2022年2月10日木曜日

同じ見た目と本質の違い

 教室には、大抵掲示物のスペースがある。

よく側面や後方面に設置されている、画鋲を刺しておける壁の部分である。


ここにおいて、時折とんでもなく硬い場所がある。

見た目はどれもゴム状の凹凸コーティングがされていて「掲示できます」という風貌だが、下地が全く違う。

モルタルのような柔らかい下地であればサクッとスムーズに刺さる。

一方で、コンクリートのような硬い下地のものだと容易には刺さらず、無理すると画鋲か爪の方がへし折れる。

しかし、両者とも見た目は全く同じなのである。


こういうことは身の回りのあらゆることに溢れている。


例えば、生鮮食品。

見た目がそっくりで同じような野菜でも、育てられた環境によって、そこに含まれる栄養素は全く異なる。

鶏卵でも、狭いケージの中でひたすら生まされ続けたものと、広い敷地でのびのび平飼いされた鶏が生んだ卵は、中身が全く違う。


(ちなみに、牛肉の「霜降り」にするには、敢えて運動させずにストレスをかけて脂肪をつけさせる方法もあるという。

本当に良い環境で大事に育てられて育った牛の高級な肉と、見た目だけだと見分けがつかない。

考えてしまう話である。)


例えば、製品。

ブランドバッグの偽物はかなり精巧に似せて作ってあるが、全くの似て非なるものである。

宝石も本物とイミテーションは見た目が同じなだけで、内実は全く異なるものである。

(かつてココ・シャネルは敢えてのイミテーションジュエリーをつくって流行させたそうだが、これも反骨精神からである。)


