大掃除をすると、思い出すことがある。
よく母が「もっと広い家なら片付く」とぼやいていたことである。
物を置くスペースが足りないから散らかる、という論理である。
そんな訳ない、と子ども心に思っていた。
それも伝えたが、「そんなことない」と、まあ話は平行線である。
これは、何にでも当てはまる。
例えば、家族が増えたとかよく食べるようになったからと、冷蔵庫を買い替える。
冷蔵庫のスペースが広くなったから、これで余裕、という訳である。
しかし、人間の脳は空白を埋めたくなる。
「スペースが空いているからとりあえず置く」という心理である。
これをやると、とりあえずの場所にずっと置くことになる。
つまり、空いているスペースがこの調子で埋まり続ける。
新しい大きな冷蔵庫も、あっという間に埋まる。
新しく引っ越した広い家も、あっという間に散らかる。
要は、余裕がないのはものの広さの問題ではなく、使う人間の問題である。
旅行上手の人の鞄と同じ原理である。
たかが一泊二日の荷物が異常に大きくなるのは、旅慣れていない証である。
この原理は、時間にも適用される。
例えば17時に絶対の予定があると決まっていれば、そこまでに集中して仕事を仕上げる。
やるべき仕事を10の仕事量としたら、16時から1時間あたり10の仕事をこなすものである。
しかし、同じ人が21時まで残業できるとなると、その分薄まる。
5時間で10の仕事をこなせばよいのだから、10÷2で1時間あたり2の仕事量である。
(実際は休憩やおしゃべりをはさむので、時間帯によって0~5ぐらいの幅でかなりバラつきが出る。)
つまり空白は、放っておくと、ごみや不要物で埋まるのである。
時間でも空間でも、必要なことは「先取り」が基本である。
何を言いたいのかというと、行動には区切りが大切ということである。
一定の空間あるいは時間という枠の中で考えることで、人間は行動に移せる。
大晦日までにあれこれを終わらせるのも、新年に一年の目標を決めるのも、本質はこれである。
全ては行動化のための手段である。
自分の時間は、あとどれぐらいあるのか。
令和元年の終わりに、改めて考えてみた次第である。
2019年12月31日火曜日
2019年12月29日日曜日
子どもに「言い訳」を与える
親と教師の仕事の一つ。
それは、子どもに「言い訳」を与えてあげることである。
どういうことか。
以前に何度も本や記事で書いたが、例えば鬼ごっこで、氷鬼を行う時。
高学年で男女が混ざるようにするには、一工夫が必要である。
だから「男子を助けた女子を賞賛する(逆も)」ということを教師が行う。
それでも効かない場合は「男子しか女子を助けられない(逆も)」というルールを作る。
こうされると、子どもたちは、そうせざるを得なくなる。
「先生が言ってるから、仕方ない」という理由で、男女が混ざる。
実は、普通にそうやって交流したいような子どもたちも、周りを意識してできないのである。
そこに、言い訳を与える。
今の子どもたちは、SNSでつながっていて、途中で話題を切れない。
「もうこの辺で寝よう」というと「付き合いの悪い奴」ということになる。(面倒な酔っ払いオヤジみたいな世界である。)
あるいは「既読スルー」への報復が怖いのである。
寝不足や生活習慣の乱れの原因の一つである。
ここに、親が言い訳を与える。
「夜9時にはスマホを親に預ける」というルールを作る。
(あるいは、そういうルールがあるということを友人に伝えておく。)
それだけで、もう「仕方ない」ということになる。
言い訳を与えることで、子どもを守れる。
こういうことはたくさんある。
親や教師は、子どもの人間関係にとっての「助かる言い訳」になれる。
その辺りを意識することである。
何でも子どもの自由にするのが、子どもにとって助かるという訳でもないということである。
「人のせいにしない」は基本だが、こういったことは例外。
子どもを守るための言い訳という視点も、親や教師にとっては、大切である。
それは、子どもに「言い訳」を与えてあげることである。
どういうことか。
以前に何度も本や記事で書いたが、例えば鬼ごっこで、氷鬼を行う時。
高学年で男女が混ざるようにするには、一工夫が必要である。
だから「男子を助けた女子を賞賛する(逆も)」ということを教師が行う。
それでも効かない場合は「男子しか女子を助けられない(逆も)」というルールを作る。
こうされると、子どもたちは、そうせざるを得なくなる。
「先生が言ってるから、仕方ない」という理由で、男女が混ざる。
実は、普通にそうやって交流したいような子どもたちも、周りを意識してできないのである。
そこに、言い訳を与える。
今の子どもたちは、SNSでつながっていて、途中で話題を切れない。
「もうこの辺で寝よう」というと「付き合いの悪い奴」ということになる。(面倒な酔っ払いオヤジみたいな世界である。)
