2017年1月31日火曜日

いいクラスの見分け方

間が空いてしまったが、赤坂真二先生のクラス会議セミナー合宿からの学びの続き。

いいクラスの見分け方があるという。
それは、学習参観をした時に、参観者が
「特別支援の必要な子どもが、どの子どもだかわからない」クラスだという。

考えてみると、なるほど、わかりやすい基準である。
ありがちなダメパターンが、教師がその子どもにべったりくっついてしまうというもの。
善意からやっているとは思うが、故に余計に質が悪い。
周りの人に「この子はできない」と宣言しているに等しい。

一方、子ども同士で協力して教えているクラスがあるが、こちらは余程上等である。
ただ、支援が必要な子どもが傍目にも目立つという点では惜しい。

本当に上質なかかわりのあるクラスだと、ここすら目立たない。
なぜなら、どの子どもも当たり前のようにコミュニケーションをしているからである。
どっちが教えてどっちが教わっているかもよくわからない。
むしろ互いが学び合っているといえる状態である。
これだと、どの子どもが支援の必要な子どもかは、傍目にはさっぱりわからない。

こういった「視点」を持っているかどうかで、参観の質もがらりと変わる。
それだけでなく、自分の授業を見る視点も変わる。
自分の視座を上げていきたい。

2017年1月29日日曜日

ホームで人が倒れていたら

今回の記事は、ネットニュースに取り上げられたものである。
http://www.mag2.com/p/news/232955/2

公衆道徳の話。

人を助けることは大切。
道で倒れている人がいたらどうするか?
当然「助ける」と答える。
普通の答えである。
「急いでいるから放っておく」「どうしていいかわからないから助けない」
と子どもが答えたら、どう思うか。
親や教師なら「その考えを改めさせたい」と思う。
しかし、現状でそれはなかなか難しいのがわかった。

先週、実際その場面に出くわした。
私は現在、電車通勤である。
目的の駅についてホームに降りた。
すると、前方50mほど離れた別車両から人が降りて、うずくまるように倒れた。
大勢の人がいるが、誰も近寄らない。
歩きながらちらっとは見るが、脇を通り過ぎて行く。
「スルー」または「傍観」である。

その場まで行ってみると、倒れているのは二十代ぐらいの男性である。
苦しそうに荒く息をして、目をぎゅっとつぶっている。
車内は満員に近く、多くの人が車両の中から立って男性を見下ろしている。

先に降りた人も含め、誰も助けないのである。
お陰様で私が「いい人」の役をおおせつかった上にこうしてメルマガのネタにもなる訳である。
そういえば、銀座まるかんの創業者、齋藤一人さんが「歩道橋前で重い荷物を持ったおばあちゃん」を探し求めて数十年。
やっと見つけた瞬間に急いで声をかけてつかまえたという話があるが、あれと同じである。
人を助けて自分を役立てることは、赤ん坊すらもつ本能的欲求であり、「助けさせてもらった」こと自体が感謝&報酬である。

しかし、この「ラッキーな事態」に周りの誰も動かなかった。
多分、先に挙げたような「どうしていいかわからない」心理ではないかと思う。
気持ちとしては助けたい人も多いのではないかと思うが、実際動かない(動けない?)のである。

道徳は、心の学習であるが、最終的にそれが行動につながっていくから意味がある。
どんなにいい意見を言おうが書こうが、やらないのでは意味がない。
日本人なら、助けて当然であると思うのだが、自分のことを優先&周りの目を気にしすぎである。
自分を「お節介」「偽善者」と思われることをかなり嫌う。
しかし、それでは社会が冷たくなるばかりである。

私はわざわざここに書くぐらいの超偽善者なので、その場でその男性に話しかけ、駅員さんを呼んだ。
駅員さんも朝のラッシュ時で忙しいので、「そこにいてください」と頼まれた。
待つ間、男性に話を聞くと、私が常々やめようと呼びかけている、体調不良で無理矢理出勤しているパターンである。
それぞれ事情があるので断定はできないが、基本的に体調不良の時は自分と他人のためにも休むべきである。
5分も待つ内に駅の担当の方が来たので、引き渡してその場を離れた。