家電製品なども、かなりの似たものがある。

一つ大ヒット商品が出ると、それを真似て他社からも次々とそっくりで安価なものが出る。

しかし、やはり先駆者であるオリジナルのものは、その性能や品質において他に抜きんでたものがあることが多い。


100円均一のものはコストパフォーマンスを考えると、それなりに優秀であるものも多い。

しかしやはり100円の品であり、設計段階から材質まできちんと作られた本物とは全く違う。

要は、使い方次第である。


物事は、見た目だと判断を誤る。

見た目はあくまで見た目である。

良いと判断されるための装いも大切だが、その本質を見ることがより大切である。


教育においても同じである。

子どもを見る時も同じである。

見た目や現象で判断すると、本質的な判断を見誤る。


一番わかりやすいのが、テストの点数である。

同じテストの100点でも、一体どういう背景でとれた100点なのか。

元々勉強が好きで楽々とった100点なのか。

本人が一念発起して努力の末に勝ち取った100点なのか。

誰かに無理矢理やらされてとった100点なのか。

不正行為による100点なのか。


どれも見た目は「100点満点」である。

通知表のAやBにも同じことがいえる。


子どもの失敗にもいえる。

現象としてはどれも同じように見える失敗にも、背景がある。

本質を見ない指導は、子どもの成長を阻害する可能性がある。

本質を見事に捉えることができれば、失敗を大きな成長のチャンスにすることもできる。


見た目に惑わされないことである。


自然な姿が出ているほど、それは本質に近い。

自然の中でのびのび遊んでいる天真爛漫な子どもたちは、その時自分を作っていないから、見た目が本質そのままである。


一方で、社会におけるお利口な子ども、賢い子どもは状況に応じて上手に「作る」ので、そのまま見ると本質を見誤る。

作られた姿が出ている時ほど、本質とは真逆のことが多い。

「大人が見ている時だけ、評価される時だけがんばる」というのが最も顕著な傾向である。


やたらと反抗的な子ども、あるいは問題行動も、見た目で捉えると本質を見誤る。

大抵、外向け、社会向けに作った姿や表出した現象である。

生意気で反抗的、あるいは「どうしようもない」と見える子どもの心の底にある苦しみという本質にこそ、目を向ける必要がある。


見た目と中身は違う。

広告やパッケージ、華やかな見た目づくりが巧みな昨今こそ、本質を見直し、見極められるようにしたい。

2022年1月30日日曜日

学級経営の手法と本質

 学級経営の手法について。


学級経営とは、手法ではない。

在り方である。


・・・というのが本当に言いたいところだが、それでは多くの困っている先生方の役に立たない。

多分、多くの人が知りたいのは「どうするか」という具体的なやり方、手法である。

在り方が本当は大切なのだが、それを理解する前にやり方を実践していれば身に付く面もあるので、記してみる。


まずやり方を考える前提として、恐れの発想からやるものは、長期的に見て大抵失敗する。

例えば「学級が荒れないように」という発想になった時点で、既に恐れているし、失敗している。


発想の出発点をいつも「子どもが良くなる」あるいは「自分も含めた全員の幸せ」に置く。

ある特定のことだけにではなく、全ての教育行為の起点をここに置く。

子どもたちに「24時間道徳です」と教えているが、自分自身にも言っていることである。

(ちなみに、ここでいう道徳とは教科のことではなく、生きるのにより良い道の選択というような意味合いである。

一般道徳的に見て悪いことを一切してはいけないという意味ではない。)


具体例を挙げて説明する。


「あいさつをきちんとしよう」と指導したいとする。

これだけだとうまくいかない。

どんなあいさつが「きちんと」なのか、あるいは良いものなのか、イメージできないからである。

効果的指導とは、相手がイメージできるものを指す。


私は、機を見てあいさつの指導をする。

次のように板書する。



「どんなあいさつが良いあいさつでしょうか」と問いかける。

一通りきいた後、先の板書に続ける。


あかるく

いつも

さきに

つたわるように


これが「きちんとあいさつ」の具体的な内容を指す。

あいさつの本質は、互いの幸せである。

ここを外さない指導をすればいい話である。


「どんな風に?」=明るく(相手の気持ちを暗くしてしまうとあいさつの意味がない)

「いつ?」=いつも(自分の気分どうこうは関係ない)

「どちらから?タイミングは?」=自分から先に(迷っている暇はない)

「どれぐらいの声の感じや表情で?」=伝わるように(声の大きさそのものが問題なのではない)

という内容を短くエッセンス、キーワードとして伝える。


その上で「結局、お互いが気持ちよく生きるため」というあいさつの本質も確認していく。


一単元の授業などではなく、あいさつという日常の些末なことの指導である。

ただ、こういった小さなことを応用して指導していけばいいというだけの話である。


ちなみに、欧米において、あいさつは身を守るためだという話を聞いたことがある。

人種も言語も何もかも多様な人間と出会った際に「敵ではない」ことを示す必要があるのだという。

これは「恐れ」発想である。

正しいのかもしれないが、実際は多分「ハロー」と笑顔で自然と気持ち良く挨拶しているだけではないかと思う。

子どもに指導する時のあいさつの目的が「敵だと思われないため」ではやはり悲しいし、本質を外す。


学級経営の話になると、こういった指導をあらゆる場面で、かつ総合的に行うことになる。

メルマガやブログの分量では到底書ききれないほどあるので、これまでまとめた書籍の方にも是非あたってみて欲しい。

指導の本質的エッセンスが汲み取れること請け合いである。

2022年1月27日木曜日

お節料理へのニーズの変化と本質

 年末、道徳の学習で、お正月について扱った。

日本の伝統的な文化についてである。


その中で「おせち」を詳しく取り扱った。

食材に込められた願いについては、おせちを食べない家庭も増えていることもあり、意外と知らないものである。

(子どもの指摘した通り、ほぼダジャレだが。それでいいのである。)


お節料理は、神様にお供えし、共に食べるための保存食である。

「火の神様」を休めるために、正月の三が日は台所に火を入れない。

即ち、料理から解放される日でもある。


しかし現代においては、こうならないことが多いという。

昔はお節料理の中心である甘いものが御馳走であったが、今はそうでもない。

普段から甘いものも御馳走も溢れており、これだけではやはり飽きる。

そうなると、本来のお節料理にはない豪華な海鮮料理や肉料理が加わったりする。

それでも、三日間をお節料理だけではなかなか満足できない。


従って、三が日も台所としては特に変わらない状況になる。

(あるいは、お取り寄せや外食という手もある。)

