のような意味合いになる。
(「参る」という言葉自体が謙譲語である。)
この手の話は、本を読めば山ほど出ている。
職員室の電話対応で「〇〇先生ですね。」「校長先生は帰りました。」と答えてしまうというのも、「若手あるある」である。
(普段目上の人を、場に応じて呼び捨てすることに慣れていないためと思われる。
自分もかつてやっていたのでわかる。)
とにかく、知っているか、知らないかの差である。
人間性の差ではない。
知識の有無は、馬鹿にできないほど、物事の明暗を分ける。
世の中は、知らないことだらけなのだから、一生勉強。
子どもに普段から「勉強は大切」と力説する所以である。
2020年2月21日金曜日
授業の開始が「号令」でよいか
言葉について。
学校やその他の場で、誤用と思われる言葉がまかり通っているものは、かなりある。
例えば、授業の開始や終わりに「号令」をかける。
日本においては、どこの教室でも見られる一般的なことである。
学校文化における「暗黙の了解」の一つである。
「号令」の意味を検索して調べる。
次のように出る。
ごうれい【号令】
1.《名・ス自》支配者や指揮者が、統率する者に命令・指図(さしず)をすること。
2.《名》指揮者が、一定の型に従って発する、ある動作をさせるための言葉。「─を掛ける」
「命令」として用いるものである。
あるいは、ある動作を「させる」ためのものである。
今の学校教育の目指す方向からすると、これは逆行しているようである。
また、そもそも子どもは授業の支配者でも指揮者でもないので、日直等が「号令」をかけるのもおかしな話である。
授業の開始や終わりにするとしたら、「礼」が妥当なのではないかと考える。
「これから一緒に学びましょう」という、相手や場、全てへの礼である。
授業前の「号令」に関してもう一ついうと、座った姿勢のまま「気を付け」という場合も、言葉がおかしい。
気を付けは、直立して行う動作を指す。
椅子に座ったままではできない動きである。
私は師に「言葉に敏感になれ」と教えられてきた。
その言葉が本当に適切なのか、吟味せよということである。
(ちなみに俳句も嗜んでいる先生で、言葉の吟味は作句の基本である。)
例えば決意表明等で「〇〇しようと思います」などと言うと
「思うだけか。やらないのか。」
と詰められる。
言葉の使い方が、あやふやなのである。
こういうことは、結構ある。
知らないが故の失礼ということもある。
例えばよくある「参考になりました。」は、目上の人には使えない。
言葉を知っている相手にとっては、実は失礼に当たる。
それは自分の考えの「参考程度」「付け足し」ということである。
もちろん、言った本人にそんなつもりがないことは、言われた側は百も承知である。
だから、悪気がないからこそ、「どこかで伝えないと」とは思いつつも、なかなか言えないというのが現実である。
(大抵、「参考になりました。」と言ってくる人は、いい人である。)
子どもにかける言葉も、本当にそれでよいのか、時に振り返る必要があるように思う。
学校やその他の場で、誤用と思われる言葉がまかり通っているものは、かなりある。
例えば、授業の開始や終わりに「号令」をかける。
日本においては、どこの教室でも見られる一般的なことである。
学校文化における「暗黙の了解」の一つである。
「号令」の意味を検索して調べる。
次のように出る。
ごうれい【号令】
1.《名・ス自》支配者や指揮者が、統率する者に命令・指図(さしず)をすること。
2.《名》指揮者が、一定の型に従って発する、ある動作をさせるための言葉。「─を掛ける」
「命令」として用いるものである。
あるいは、ある動作を「させる」ためのものである。
今の学校教育の目指す方向からすると、これは逆行しているようである。
また、そもそも子どもは授業の支配者でも指揮者でもないので、日直等が「号令」をかけるのもおかしな話である。
授業の開始や終わりにするとしたら、「礼」が妥当なのではないかと考える。
「これから一緒に学びましょう」という、相手や場、全てへの礼である。
授業前の「号令」に関してもう一ついうと、座った姿勢のまま「気を付け」という場合も、言葉がおかしい。
気を付けは、直立して行う動作を指す。
椅子に座ったままではできない動きである。
私は師に「言葉に敏感になれ」と教えられてきた。
その言葉が本当に適切なのか、吟味せよということである。
(ちなみに俳句も嗜んでいる先生で、言葉の吟味は作句の基本である。)
例えば決意表明等で「〇〇しようと思います」などと言うと