何を思ったかというと、これでは子どももこうなるだろうと思った次第である。
子どもは、常に大人の背中を見ている。
歩きスマホも交通違反も、子ども以前に大人が問題である。
公衆道徳や思いやりも然り。
学習指導要領の改訂や道徳の評価化や心の教育云々以前の問題である。

今回の件が「たまたま」であったならいい。
ただ、私は常々「その瞬間たまたまできないことは、必要な瞬間にもできない」と考えている。
避難訓練でふざけていて、本当の災害時に大丈夫なはずがないのである。
一事が万事である。

社会にいる大人を育てたのが学校教育だといわれたらぐうの音も出ない。
だから、道徳教育は真剣に考える必要がある。
ただ、それが口先のものでは全く効果がない。
学校で、クラスでできないことは、社会に出てもできないということである。
社会にいる大人がやらないことを、子どもがやるはずがない。
子どもは素直に全部真似するのである。

自主、協働。
助け合い・思いやり。
どれも格好良く、きれいな言葉だが、実行時は自分が泥をかぶる覚悟が必要である。
美辞麗句に終わらず、実行できる子どもを育てることを真剣に考えていきたい。

2017年1月27日金曜日

子どもの姿が事実

前号に続き、次の本から。

『喜びの種をまこう』
東井義雄 著 柏樹社

=========
(引用開始)
教育は、理屈ではありません。
「この子をみてください」といえるような子どもを育てることです。
(引用終了)
========

研究発表や実践発表では、いくらでもいいことを言える。
「こんなにすごいことをしました」
「こんなすごい成果が出ました」
いくらでもいえる。

何なら、授業研などで公開する時だけいい格好もできる。
その時だけ違う姿を見せることもできる。
そんなものは、全部嘘とまでは言わないが、無意味である。

子どもの普段の姿が事実である。
その学校の子どもが、どうなっているかである。
道徳でどんな感想が書けるかではなく、どんな心根でどんな行動をしているかである。
「掃除をきちんとすると気持ちがいいです」などと感想を書いているのに、翌日さぼっているなんてことはざらにある。
子どもも大人と同様「口当たりのいい言葉」を述べられる。
「こう書いておけば相手が喜ぶだろう」ぐらい簡単に考えられる。
道徳の評価化が敬遠される所以である。

この点において、掃除はわかりやすい。
褒められるため、叱られないためにやっているのは、すぐわかる。
そこに理屈がなく、やるのだと決めて徹底的にやる子どもは、輝きが違う。
ここばかりは、いやでも見えてしまうものである。
可能であれば、研究発表会そのものより、掃除をしているところを見た方がその学校の子どもの育ちがわかる。

どんなにキレイゴトを並べても、たとえば掃除ができないようであれば、事実として子どもが育っていないと考える。
理論と実践の乖離である。
私も普段うまいことを言っているわりに、ここを見てがっかりすることがよくある。
その時は落ち込むが、ここに気付けることは収穫である。

結局、子どもの姿がすべてである。
これから先、色々と実践発表の機会を与えられているが、理屈や美談で語らないようにしたい。
教育実践で見栄をはろう、すごいと思ってもらおうと考えはじめたら、実践家としての教師人生は終わりである。
いつでも事実と実践で語ろうと思えば、生涯本物を貫くことも可能である。
師の野口芳宏先生の仰るように「本音・実感・我がハート」に背かないよう生きていきたい。

2017年1月25日水曜日

『喜びの種をまこう』より

良本の紹介。

『喜びの種をまこう』
東井義雄 著 柏樹社

伝説の教師、故・東井義雄先生の本である。
若干紹介が憚られるのは、今購入すると、非常に高いのである。
かなりのプレミアがついてしまっている本である。
ネット上だと元値の6倍~10倍の値段で売られている。