元は休むための仕組みだが、その点については時代のニーズにマッチしなくなってきているとも言える。


同じような現象は、社会全体にも起きている。

本来は誰もがお休みするはずの三が日だが、一月一日から営業中の店もたくさんある。

他が休んでいる中で商売すれば、儲かるのは自明の理である。

そうなれば、みんな休まなくなるのも必然である。


では、営業しているのが悪いのかといえば、それは全く違う。

それぞれ都合も事情もある。

顧客の強いニーズがあるからこそ、自然と成り立っているといえる。


誰かに都合のいい特定のルールに全員が揃えようということ自体、時代に合わない。

誰かの都合に合わせる時、誰かが不都合を起こしている。

例えば、昨年から今年にかけて、感染症対策としての営業自粛で揉めに揉めたが、それも同様である。

「自粛した場合は支援金。だが強制しない」のように、相手の都合に応じた選択肢の提示、幅が必要である。


学校も、もはやこの特定のルールに揃えようということに無理が生じている。

個々のニーズが異なるのに対し、同一のものを提供しても、うまくはまらない。

給食のアレルギー対応のように、あらゆるものに個別の対応が必要になっている。


そうなると、学級担任には対応の選択の幅、裁量権が欲しい。

裁量権の大きさとルールの厳重化は、トレードオフの関係である。

今は、感染症対策やタブレット端末使用という新しいことに対してルールが厳重化している。

その一方で、個別の特別対応を迫られるという状態である。

裁量権がある程度あれば、スムーズに対応できる。

「裁量権は一層制限するがよりよい対応をせよ」という無理難題を突き付けられている状態では、全員が不幸である。


学校にも、規制の緩いおおらかな時代があったという。

今では信じられないぐらい、学校と子どもと家庭の距離も近かった。

例えば「子どもを教師が自家用車で送る」「送った先のご家庭で夕飯をご馳走になる」

といったことも、一昔前は珍しくなかったようだが、現代では禁止事項であり、そもそも起き得ないことである。

現代は子どもにとっても、ボールで遊べる場所も木登りも何もかも、ルールと禁止が乱立している状態である。


子どもの安全を脅かす要素は、極力取り除かれ、「安全」な学校生活が求められる。

(「 」付なのは、それが将来的に本当の意味で安全とはいえないと考えるためである。)