「思うだけか。やらないのか。」
と詰められる。
言葉の使い方が、あやふやなのである。
こういうことは、結構ある。
知らないが故の失礼ということもある。
例えばよくある「参考になりました。」は、目上の人には使えない。
言葉を知っている相手にとっては、実は失礼に当たる。
それは自分の考えの「参考程度」「付け足し」ということである。
もちろん、言った本人にそんなつもりがないことは、言われた側は百も承知である。
だから、悪気がないからこそ、「どこかで伝えないと」とは思いつつも、なかなか言えないというのが現実である。
(大抵、「参考になりました。」と言ってくる人は、いい人である。)
子どもにかける言葉も、本当にそれでよいのか、時に振り返る必要があるように思う。
2020年2月20日木曜日
ほめると叱るは、劇薬かサプリメント
前号と関連して、ほめると叱るについて。
先日のセミナーで、ほめ方ということが話題になった。
どうほめるかということが問題になった訳である。
結論からいうと、心から本当に思っていないことを口にするのはいけない。
前号の「すごいなぁ」は、自然と口に出てしまうから意味がある。
人を操ろうとかいう汚い意図をもって子どもに行うことは断じて許されるものではない。
一方で、多少無理してでもほめてあげた方がいい相手もいる。
それは、平常よりも下に落ち込んでいる相手である。
この意図が伝わるように、このメルマガでも何度か書いた
「ほめると叱るは、劇薬」
という言葉を紹介して説明した。
つまり、病気の人には、薬が必要である。
薬を投与して、平常に戻る手伝いをする訳である。
しかし、これを繰り返していくと「薬漬け」になる。
薬なしでは生きられない、薬が切れると禁断症状が出るようになる。
「もっとほめてくれ」あるいは「叱らないで」というモチベーションだけで動くようになる。
外発的動機づけでのみ動くようにするのは、「ロボット教育」である。
そしてこれは講師の一人である俵原先生の言葉だが、
「サプリメント的に使うといい」
という考えもある。
要は、用法と用量である。
だから、ほめると叱るは、使う場面を選ぶ。
これはある教育者の方の言葉だが
「ほめると叱るで伸びるのは、偏差値50まで」
なのである。
代わりに、前号でも紹介した「認める」を中心に用いていけばいい。
やがて、他人の賞賛や評価を必要とせずに、自分を軸として動く人間になっていく。
ほめると叱るは、劇薬。
ほめると叱るは、偏差値50まで。
頭の隅に置いておくと、何かと役立つかと思い、紹介してみた。
先日のセミナーで、ほめ方ということが話題になった。
どうほめるかということが問題になった訳である。
結論からいうと、心から本当に思っていないことを口にするのはいけない。
前号の「すごいなぁ」は、自然と口に出てしまうから意味がある。
人を操ろうとかいう汚い意図をもって子どもに行うことは断じて許されるものではない。
一方で、多少無理してでもほめてあげた方がいい相手もいる。
それは、平常よりも下に落ち込んでいる相手である。
この意図が伝わるように、このメルマガでも何度か書いた
「ほめると叱るは、劇薬」
という言葉を紹介して説明した。
つまり、病気の人には、薬が必要である。
薬を投与して、平常に戻る手伝いをする訳である。
しかし、これを繰り返していくと「薬漬け」になる。
薬なしでは生きられない、薬が切れると禁断症状が出るようになる。
「もっとほめてくれ」あるいは「叱らないで」というモチベーションだけで動くようになる。
外発的動機づけでのみ動くようにするのは、「ロボット教育」である。
そしてこれは講師の一人である俵原先生の言葉だが、
「サプリメント的に使うといい」
という考えもある。
要は、用法と用量である。
だから、ほめると叱るは、使う場面を選ぶ。
これはある教育者の方の言葉だが
「ほめると叱るで伸びるのは、偏差値50まで」
なのである。
代わりに、前号でも紹介した「認める」を中心に用いていけばいい。
やがて、他人の賞賛や評価を必要とせずに、自分を軸として動く人間になっていく。
ほめると叱るは、劇薬。
ほめると叱るは、偏差値50まで。
頭の隅に置いておくと、何かと役立つかと思い、紹介してみた。
2020年2月19日水曜日
口癖は、香気
1月に行ったセミナーでの気付きのシェア。
日常の言葉かけについて。
人には、口癖がある。
ふとした時に口から漏れており、かつ本人には自覚がないものも多い。
教師という立場の場合、自分では気付いていないが、子どもたちには大きな影響を与えている。