あるいは「既読スルー」への報復が怖いのである。
寝不足や生活習慣の乱れの原因の一つである。
ここに、親が言い訳を与える。
「夜9時にはスマホを親に預ける」というルールを作る。
(あるいは、そういうルールがあるということを友人に伝えておく。)
それだけで、もう「仕方ない」ということになる。
言い訳を与えることで、子どもを守れる。
こういうことはたくさんある。
親や教師は、子どもの人間関係にとっての「助かる言い訳」になれる。
その辺りを意識することである。
何でも子どもの自由にするのが、子どもにとって助かるという訳でもないということである。
「人のせいにしない」は基本だが、こういったことは例外。
子どもを守るための言い訳という視点も、親や教師にとっては、大切である。
2019年12月27日金曜日
子どもが「荒れる」原因
子どもが「荒れる」原因について。
子どもが荒れるのは、理由がある。
単純に「負のエネルギー」が一定まで溜まると、暴れ出す。
まあ大人でも同じことである。
負のエネルギーが溜まる状況は
・やりたくないことを我慢してやらされる
・やりたいことを我慢してやれない
・怒りと悲しみ
・理不尽な目に遭う
・意味のわからないことを黙って聞き続ける
・動かずじっとしている
等々たくさんある。
(虐待やハラスメントは、これが揃っている状態である。)
教師があまり直視したくない結論を述べる。
つまり、授業がつまらないと、荒れる。
授業がつまらないとは、具体的にどういうことか。
先に挙げたような場面が続く授業である。
わからないことを延々と我慢して聞く。
椅子にじっと座って耐えて聞く。
授業中にふざけている子が真面目な子どもの邪魔をしていても、全く対応されない。
一生懸命やっても評価されず、不真面目なあの子や、大きな声で目立つあの子ばかりが相手される。
これで、確実に荒れる。
ただし、負のエネルギーは、一気には溜まらない。
溜まってきても、途中で減らすこともできる。
先に挙げたことの逆をやればよい。
つまり
・やりたいことを思い切りやれる
・やりたくないことを無理にやらされない
・笑いと喜び
・正当な評価を得る
・やっていることがよくわかる
・動く
こういったことを取り入れる度に、負のエネルギーが減る。
負のエネルギーが0になると、今度は正のエネルギーが溜まってくる。
そうすると、「落ち着く」(荒れない)から「望ましい行動を積極的にとる」という状態にまでなる。
要は、学級が荒れるには子どもの背景とか色々あるが、授業がつまらないことが大きな原因である。
これは、残念ながら、ほぼ間違いない。
データでも、荒れた学級の子どもに聞くと、口を揃えて「授業がわからない」という。
だから、「専科の先生の時間だけ落ち着く」ということが起き得る。
(逆も起き得る。)
中学校では、普通のことである。
学級経営がベースなのは間違いない。
しかし、授業がどうでもいいかというと、全くそうではない。
(一方で当然、授業研究だけしていてればいいという訳でもない。)
子どもが学校にいる時間において、授業の時間が一番長い。
そう考えると、授業の大切さは、強調してもしきれない。
「授業が適当でも大丈夫」というのは、その「適当」が「無理なく適度」という意味である。
初任者や若い先生方には、やはり授業の準備をしっかりがんばっていただきたいと思う次第である。
子どもが荒れるのは、理由がある。
単純に「負のエネルギー」が一定まで溜まると、暴れ出す。
まあ大人でも同じことである。
負のエネルギーが溜まる状況は
・やりたくないことを我慢してやらされる
・やりたいことを我慢してやれない
・怒りと悲しみ
・理不尽な目に遭う
・意味のわからないことを黙って聞き続ける
・動かずじっとしている
等々たくさんある。
(虐待やハラスメントは、これが揃っている状態である。)
教師があまり直視したくない結論を述べる。
つまり、授業がつまらないと、荒れる。
授業がつまらないとは、具体的にどういうことか。
先に挙げたような場面が続く授業である。
わからないことを延々と我慢して聞く。
椅子にじっと座って耐えて聞く。
授業中にふざけている子が真面目な子どもの邪魔をしていても、全く対応されない。
一生懸命やっても評価されず、不真面目なあの子や、大きな声で目立つあの子ばかりが相手される。
これで、確実に荒れる。
ただし、負のエネルギーは、一気には溜まらない。
溜まってきても、途中で減らすこともできる。
先に挙げたことの逆をやればよい。
つまり
・やりたいことを思い切りやれる
・やりたくないことを無理にやらされない
・笑いと喜び
・正当な評価を得る
・やっていることがよくわかる
・動く
こういったことを取り入れる度に、負のエネルギーが減る。
負のエネルギーが0になると、今度は正のエネルギーが溜まってくる。
そうすると、「落ち着く」(荒れない)から「望ましい行動を積極的にとる」という状態にまでなる。
