2017年12月31日日曜日

愛と平和と戦争 

お世話になっているメールマガジンスタンド「まぐまぐ」。
この中に「MAG2 BUSINESS NEWS」
というビジネス記事コーナーがあり、2017年のPVランキングが発表された。
↓発表ページ
http://www.mag2.com/p/news/mailmagazine/choimise/2017/1228.html?l=vyj129755e

私のメルマガ記事があるが、タレントのタモリさんの言葉を引用して書いたもの。
私が書いた記事ということに気付いてもらえていなさそうなのがミソである。

愛と平和という、一見親和性のありそうなものを、見直してみようという記事である。
戦争反対という考えは一貫しているが、その内実に目を向けることが必要であると考えている。
特攻隊や原爆という、日本人なら絶対考えるべきことから、目を逸らさないことが大切だと思っている。
日本は平和になったのか。
オリンピックを迎えようとしているにも関わらず、3.11の復興問題も未解決である。
過去におきた未解決の諸問題には、これから近い未来に起きるであろう問題の解決の糸口がある。
これらについて自分なりの考えをもつことは、子どもたちがこれから国際社会を生きる日本人になるために「必修」ではないかと思う。

何はともあれ、たくさんの方が読んでくださる記事というのは、何かしら有益なのだと思う。
一読していただければ幸いである。

意外な形で今年を締めくくれた。
2018を更なる良い年にしていけるよう、尽力していきたい。

2017年12月29日金曜日

がんばる前に、空気を入れるべし

毎日、駅まで自転車で通っている。
最近、帰りの坂道のペダルが重いと感じた。
「身体が衰えてきたのかな・・・」とふと思った。
しかし、そんなはずはないと、がんばっていた。

タイヤを触ったら、空気がかなり抜けていた。
空気を入れたら、あら不思議。すいすい快適。

こういうことは、結構ある。
がんばる前に、メンテナンスである。
故障しているところがあれば、逆にがんばってはいけない。
故障が悪化する一方。
故障部分を直す方が先である。

これは、仕事にもいえる。
心と身体が悲鳴をあげているのに、がんばれば大丈夫と、連日深夜まで根性を出す。
根性があること自体はいいのだが、それ以前に病気一歩手前である。
さっさと帰って回復すれば、もっと短時間で質の高いものを仕上げることもできる。
むしろ、それをしようとしないで「ガンバリズム」を続けるから、いつまでも能力が高まらない。

疲れた顔で子どもの前に姿を現しては、どんな理由であれ本末転倒である。
子どもの前で元気でいることも、担任の大切な仕事の一部である。

「学級では、うまくいかない時こそ、外で遊ぶべし」とずっと言っている。
本メルマガでも、共著の『やる気スイッチ押してみよう!』でも述べている。
忙しいから、疲れているから子どもとも遊べない、というのは、空気を入れないで一生懸命ペダルを漕ぐ行為と同じといえる。
空気を入れれば、スイスイ進むのに、勿体ないことである。

今がうまくいかないのは、変なところでがんばり過ぎているからかもしれない。
そのことをがんばるべき根本・本質・原点の部分は何か。
教師ならば、言わずもがな、子どもの成長のためである。
子どもを常時善導するためである。
子どもを善導する教師には、元気で余裕があることが必要である。

また仕事を厳選し、元気を出すためのヒントとして、
拙著『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
もおすすめしたい。

教師は、真面目でがんばりすぎる人が多いと思っている。
私もそういう面がまだあるかもしれないと思った自転車の一件だった。

2017年12月27日水曜日

インスタントな「できる」の弊害

拙著『切り返しの技術』に、理科を例にして体験の大切さを書いている。
見学を省略して資料だけで済ませた地層の学習の結果だけが散々だったという失敗例(実話)である。
しかもたちが悪いことに、学習直後のワークテストの時はしっかりできていたのである。
年度末の学力検査の頃になって、簡単な問題を落としまくっていた。

この失敗は、この後の私自身の授業への考え方に大きな影響を与えた。
手っ取り早くインスタントに済ませると、長期的に見てマイナスが大きいのである。

これは、あらゆる教科にいえる。
顕著にわかるのは、算数である。
公式ややり方だけを丸暗記すると、「できる」けど「わからない」という状態になりやすい。
しかも、その「できる」すらも、長期的に記憶できないのである。
台形の面積の公式の丸暗記や、分数÷分数の演算をよく例に出すが、他のことでも同じである。
高校あたりで数学嫌いが出るのも、テストを何とか凌ぐための勉強法を続けたツケであると考えている。