ただ、真の教育書とは、こういうものなのだと納得の書籍である。
私の本もお陰様でよく売れてはいるが、最終的にはこういう本を書ける境地に達したいものである。

もう珠玉の言葉の数々なのだが、その中の一節を紹介する。
「忘れ得ぬ言葉」という小タイトルにある話である。
=============
(引用開始)
「もしも、明日、雨が降っても、
 決して
 天に向かって ブツブツいうな
 雨の日には
 雨の日の生き方がある」
(引用終了)
=============
ある体育主任が、運動会準備後、子どもに向かって話した言葉だという。

天に向かって ブツブツいうな
雨の日には
雨の日の生き方がある

素晴らしい言葉だと思う。
良い日も悪い日も、良い事も悪い事もない。
誰かのせいでもない。
すべては、自分が決めることである。
すべては自分の責任である。

こんな詩もあった。
=============
(引用開始)
川は
岸のために流れているのではない
川のために
岸ができているのである
川は
岸にそって流れているのではない
川にそって
岸ができているのである
(引用終了)
=============
中学三年生の女の子が書いた詩であるという。
見事という他ない。
そして、この詩は教育の在り方そのものである。

教師は、ともすると自分たちの都合に子どもを合わせてしまう。
子どものために教師がいるのであって、子どもがいるから、そこに教育内容がある。
逆になってはいけない。
子どもに携わるすべての人にとって、自戒の言葉となり得るので、紹介してみた。

2017年1月23日月曜日

哲学的テーマでクラス会議

クラス会議合宿での学び。

クラス会議では、基本的にはクラスの諸問題について話し合う。
しかし、時に哲学的なテーマでやると、互いの理解が深まる。
「共同体感覚」を育むのが目的なので、相互理解を深めるのは大切である。

先日は「幸せ」とは何かというテーマで話し合った。
(ただし、通常のクラス会議としての学活ではなく、道徳の時間である。)

これが、なかなか盛り上がる。
最終的には「今ここに生きていること自体が幸せ」という結論に達する子どもが多くいた。
別にこちらが道標を出した訳ではないが、本質的な学びである。
これが、友だちとの「対話」の中から生まれる。
対話の絶対ルールは「否定しない・肯定的にきく」である。

時に、哲学的テーマで話し合うのはおすすめである。

2017年1月21日土曜日

目覚まし時計の衝撃

土曜日ということで、久々にゆるくエッセイ。

先日、衝撃の事実が判明した。
みなさんは、目覚まし時計を使っているだろうか。
私は、使っていない。
今回は、目覚まし時計に関わる話である。

事の発端は、携帯のアラーム。
私は普段、携帯アラームを目覚ましに使わない。
何なら、携帯の着信音も鳴らすことがない。
小動物系なので、音にびっくりするのが嫌なのである。

ところがその日の前夜は、珍しく夜更かしをしてしまい、朝起きられない可能性があった。
万が一に備えて「アラーム機能」というのをセットしておいた。
携帯電話ごときに驚いて目を覚ますのは癪だが、なに、アラームより先に起きればいい話である。
多分大丈夫であろうとその日は床に就いた。

翌朝。
すっきり目覚めた。
アラームをかけたことはもはや記憶の外。
安心して仲間の集う食堂に行った。(ちなみに、学習会の合宿中である。)

食堂の席につくと、近くで聞き覚えのない謎の着信音が鳴り響く。
誰のかと思ったら、自分のポケットからである。
例のアラーム。
こんな音がするとは知らなかった。
驚いていると周りから「普段はアラーム使ってないの?」との声。
「いや、使わないでしょ?」と答えると「いやいや。使う使う。」とのこと。

普段、目覚まし時計で起きているのか。
毎朝、さぞびっくりして目を覚ますことだろう。
早朝からご苦労なことである。
憐れみの目で「そうなんだ。」と優しく答えた。

「〇〇さんは使ってないでしょ?」と聞くと、「いや。使う。」とのこと。
ここにもいた、レアな方。
逆の席にも聞いた。「使ってないよね?」「いや、使う。」
変わった人の集まりのようである。

冷静に見ると、既に使う派と使わない派の数は3:1。
明らかに自分が劣勢である。
同じ早起き仲間の親友I氏に尋ねた。
「使わないよね?」「使うよ。」
かなり醒めた感じでバッサリ。