要は、学級が荒れるには子どもの背景とか色々あるが、授業がつまらないことが大きな原因である。
これは、残念ながら、ほぼ間違いない。
データでも、荒れた学級の子どもに聞くと、口を揃えて「授業がわからない」という。
だから、「専科の先生の時間だけ落ち着く」ということが起き得る。
(逆も起き得る。)
中学校では、普通のことである。
学級経営がベースなのは間違いない。
しかし、授業がどうでもいいかというと、全くそうではない。
(一方で当然、授業研究だけしていてればいいという訳でもない。)
子どもが学校にいる時間において、授業の時間が一番長い。
そう考えると、授業の大切さは、強調してもしきれない。
「授業が適当でも大丈夫」というのは、その「適当」が「無理なく適度」という意味である。
初任者や若い先生方には、やはり授業の準備をしっかりがんばっていただきたいと思う次第である。
2019年12月26日木曜日
与える=与えられる
昨日は、クリスマスである。
子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。
大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。
「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。
人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。
サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。
世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。
クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスは、世界が少し良くなるための日だと思いたい。
子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。
大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。
「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。
人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。
サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。
世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。
クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスは、世界が少し良くなるための日だと思いたい。
2019年12月23日月曜日
学習意欲が高まっているとは
学習意欲の捉えについて。
子どもの学習意欲ということが大切にされている。
新学習指導要領でも「学びに向かう人間性」の育成は、最重要項目である。
昨今に限らず、「関心・意欲・態度」には常に重点が置かれてきた。
ところで、この「学習意欲」という大きな言葉.
その内実がかなり違うと感じる次第で、書く。
言葉というのは、ラベルである。
ある種のものの分類、カテゴライズである。
しかし、同じ言葉の指すものでも、内実は全く違うということが多々ある。
学習意欲というものは、捉えによって内実が全く違う。
例えば最近、eラーニングによる学習がもてはやされている。
子どもの習熟度に従って、問題を出してくれる。
これはこれで意味がある。
子どもの学習意欲の向上に役立つという。
この場合、指すところは「子どもがゲームのように楽しんで取り組む」という意欲である。
また、何かのキャラクターに喋らせたり、下品なものを用いて笑わせて面白がらせる、という手段の場合もある。
(昨今大ヒットした漢字教材について、私はかなり批判的な立場である。日本語に対する品性が問われる。)
一方で、目指すところがあって勉強して、問題を解いているという場合。
これも「学習意欲がある」という。
しかし、これは先に挙げたいくつかの例とは、全く内実が違う。
前者は、外発的動機付けという。
面白そうだと思いそうなものを与えて意欲を引き出す方法である。
この場合、外的要因に魅力を感じなくなると、意欲が全くなくなる。
後者は、内発的動機付けという。
自分の内にそれをやる目的があり、動く場合である。
この場合、外的要因に影響を受けにくい。
もう少しわかりやすく例える。
子どもが好きなものだけを毎日食べさせれていれば「毎日よく食べている」という表現になる。