それら子どもの行動を統括する担任に課せられるルールの多さと厳しさは、想像以上である。


しかしながら、子どもは時代が移ってもあくまで子どもであり、ルールに縛られる存在ではないため、勝手気ままに動き回る。

そして、それが自然であり、そうあって欲しいと願う。

それをわかって敢えて口うるさく言うのが親や教師の役割の一つである。

「廊下を走らない」というルールがなくならない以上、それを注意する行為もなくなることはない。

それは、どんなに時代が移っても変わらないことである。


現代におけるルールを守らせようという行為の多くが、揃える意識に端を発しており、子どもへの愛情とは違うように思う。

本当に必要なルールであるかどうかの再検討が大いに必要である。


恐れに端を発する行為は、やはりどこかで無理が生じる。

人間は元来、幸せを主体的に選んで生きる存在である。


お正月のお節料理へのニーズが変わっても、幸せを求める本質は変わらない。

お正月はゆっくり休むのだという目的に合致するのであれば、何を食べて過ごしてもいい。


学校も、時代のニーズの変化はあるけれど、子どもの幸せと成長に資する場であることは忘れずにいたい。

2022年1月24日月曜日

「ま、いっか」の思考法

 次の本から。


『運命を拓く』 中村天風著 講談社文庫

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000197824


「絶対積極」という言葉がある。

著者の中村天風氏の言葉である。


目の前の出来事への捉え方が全てであるという。

ただこれは、何でもかんでもポジティブに捉えるということではない。

大切なのは、出来事への意味付けというか、その後の心の持ち方である。


例えば真っ白なシャツにソースがはねたのを「やった!」と思うのは無理がある。

それ自体はあまり歓迎したい出来事ではない。


これに対し「がっかりして落ち込んで一日何となく不機嫌になる」という反応をすることができる。

「最悪!」と呟いて一人で怒り続けることもできる。

これは、本人の選択である。


一方「新しいものに買い替える丁度いい機会か」と前向きに捉えることもできる。

あるいは「そういう運命だったのだろう」と割り切って考えることもできる。

「ま、いいか」と文字通り洗い流すこともできる。

これも、本人の選択である。


感情自体を否定しないことである。

例え悟りに達した聖人であっても、喜怒哀楽は感じるという。

ただそこに執着しない、積極的な心構えをもてることが大切だという。


学校では、様々な出来事が起きる。

嬉しいことだけではなく、中にはがっかりすること、哀しみや怒りを感じる出来事も起きる。

「怒ってはいけない」と思うと無理が出る。

一方で「その怒りに支配されない」というのは、心の訓練次第である。

基本的に「感情は数秒」なので、考えすぎて引きずらないことである。


嬉しいことを何度思い返しても嬉しい。

感情の反復活用である。


怒りや哀しみを繰り返し思い出して考えれば、それも増幅する。

元の感情とは違ったところで更に怒り哀しむことになる。

「母が昨日あれを洗濯してくれていなかったから、白いシャツを着る羽目になった」

「それだってそもそも・・・」

などと見当違い、お門違いな怒りを新たに生みだし続ける。


私が比較的汎用性があると思って使うものは、先にも挙げた

「ま、いいか」

である。

子どものトラブルのいちいちに目くじらを立てていては、こちらが倒れる。

大概はこのキーワードで乗り切れる。

(ただし、以後の再発防止対策はとるようにする。

またトラブルが起きればお互い嫌な思いをするからである。)


「絶対積極」の境地には達せないまでも、ゆるゆるやれるのではないかと思う。

2022年1月22日土曜日

忘れる力

面談等をすると、時々聞かれることがある。

「どんな悪いことをしたか」を一つずつ挙げていって欲しいというものである。

これは、どの年のどの学年でも、数%の確率で出る要望である。


対象は我が子の時もあるし、他者の時もある。

当然、他の子どものことの場合は教えられない。

しかしながら、その子自身についても、いきなり聞かれても答えられない。


なぜか。


忘れているからである。


とても残念な回答だと思うが、大事なことなので繰り返す。


忘れいるからである。


私に限らず、同じという人は結構多い。

中には、子どもの悪さのいちいちを克明に記憶して再現できる記憶力のある人もいないではない。

しかし、絶対数としては、恐らく少ない。


記憶が頼りにならず忘れるのを知っているので、文書として記録をしてある。

なぜ記録しているかというと、先のように他人に尋ねられるからである。

場合によっては、遡って全て報告しないといけないこともあるからである。

いじめ防止対策の一環として、全校のトラブルが一括集約されて記録されている学校は多いことと思う。


しかし、記録したら記憶から消えるというのは自然の摂理である。

いきなり聞かれても、答えられない。


じゃあ予め全員分を一覧で用意しておけばいいではないかというかもしれない。

しかし、尋ねられてそれをサッと取り出してつらつらと述べても、それはそれで嫌味な感じがしないでもない。

(待ってましたと言わんばかりに、それを待ち構えている面談というのはどうかと思う。)