なぜなら、口癖は、無意識に自分と周囲の人に繰り返し行われる言葉かけだからである。
講師の一人が「ほめる」の実践で有名な先生が、どんな言葉をかけているのか、調べてみたという。
それは「すごいなぁ」であったという。
思えば、私自身もよく口にしている。
子どもに対して、本当にすごいと思うことが多いからである。
ただこの「すごいなぁ」は、ほめているのではない。
感心、場合によっては感嘆しているのである。
「ほめる」というより、「認める」に属する。
このほめると認めるの違いがよくわからないということで、よく質問を受ける。
例を挙げる。
子どもが100点をとって「すごいなぁ」と言うとする。
本当は100点の時に「すごい」というのはリスクが高いので私は大抵言わないが、やりがちな場面だと思うので敢えて例に出す。
(参考記事:プレジデントオンライン 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
この時ただ100点だから「すごいなぁ」と言ったら、子どもは素直に「100点はすごい。認められる。」と考える。
裏を返せば「100点以外はすごくない。認められない。」という価値観をもつ。
一回ならまだしも、これが毎週のように何年にも渡って継続的に行われれば、その価値観は一生を左右するほど強固になっていく。
「よくがんばっていたからね。すごいなぁ。」と言えば、かなり意味が変わる。
「がんばったこと」自体を認められたと考える。(そう感じるように伝える。)
書いていて、文面だと伝わらないとしれないとも思ったが、そういうことである。
伝える時の表情とか声のトーンとかも重要なのである。
「上から目線」になると、ほめたことになるし、フラットな立場からだと、認めたことになる。
ちなみに、幼稚園の先生の場合、最も多い口癖が「嬉しいね」だそうである。
一緒に喜ぶというフラットな立場での、望ましい声かけである。
常日頃、自分にどんな口癖があるかは、重要である。
子どもに対する影響力はもちろん、それ以上に自分自身に最大の作用をもたらす。
他人への言葉がけは、そのまま自分への言葉がけ、価値づけである。
「薔薇の花を与える手には、常にほのかな残り香が漂う」という諺の通りである。
口癖とは、香気そのものである。
どうせなら、日常的に良い香りの花を携え、人に手渡したいものである。
日常の言葉かけについて。
人には、口癖がある。
ふとした時に口から漏れており、かつ本人には自覚がないものも多い。
教師という立場の場合、自分では気付いていないが、子どもたちには大きな影響を与えている。
なぜなら、口癖は、無意識に自分と周囲の人に繰り返し行われる言葉かけだからである。
講師の一人が「ほめる」の実践で有名な先生が、どんな言葉をかけているのか、調べてみたという。
それは「すごいなぁ」であったという。
思えば、私自身もよく口にしている。
子どもに対して、本当にすごいと思うことが多いからである。
ただこの「すごいなぁ」は、ほめているのではない。
感心、場合によっては感嘆しているのである。
「ほめる」というより、「認める」に属する。
このほめると認めるの違いがよくわからないということで、よく質問を受ける。
例を挙げる。
子どもが100点をとって「すごいなぁ」と言うとする。
本当は100点の時に「すごい」というのはリスクが高いので私は大抵言わないが、やりがちな場面だと思うので敢えて例に出す。
(参考記事:プレジデントオンライン 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
この時ただ100点だから「すごいなぁ」と言ったら、子どもは素直に「100点はすごい。認められる。」と考える。
裏を返せば「100点以外はすごくない。認められない。」という価値観をもつ。
一回ならまだしも、これが毎週のように何年にも渡って継続的に行われれば、その価値観は一生を左右するほど強固になっていく。
「よくがんばっていたからね。すごいなぁ。」と言えば、かなり意味が変わる。
「がんばったこと」自体を認められたと考える。(そう感じるように伝える。)
書いていて、文面だと伝わらないとしれないとも思ったが、そういうことである。
伝える時の表情とか声のトーンとかも重要なのである。
「上から目線」になると、ほめたことになるし、フラットな立場からだと、認めたことになる。
ちなみに、幼稚園の先生の場合、最も多い口癖が「嬉しいね」だそうである。