脳科学者の池谷裕二氏は、かけ算九九を覚えていないという。
ただし、答えを導き出す手順を覚えているので、特に不便はないということ。
これは極端な例のように思えるが、本当に賢い人は、原理原則や本質の方をきちんと理解している。

遠回りでも、きちんと理解をして進むこと。
当たり前のようだが、授業をする上で大切なことである。

2017年12月25日月曜日

概数の学習で逆転現象を起こす

授業における「逆転現象」の大切さを説いて書いたのは、大森修氏である。
「コペルニクス的転換」という言葉もあるぐらい、逆転には価値観を一変させるインパクトがある。
ここに関連して、4年生の概数の学習において、自分の中での鉄板ネタがある。

「上から2桁の概数にする」という学習である。
例えば日本の国土の面積(平方キロメートル)ならば
377972

380000
となる。
これ自体は、そんなに難しいことではない。

そこで、次のような問題を出す。
「9.89ならば?」
これも、あっさり9.9と答える。
小数点が入っても、上から2桁と確認する。
「10.89ならば?」
ここで少し0をどうするか迷うが、
「途中の0は、ユーレイの0ちゃんだから、見えないけど、いる。」
ということで、0を2桁目とカウントし、答えは11で落ち着く。

次からが本題。
「0.589なら?」
これは、0.6と0.59という二つの意見に割れる。
なぜそうしたか、それぞれ理由を聞く。
先と同じように0を1桁目として数えるというAの意見。
この場合は0を「ない」とみなして、数えないというBの意見である。
ちなみに、毎年、Aが圧倒的多数で、Bは少数派になる。
Aは多数なので得意満面、Bは少ないので、自信がなさげである。

正解は確認せずに、次の問題を出す。
「0.0589なら?」
Aが0.1、Bが0.059となる。
ここで、A派の一部が少し迷い出す。
この場合の「0.1」が、概数としてざっくりすぎると感じ始める。
「やっぱりBかも・・・」とつぶやく子どもが出始める。
ここも、正解は示さない。

次である。
「0.0489なら?」
Aが0、Bが0.049となる。
ここで「四捨五入とはいえ、0になってはまずい」ということで、Aはかなり揺れる。

どちらが適切かを考えさせて話し合う。
これはやはりBであるということに落ち着き、どうやらの「正解」にたどり着く。

ここで、コペルニクスとガリレオの地動説の話を少しする。
学問においては、多数派が正しいとは限らず、自らの頭で真理を求めようということ。
学問においては、「無知の知」が大切ということ。
自分が無知だと自覚しているからこそ、素直に謙虚に学べる。

別に最後の説法は好みなので必要ないかもしれない。
しかし割と高学年でも盛り上がる鉄板逆転ネタとして、おすすめである。

2017年12月23日土曜日

クリスマスは他人の幸せを願う日

「サンタクロースはいるの?」ということについて、昨年度記事を書いた。
http://www.mag2.com/p/news/231275

「キリスト教徒でもあるまいし、クリスマスは関係ない」と尖っていた若かりし頃が懐かしい。
クリスマスというイベントも、もはや定着の感というより、常識レベルである。

ハロウィンも定着の感はある。
しかしクリスマスがハロウィンと決定的に違うのは、他の幸せを願う点である。
ハロウィンはややもすると「コスプレパーティー」の様相を呈しており、それはハロウィン本来の趣旨とも全く違う。

行事は、本来の趣旨や願いを考えることが大切である。
クリスマスも誕生日も「ケーキとプレゼントの日」ではない。
それは付随するものである。
本来の趣旨は、別にある。

誕生日は生まれてきたことを祝う日であり、ある程度の年齢になれば親や祖先に感謝する日でもある。

クリスマスは、本来はキリストの生誕祭。
キリスト教徒にとっての日であることには異論をはさむ余地がない。
しかし、広く受け入れられている趣旨としては、他人の幸せを願う日という方が合う。
「他人の」がポイントである。
自分ではない。
自分の幸せは普段から願っていればよい。
クリスマスぐらいは、せっかくだから他人の幸せを願う日と考える。
そう考えると、クリスマスも宗教とは関係なく意味のある日になる。

