前号の「質か量か」の話の続き。
質と同様、量は大切ということについて、自分の大失敗談を交えてお伝えする。
うまくいくまでの、試行錯誤。
子どもがそれをやり続けられる鍵は何か。
一つに、親や教師は、それを見守る余裕があるかどうかである。
余計な手出し口出しはせずに、励まし見守ってあげられるかどうかである。
この「余計な手出し口だし」が、厄介である。
親や教師の側は、自分ができたり、「正解」の理論がわかったりしているだけに、やきもきする。
「何でこんなことができないの?」と、疑問と同時にその不甲斐なさに苛立ってきてしまう。
この態度こそが、子どもが自由に試行錯誤しながら挑戦する最大の障壁になる。
わかっていても、やってしまうものである。
私は以前に担任していた子どもへの体育の指導で、深く深く反省し、後悔していることがある。
その当時、器械運動が苦手な子どもに、できるようにさせてあげたいという純粋な願いで、様々な方法を試した。
しかし、思うような成果が一向に上がらない。
その時、ぽそっと
「これもダメか・・・」
とつぶやいてしまったのである。
それが、子どもに聞こえてしまったのである。
これは、大失敗の極み。
苦手なことも前向きに努力し、我慢するその子どもは、直接私には言わなかった。
後日、面談の際に、親御さんに言われて知ったのである。
言った本人は全く気付いていないが、言われた方は深く傷ついている。
最悪である。
救われる唯一の点は、親御さんが私に伝えてくれたことである。
これは決して「クレーム」ではない。
適切な言葉を選ぶとすれば、「願い」である。
我が子の気持ちをわかって欲しいという願い。
担任の教師によりよく変わって欲しいという願いである。
伝えることで、角が立つかもしれないことを、言ってくれたのである。
深く反省し、謝罪し、改善して感謝するしかない。
何が言いたいかというと、教える側の強すぎる願いは、時に子どもの「量」を阻むということである。
うまくいくはずという思い込みが、最大の障壁になるということである。
親や教師の心ない一言が、子どものやる気を大きく挫くということである。
指導の知識をもった上で、手出し口出しは最小限に。
しかし、最後は子どもの可能性を信じる思いを腹の底にもつこと。
結局、子どもに量を積ませる指導の肝は、教師のエゴを捨て去った上での我慢強さと、思いやりがすべてである。
2017年9月8日金曜日
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