2017年9月28日木曜日

夏休みの宿題 親に丸投げ禁止

夏休みの宿題の話。
今回は懺悔も込めて。

先に「懺悔」をすると、これまで散々偉そうなことを書いているが、どれもこれまでの私自身の失敗談である。
「不要に多い宿題」を出した過去がある。
「事前指導なしの自由研究・読書感想文」を出した過去がある。
それらを出した理由は、過去に書いた通りである。
↓参照URL
http://www.mag2.com/p/news/259893
平たく、かつ正直に言えば、宿題に関してそこまできちんと考えていなかったのである。
親の負担なんて「これっぽっち」も考えていなかったのである。
「前例」、即ち「前へ、ならえ!」に無思考で従っていた訳である。
考えて出す、あるいは出さないようにしたのも、ここ数年の話である。
そんな数多の失敗経験を踏まえて、現在の考えに至っていることを先に述べておきたい。
(今まで私が担任させてもらった皆さん、本当に申し訳ございません・・・。お許しを。)

ここまで、懺悔終了。
本題へ。

基本スタンスとして、夏休みの宿題は不要だと思っている。
理由は以前に述べた通りである。
ただこれも「全員一律」の課題に問題ありというだけである。

意味のある夏休みの宿題もある。
完全な「自由課題」としては存在意義がある。
ここでしかできない経験を表現することには意義がある。
それを一律に課すから問題なのである。
(選択させても提出必須であれば一律と同じことである。)

子どもが旅先で、感動することがあった。
それを「旅行記」にまとめたり、「〇〇海の生態」というレポートにしたりする。
電車で旅したことを「鉄道記」として記すのもいい。
夏休み中に読んだ本に感動して、それを伝えたくて文章にするのもいい。
とにかく、本人が好きなことで、夏休みならではの表現のチャンスとして利用するなら意義がある。
この場合、子どもが「手伝って!」と言ったら、親としても手伝いようがあるし、悪い気がしない。
本当に子どもの興味から始まっているからである。

それをはじめから「学校からの課題ありき」だから、よろしくないのである。
「宿題がある」→「ネタ探し」という順番だと、確実に「自由」からほど遠い義務感からのスタートになる。
「表現したいネタがある」「元々〇〇を作るのが好き」→「自由課題として提出」なら意味がある。
要は、「課題」から入るのと「興味」から入るのでは、子どもの動機付けに決定的な違いが生じてしまう。
読書感想文などは、その最たるものである。

課題の提示者である教師が指導ができる「授業」ならまだしも、良心的な家庭に課題を丸投げしている実態がかなり見受けられる。
事前指導なし、丸投げの自由研究や読書感想文など、もはや「親への宿題」と言っても過言ではない。

逆に、実態に応じて「強制」してでも課題を与えた方がいいものもある。
例えば、何かしらの理由で、個人的に学業に関して大幅な遅れが生じている子どもの場合。
授業のない夏休みは、遅れた分の差を埋めるチャンスである。
この場合、計算練習や漢字練習など、足りない面の「反復系」「暗記系」の課題を与えることは意義がある。
「反復系」「暗記系」というのがポイントである。
これらは、教師が横について指導する必要がない。
だから、夏休み中でも課題としては取り組める。
家庭に声かけはお願いしないといけないが、そこに複雑さはない。
全員一律の課題ではないので、家庭と本人次第である。
(ただし、この課題も、今の時代だからこそ。
今後、計算や漢字の力がどういう扱いになっていくかである。)

一年生や二年生だと、計算カードの復唱などの課題が一律に出ることもある。
これも、本人だけでできる範囲であり、かつやっていなくても家庭には影響がない点が、家庭学習の課題としては適切である。
「学校からの課題は毎日やろうね」とも声かけできるし、たまには「今日は仕方ないかな」と、調節ができる。
こういった反復による「量」が命で、かつ子どもと家庭の負担が少ないものも、一律の課題としては適切である。
(やったかどうか確認する手段をとるかどうかはまた別の問題。)

要は、親への丸投げにならないこと。
家庭の状況や個人差を無視した一律の課題にしないこと。
最近読んだある記事には「夏休みの宿題で家庭レベルがわかる」といった記事があったが、本来それではいけない。
宿題は、親ではなく、あくまで子どもに出すものである。

宿題の出し方には、教育観の一端が出る。
何が「正しい」かはわからないが、「なぜ自分はそうしたか」は、明確に答えられるようにしたい。

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