要望されたら時間を置いて後日また報告という方が現実的な対応である。


一番言いたいのは、この「忘れている」ということについてである。

これは、学級担任としてやっていく上で、結構大事な能力であると勝手に思っている。

「忘れる力」と言ってもいい。


特に、嫌なことは忘れた方がいい。

子どもたちは、ミスを多くする。

天使でも悪魔でもなければ、神様仏様でもないのだから、大人同様に人間らしく嫌な言動だってたくさんする。

それをいちいち全て覚えていたら、お互い辛い。


前の日に失敗をしても、次の日の朝に会ったら「おはようございます」と気持ち新たになるからいいのである。

それをお互い昨日のミスを引きずって暗くなっているとすれば、そのデメリットは果てしなく大きい。


担任が子どもの「悪さ」を全て覚えていたら、辛くてやってられない。

それを忘れて、今目の前でがんばっている姿に集中できるから「いいね!」が言えるのである。

一種の自己催眠と言えなくもないが、これは結構大切なことである。


忘れる大切さ。

そして、忘れるために記録しておく大切さ。

結構大切なことではないかと思う。

2022年1月19日水曜日

全員勝利の方程式

 「負けるが勝ち」という諺がある。

これを説明するのはなかなか難しい。

「負けた方が勝ち」ということなのだが、その説明だと堂々巡りになる。


「譲り合うが勝ち」の方が表現として的を射ているように思う。

互いに相手に譲り、合意点を見つけるのが勝ちという状況は結構多い。

(逆に、譲ってはいけない状況もある。

明かに悪くない時に謝ってしまってとりあえずその場を取り繕っておさめようとすることなどである。)


これに関係するのが、以前にも紹介した「敗北宣言」である。

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2021/02/blog-post_27.html


実は、指導に関して担任と子どもとの勝負で言えば

「どちらも負け」か「どちらも勝ち」

のいずれかしかない。


なぜならば、

「子どもが良くなる」=「担任の仕事の成功」であり、

「子どもが悪くなる」=「担任の仕事の失敗」だからである。

「=」で結ばれている左右は入れ替えても成立する。


だから、大局的に見れば、両方勝ちか両方負けの状況しかない。

(家族の中で誰か一人が不幸になれば、みんな不幸な暗い気持ちになるというのと同じである。)


例を挙げると、子どもが友達のものを壊してしまったけど認めないとする。


担任としてもやられた子どもとしても、きちんと認めて謝ることを願う。

それをやってしまった子どもが認めて謝ることを「敗北」と捉えるならば、そこを正直に言うことはない。

関係者全員が不幸であり、勝者なき「全員敗北」である。


一方で、子どもがきちんとやってしまったことを認めて心から謝って改善行動をとるとすれば、

「やってしまった子ども」「相手の子ども」「担任」の「全員勝利」である。


これは、親と子どもはもちろん、担任と保護者との関係でも同じである。

担任と保護者の共通の願いは「子どもが学校に通って良くなること」である。

だから、これが上手くいったのが「勝ち」で失敗したのが「負け」である。


どちらがどちらへでもいいのだが

「悪いのはそっち」の応酬をし続けている以上、子どもの不幸スパイラルは止まらない。

その勝負の白黒をつけるよりも、子どもが良くなると思えることを、それぞれがすればいいのである。


相手の行動を自分の都合のいいように変えようとすれば、待っている結果は「全員敗北」の一択である。

その応酬をしている、特に子どもが知っている時点で「全員敗北」していることを関係者全員が自覚する必要がある。

(だから、連絡帳などの子どもの目に付くところには、決してトラブルについて書いてはいけない。

夫婦喧嘩の醜態を子どもの目の前で晒してトラウマを植え付けるようなものである。)


