先日、セミナーの冒頭で話した、公衆道徳の話。
車内で化粧。
どう思うか。
可か不可かを挙手でたずねてみた。
結果、可とする人はごく少数で、多くは不可ということだった。
なかなか厳しい意見である。
私はといえば、「どちらでもいい」、つまり、可である。
周りの人が不快に思う状況ならよろしくはない。
ただ、周りの人がどう思うかは、こちらには決められないのである。
私自身には、目の前の女性は見ず知らずの人だし、むこうにとっても確実に「どうでもいい存在」である。
(そうでなければ目の前で白目の「貞子」状態になりながらマスカラを付けないはずである。
ホラーも、見ようによってはエンターテイメント。)
救いが必要な状態でもないなら、知らない相手がどうあってもいい。
気にせず手元の本を読むに限る。
これは、私にとって最近変わったことなのである。
目の前の相手を評価することが減った。
以前は、公衆道徳に反すると思える人を注意したくなった。
しかし、どちらかというと、直接困っている人がいないことは、放置するようになった。
(そうは言えども、ポイ捨てとかは、やはり気になる。拾う人のことを考えてしまう。)
道徳は、大人に教えるのが非常に難しいことである。
宗教が行き渡っている国は、それが道徳の役割を果たす。
そうでない日本のような国は、どうするのか。
やはり、必要なことは子どもの内にある程度教える必要があると思う。
自ら考える道徳を目指すも、考えるための材料は必要である。
2017年4月10日月曜日
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