まさか、そんなはずはない。
ここにいるのが、全員が変な人という可能性がある。
或いは自分が変わり者なのか。
周りの人の「変わり者を見る目線」が刺さる。

その後、誰に聞いても「使う」の一点張り。
10人目にしてやっと「使わないでも起きられる」と答える仲間を発見。
「でも使いますけどね。」

常識は、突き詰めると個人の中にしかない。
そういえば、ずっと前に読んだ、リリーフランキーの『マムシのanan』という本にも同じようなことが書いてあった。
家の中では全裸が普通とか、
成人している妹の髪をブローする兄とか、
トイレのドアを全開にして用を足すとか、
そういうことである。

自分の世界の当たり前は、当たり前ではないと思い知った。
それにしても、毎朝目覚ましの爆音が鳴り響くのは、落ち着かないのではないのだろうか。
恐怖ではないのだろうか。

書けば書くほど、読者の皆様の心が離れていく気がするので、この辺りでやめておく。
自分の中の常識は、世間の常識ではないかもしれない。
目覚まし時計が教えてくれた真実である。

2017年1月20日金曜日

一人が鍵を握る

前号の続き。
一人を粗末にしない、ということを具体的にどうするか。

例えば算数の授業。
ある子どもは1分で解けるが、ある子どもは自力で45分ねばっても解けないということは多々ある。
達成すべき学習進度がある以上、いつまでも解けない子どもに合わせている訳にもいかない。
ただそんな時、「この人は無理」となってしまったら、そこで終わりである。
そこを何とかするのが、わざわざ学校に集まって授業を受ける意味である。
早く解けた子どもが、自分の力を誇示するためでなく、本当にその仲間に「わからせたい」と願う時、チームは成長する。

学級担任ができるのは、「見捨てない」という信念を持つことと、そのシステムづくりである。
教え合うことができる環境づくりである。
心の中までは踏み込めないのだから、45分動かない子どもたちに怒鳴ってもぼやいても無駄である。
「きちんと着席」で「黒板を向いて」の状態を求めるのであれば、子どもが入る余地はなく、教師が教え込む他はない。
それは、仲間を無視して自分のことだけに集中させる手段である。

そうではなく、友だちに教えることができるシステムづくりが先。
班で向かい合って話し合える形。
席を立ち歩ける。
畳や丸テーブルのような、リラックスして教える場がある。
話は肯定的に聞くというような約束。
黙って聞くだけでなく、つぶやきやおしゃべりの容認も必要になる。

やがて、どんな環境やシステムかはお構いなしに、困っている仲間を助けるようになる。
行動より心が先、であって欲しいのだが、実際は心は後に来る方が多い。
よく運動や掃除などで「最初嫌だったけど、やっている内に楽しくなった」なども、やはりそうである。
だから、最初は嫌がったり面倒がったりしても、何とか工夫してやらせるというのが、学級担任の仕事である。

これら一連のことは、大人の社会でも当てはまる。
一人の客を粗末にする時。
一人の社員を粗末にする時。
その店なり会社なりの未来は覚束ない。

この理由は明白で、粗末にされた一人の人間だけでなく、構成員のすべてが「下がる」からである。
自分だけが大事で、人を差別したり粗末に扱う自分に、健全な自尊感情が育つはずがない。
それを見ている自分や流してしまう自分に、自尊感情が育つはずがない。

いいことは、陰でやってもいいことなのである。
「天知る知知る人ぞ知る」というが、その誰よりも間近で自分の目と脳が認識する。
本当の自分にだけは嘘をつけない。
自分は誰かの、何かの役に立っているという自尊感情の威力は、最強である。
逆もまた然りである。
誰かを助けて、感謝された時の自尊感情の高まりは、言葉にできない。
「どうでもいい相手」から、お互いが「大切な存在」になる。

要は、一人が鍵を握る。
チームの中で、しんどいのは誰か。
この仲間のしんどさに共感し、一緒に解決しようとしているか。
学級や学校はもちろん、すべてのチームの成長の分岐点は、ここに尽きる。
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