一緒に喜ぶというフラットな立場での、望ましい声かけである。
常日頃、自分にどんな口癖があるかは、重要である。
子どもに対する影響力はもちろん、それ以上に自分自身に最大の作用をもたらす。
他人への言葉がけは、そのまま自分への言葉がけ、価値づけである。
「薔薇の花を与える手には、常にほのかな残り香が漂う」という諺の通りである。
口癖とは、香気そのものである。
どうせなら、日常的に良い香りの花を携え、人に手渡したいものである。
2020年2月18日火曜日
リスクマネジメントを考える
リスクマネジメントについて。
ある投資家の方の話。
リスクとは何か。
直訳すると「危険」である。
あまり好ましくない事態である。
しかし、投資の世界ではリスクを「想定外の振れ幅」と考えるという。
どういうことか。
大きな利益と損失、両方が想定されるものがあるとする。
これは「リスクが高い」とはみなさない。
現時点で、振れ幅が想定されるからである。
逆に「大きく損しないから安全」という前提で買った商品(企業銘柄や通貨)があったとする。
これが想定外に値を下げてしまうような場合。
これを「リスクが高い」とみなす。
つまり、予め「危険度」がわかっている範囲が明確であれば、リスクとは考えない。
リスクが高いとは、想定外が多く起きることである。
逆に言えば、そういったものは、チャンスも大きいといえる。
想定外が大きい銘柄は、とてつもなく安く手に入ることもあり、あり得ない高騰も起きる。
(一時期爆発的な値段の変動を見せたビットコインなどはその好例である。)
教育メルマガという立場から、何が言いたいかというと、ずばり想定することの大切さである。
学校現場で、何かを実施する時、この時「想定される危険度」が大切になる。
学校において、子どもが危険に晒されることは容認されない。
一方、危険が想定されていても、万全の対策ができている場合、実行できる。
わかりやすい例で、水泳指導などはその前提に立っている。
指導中の子どもの命の危険が認識され、想定されている。
しかし、その分対策もきちんと打つ。
だから、安全面についてものすごく厳しい上で、実施が許されている。
しかし「事故」が一件でも前例としてある場合、確実に対策が必要である。
事故やミスにおいて「二回目は別物」であり、悪質とみなされる。
例えば小学校のプールにも、かつて飛び込み台があった。
しかし、悲しい事故が起きたことで、対策が必要という認識が高まった。
かつて「想定外」のものが「想定内」にシフトした訳である。
(逆に言えば、かつては飛び込み指導でも「命の危険まではない」という常識で実施されていたといえる。
危険の想定ができていない=「リスクが高い」といえる。)
ただ単純に「危険だからやらない」というのも、あまりに安易である。
危険を想定した上で、確実な安全対策を検討する方が先である。
そこで次に「飛び込み指導」をするメリットとデメリットが検討される。
「飛び込み指導」には、この運動独自の宙を飛ぶような運動技能の獲得やタイム短縮といったメリットがある。
ただ「適切に指導すれば大丈夫」という意見も勿論あるが、それが全国全ての小学校に適用できそうかというと、答えは「NO」である。
結果、全国の小学校から飛び込み台が消えた訳である。
学校での水泳指導自体をやめるところもちらほら出てきた。
これは安全面の問題だけでなく、費用面や効果のメリット、デメリットの検討の結果である。
検討の結果に加え、「想定外の振れ幅が大きい」=「リスクが高い」とみなされるものは、実施されない。
「マラソン大会」がある学校は、あらゆる危険が想定され、対策が取られているはずである。
ネット検索すれば、学校の指導下におけるマラソン練習中の死亡事故例が山ほど出てくる。
児童が無理な競争をして倒れるという事態も容易に想定できる。
そこへの万全の対策と指導があれば、実施できるかもしれない。
なければ、実施しないはずである。
その辺りの勤務校の対策も、全職員が知っておいた方がよい。
加えて、実質的に順位がつけられることへの配慮、練習からずっと「ビリ」で毎回走り続ける子どもへの配慮も当然必要である。
一回、一瞬で終わる短距離走とは、訳が違う。(これも多分嫌だろうが。)
精神的にも極めて大きな「危険」が想定される指導と行事である。
(かつてフィンランドのある校長が、日本のこの行事の在り方に「正直がっかりした」とコメントした話も有名である。)
それは、想定外か想定内か。
危険が想定できるのであれば、対策がとれそうか。
逆に、対策がとれるのに、実施をためらっているということはないか。