他人の幸せと自分の幸せの境目はどこにあるのか。
サンタクロースの精神には、見習うべきところがある。

2017年12月21日木曜日

「先生、帽子は被らないとダメですか」

実習生にした話。

AとBで迷った時はどうするか。
AとB、それぞれのメリットとデメリットを羅列する。
メリットが多く、デメリットが少ない方を選ぶ。
その際、「安全」にデメリットがある場合、これは最優先で取り除く。

体育の授業における例としては
・帽子を被らせるか否か
・裸足か上靴か
・班は男女混合か男女別か

といったことへの判断も含まれる。
いわゆる
「先生、〇〇していいですか」
への判断である。
子ども自身が適切にできるようになるのが理想だが、そうもいかない。
大抵、安きに流れる。
良い方よりも楽な方に流れるのは、大人と同じである。

帽子についてなら、熱中症対策や頭部の保護といったメリットを考えれば、「着用」の判断になる。
着用させずに実施した時、万が一頭部を切ったりでもしたら、目も当てられない。

マット運動は、裸足で実施させることが多いだろう。
指導主事に「必ずそうしなさい」と指導を受けたという方もいる。
衛生面や感覚面でのメリットがある。
ただ、例えば開脚前転をする場合や、後転の導入段階の場合、裸足だと足を痛めることがある。
踵を打ち付けたり、真っ直ぐ回れずにマットからはみ出して爪を床に打ち付けるためである。
マットを余計に敷くという対処方法もあるが、数が足りないこともある。
そういった場合、安全を最優先して、上靴を履かせて実施するという判断もあり得る。

器械運動において高学年で男女混合の班だと、補助に抵抗が出る場合もある。
身体接触への配慮は、安全に次いで大きなことである。
しかし、全体として技能差を配慮して分けたい場合や、交流を優先したい場合は、男女混合にしたい。
AとBのメリットが拮抗する時は、Cの案を考える。
男女混合にし、同性同士で補助ができる人数配分で組むこともできる。

メリットとデメリットを比較検討し、是非を判断する。
その上で、C案も検討する。
授業以外のあらゆる場面で応用の効く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年12月19日火曜日

「飼い主さん、私には、できません…」

ある地域で散歩をしていたら、次のようなキャッチコピーの入ったポスターを見かけた。

「飼い主さん、私には、できません…」

何を訴えているポスターか。
「犬のふんは飼い主が責任をもって始末せよ」である。
要は、できることとできないことがある。
犬のふんの不始末は、100%飼い主の責任であり、犬は全く悪くない。
(ちなみに、小学生のかいたポスターである。)

教育でも、これはよくよく考える必要がある。
子どもにできることと、大人がやるべきことの区別。
自分でやれることは、任せてやらせる。
自分ではどうしても無理なことは、大人がやる。

例えば、環境面の安全への配慮は、完全に大人の責任である。
赤ん坊のいる家では、誤飲を防ぐべく、手の届く位置にあるあらゆるものに配慮する。
極端な話、刃物が切れて危険だというのも、幼児は知らない。
100%大人が教えることである。
使っていて結果的にケガをすることがあっても、事前に教えておくべきことである。

授業だと、教えるところと考えさせるところを区別し、流れの中で教えるということ。
ここは、経験がないと結構難しい。
教育実習生が最も苦戦するところの一つである。
教えてからやらせた方がいいところと、とりあえずやらせてもいいところとを見極める必要がある。

例えば4年生に「面積」の概念を教える時、広さを比べるところは自力でもできる。
しかし、面積の単位自体は、教えるところである。
「1a」のような特殊な単位であれば、その必要性が出るところまでは考えさせる。
単位自体は、その流れの中で、きちんと教える。
その「流れ」が難しいのだが、ここが大切である。

逆もあり、子どもが責任もってできることを、大人がとってしまうのも害が大きい。
犬の散歩を例にすると、普通に歩けるのに、すべて抱っこして散歩しているようなものである。
面積の授業の例だと、何から何まで全部大人の都合通りに正解を教えることである。
余計な手出し口出しは、最も害悪が出る。
人任せの依存体質、正解主義にもなる。

生活のあらゆる面に、その人の教育観が出ている。
授業だけ、しつけだけうまくやろうとしても、うまくいかない理由である。
相手への愛情があるのなら、不都合なものにも目を向けて始末をつける必要がある。
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