結論としては

「互いの意志を尊重する」=「全員勝利」

というのが勝利の方程式である。

これは「相手の望むままに自分が振舞う」のとは真逆で、相手が意志をもって行動するのを互いに認め合うことである。

つまり、自分の意志を大切にしながら相手の気持ちも慮る必要がある。


そして「+」の場合でも「-」の場合でも方程式はそのまま作用する。

方程式に当てはめれば「相手を自分の意志通りに動かそうとする」=「全員敗北」となる。

親や教師の命令通りに「素直」に育てた子どもがある時突然牙をむくというのはよくあるが、勝負はずっと前から決していたのである。


「ダイバーシティ」は昨今のトレンドキーワードの一つである。

互いの違いを尊重する「全員勝利」の学級を目指し、そんな社会を作る一助にしていきたい。

2022年1月17日月曜日

「自分が好き」な子どもになるには

 道徳の授業で「ぞうさん」(まどみちお 作)を扱った。

誰もが知っている有名な童謡である。


A「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」

B「そうよ かあさんも ながいのよ」


命のつながりが基本テーマなのだが、アイデンティティにも関わる話である。


まず、誰が誰に向かって言っているのかを問うた。

Aの発話者が誰でBの発話者が誰かという話である。


まずAで意見が分かれた。

Aが「ぞうの友だち」なのか「動物園に来ている人間」なのかで割れた。


これはどちらにもとれるが、とにかく「本人が象ではない他者」である。

もし本人も象なのであれば、「おはながながいのね」の問いかけは不自然になるためである。


Bは「ぞうの子(子ぞう)」であるという解釈が一般的である。

Aで「ぞうさん ぞうさん」と呼び掛けており、「かあさんも」と答えているためである。


要するに「ぞうのかあさんから生まれた子どもだから、私も当然鼻が長い」のである。

親が象以外の生物であれば、鼻が長いという特徴は遺伝しない。


象は象から生まれ、人間は人間から生まれる。

命がつながっているとは、そういうことである。


Bは、極めて肯定的な返答である。

「いいでしょ、えっへん」という感じすらある。

存在への自己肯定感である。


まどみちおさんの詩には、このようなものが多い。

例えば『くまさん』という詩がある。

冬眠から目覚め、寝ぼけて自分が誰だったか忘れてしまったくま。

水に映った自分の顔を確認して思い出し「自分がくまでよかった」と締めくくる詩である。



命のつながりへの意識をもつことは、祖先への感謝をもつことでもある。

祖先の誰か一人でも欠けていたら自分が生まれていないということへの畏敬の念を抱くことでもある。


せっかく頂いた命、奇跡の確率で生まれてきた自分を大事にする。

これが、なかなか難しいようである。


「自分が嫌い」という子どもは、少なくない。

表面的にスタイルで答えているのではなく、本当にそう思っている子どもが結構いるのである。

大人ならもっと多いかもしれない。


これは、根源的に不幸を生む。

存在を否定すること以上に辛いことはない。


この強い意識は、大きく二つの方向へ行動を促す。


一つは、自分と他者を傷つける姿勢である。

自分と同様に他者も無価値化しようとする。

いじめや暴力・暴言の類はこの姿勢が表出したものといえる。

SNSで他者からの称賛を求めたり批判するのもこの意識からである。

自分の存在を肯定している人間であれば、他者からの称賛への関心をもたず、他者への攻撃もしない。


もう一つは、自分自身の「できる」を追い求める姿勢である。

「できる」「役立つ」ことにより自分の存在価値を高めようとする。

しかしこれはどんなに成果が上がっても、根源は満たされない。

自己有能感による他者への優越感は、同時に危機感と劣等感を生み続けるからである。

(=○○ができない自分には価値がない。)


一見優等生が突然「プツッ」と切れたように無気力化するのもこれである。

私が「100点をほめるな」と言い続けているのはこのためである。


これらは、大人にこそ当てはまる。

大人の姿勢が子どもにそのまま映る。

なぜなら「命はつながっている」からである。


子どもが自分を嫌いな根本は、大人が自分を嫌いだからという可能性がある。

子どもへ「自分大好き」を求めること自体は間違っていない。

しかし、それ以前に大人である私たち自身が、自分の存在への肯定をする必要がある。

それができない以上、子どもが自分を好きになることは難しいし、他人に優しくなることも難しい。


何かがある・ない、できる・できないに関わらず、自分がそこに存在していていいという感覚。

なぜ自分がそう思えないかを自問することで、見えるものがあるかもしれない。

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