新年、新たなチャレンジを考えている人も多いことと思う。
何か新しいことを始めて、それを成し遂げようとする際にはこの「リスクマネジメント」の考え方が必要である。
ある投資家の方の話。
リスクとは何か。
直訳すると「危険」である。
あまり好ましくない事態である。
しかし、投資の世界ではリスクを「想定外の振れ幅」と考えるという。
どういうことか。
大きな利益と損失、両方が想定されるものがあるとする。
これは「リスクが高い」とはみなさない。
現時点で、振れ幅が想定されるからである。
逆に「大きく損しないから安全」という前提で買った商品(企業銘柄や通貨)があったとする。
これが想定外に値を下げてしまうような場合。
これを「リスクが高い」とみなす。
つまり、予め「危険度」がわかっている範囲が明確であれば、リスクとは考えない。
リスクが高いとは、想定外が多く起きることである。
逆に言えば、そういったものは、チャンスも大きいといえる。
想定外が大きい銘柄は、とてつもなく安く手に入ることもあり、あり得ない高騰も起きる。
(一時期爆発的な値段の変動を見せたビットコインなどはその好例である。)
教育メルマガという立場から、何が言いたいかというと、ずばり想定することの大切さである。
学校現場で、何かを実施する時、この時「想定される危険度」が大切になる。
学校において、子どもが危険に晒されることは容認されない。
一方、危険が想定されていても、万全の対策ができている場合、実行できる。
わかりやすい例で、水泳指導などはその前提に立っている。
指導中の子どもの命の危険が認識され、想定されている。
しかし、その分対策もきちんと打つ。
だから、安全面についてものすごく厳しい上で、実施が許されている。
しかし「事故」が一件でも前例としてある場合、確実に対策が必要である。
事故やミスにおいて「二回目は別物」であり、悪質とみなされる。
例えば小学校のプールにも、かつて飛び込み台があった。
しかし、悲しい事故が起きたことで、対策が必要という認識が高まった。
かつて「想定外」のものが「想定内」にシフトした訳である。
(逆に言えば、かつては飛び込み指導でも「命の危険まではない」という常識で実施されていたといえる。
危険の想定ができていない=「リスクが高い」といえる。)
ただ単純に「危険だからやらない」というのも、あまりに安易である。
危険を想定した上で、確実な安全対策を検討する方が先である。
そこで次に「飛び込み指導」をするメリットとデメリットが検討される。
「飛び込み指導」には、この運動独自の宙を飛ぶような運動技能の獲得やタイム短縮といったメリットがある。
ただ「適切に指導すれば大丈夫」という意見も勿論あるが、それが全国全ての小学校に適用できそうかというと、答えは「NO」である。
結果、全国の小学校から飛び込み台が消えた訳である。
学校での水泳指導自体をやめるところもちらほら出てきた。
これは安全面の問題だけでなく、費用面や効果のメリット、デメリットの検討の結果である。
検討の結果に加え、「想定外の振れ幅が大きい」=「リスクが高い」とみなされるものは、実施されない。
「マラソン大会」がある学校は、あらゆる危険が想定され、対策が取られているはずである。
ネット検索すれば、学校の指導下におけるマラソン練習中の死亡事故例が山ほど出てくる。
児童が無理な競争をして倒れるという事態も容易に想定できる。
そこへの万全の対策と指導があれば、実施できるかもしれない。
なければ、実施しないはずである。
その辺りの勤務校の対策も、全職員が知っておいた方がよい。
加えて、実質的に順位がつけられることへの配慮、練習からずっと「ビリ」で毎回走り続ける子どもへの配慮も当然必要である。
一回、一瞬で終わる短距離走とは、訳が違う。(これも多分嫌だろうが。)
精神的にも極めて大きな「危険」が想定される指導と行事である。
(かつてフィンランドのある校長が、日本のこの行事の在り方に「正直がっかりした」とコメントした話も有名である。)
それは、想定外か想定内か。
危険が想定できるのであれば、対策がとれそうか。
逆に、対策がとれるのに、実施をためらっているということはないか。
新年、新たなチャレンジを考えている人も多いことと思う。
何か新しいことを始めて、それを成し遂げようとする際にはこの「リスクマネジメント」の考え方が必要である。
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