好き嫌いが少なく何でもよく食べる子どもも「毎日よく食べている」という表現になる。
確かに両者とも毎日よく食べているのだが、内実は全く違う。
何を言いたいのかというと、学習意欲の捉え方である。
子ども好みの美味しそうなものばかり与えて「よく食べている」と安心できるかどうかである。
状況によっては、そういうものが提供されない場合もあり得る。
この場合の「学習意欲」は、本人ではなく、他者に規定されることになる。
「学びに向かう人間性」というようなことを考える場合、最初は外発的でも、どこかで内発的動機づけに変換する必要がある。
人工的なサービスを受けて楽しいといっている状態から、自然の中に入って自分で楽しみを見つけられるようにするのと同じである。
現在の学校は、残念ながら、オーダーメイドの場ではない。
しかし今、時代はそういう流れになってきている。
消費者一人一人にとって、最適で快適なサービスを提供するのが当然という流れ。
ICTの得意分野である。
だからこそ、そうではない経験をする場として、学校は意味がある。
自分の思い通りにいかない他者との関係の中に生きる。
サービス満点ではない、不満足な中で、他者と折り合いをつけながら学ぶ。
多少しんどいことでも、意義を見出し、意欲をもって取り組む。
便利な世の中だからこそ、不便な体験も必要である。
他人と協働することは、大変だし、面倒である。
大変だからこそ、大きく変われる。
他者の面倒をみるからこそ、面倒をみてもらっていた自分に気付ける。
学習意欲の話に戻る。
やりやすいもの、面白いものばかりでは、育たない「学習意欲」もある。
困難であっても、挑戦しようと思えるような学習意欲が欲しい。
例えば算数。
普通に教科書レベルの問題であれば、特に考えなくても、大抵のものはできる。(手順や公式の丸暗記でできる。)
しかし、入試問題のようなものや、算数オリンピックのような問題であれば、別である。
古今東西の算数クイズもたくさんある。
こういった、知識だけでは解けないようなものに粘り強く取り組む「学習意欲」も育てたいのである。
解けないかもしれないし、モヤモヤも残るかもしれないが、単なる点数だけを追っている子ども(と親)には特に意味がある。
今の自分には難しいからこそ、自分をよりよく変えていこうという学習意欲が欲しい。
その基盤となるのが、前号までに述べてきたセルフエスティーム。
自己信頼があれば、困難にも、意欲をもってがんばれる。
易しいものばかりを与えるのが優しさではない。
励ましつつ、困難にも挑戦できるような真の学習意欲を育てたい。
子どもの学習意欲ということが大切にされている。
新学習指導要領でも「学びに向かう人間性」の育成は、最重要項目である。
昨今に限らず、「関心・意欲・態度」には常に重点が置かれてきた。
ところで、この「学習意欲」という大きな言葉.
その内実がかなり違うと感じる次第で、書く。
言葉というのは、ラベルである。
ある種のものの分類、カテゴライズである。
しかし、同じ言葉の指すものでも、内実は全く違うということが多々ある。
学習意欲というものは、捉えによって内実が全く違う。
例えば最近、eラーニングによる学習がもてはやされている。
子どもの習熟度に従って、問題を出してくれる。
これはこれで意味がある。
子どもの学習意欲の向上に役立つという。
この場合、指すところは「子どもがゲームのように楽しんで取り組む」という意欲である。
また、何かのキャラクターに喋らせたり、下品なものを用いて笑わせて面白がらせる、という手段の場合もある。
(昨今大ヒットした漢字教材について、私はかなり批判的な立場である。日本語に対する品性が問われる。)
一方で、目指すところがあって勉強して、問題を解いているという場合。
これも「学習意欲がある」という。
しかし、これは先に挙げたいくつかの例とは、全く内実が違う。
前者は、外発的動機付けという。
面白そうだと思いそうなものを与えて意欲を引き出す方法である。
この場合、外的要因に魅力を感じなくなると、意欲が全くなくなる。
後者は、内発的動機付けという。
自分の内にそれをやる目的があり、動く場合である。
この場合、外的要因に影響を受けにくい。
もう少しわかりやすく例える。
子どもが好きなものだけを毎日食べさせれていれば「毎日よく食べている」という表現になる。
好き嫌いが少なく何でもよく食べる子どもも「毎日よく食べている」という表現になる。
確かに両者とも毎日よく食べているのだが、内実は全く違う。
何を言いたいのかというと、学習意欲の捉え方である。
子ども好みの美味しそうなものばかり与えて「よく食べている」と安心できるかどうかである。
状況によっては、そういうものが提供されない場合もあり得る。
この場合の「学習意欲」は、本人ではなく、他者に規定されることになる。
「学びに向かう人間性」というようなことを考える場合、最初は外発的でも、どこかで内発的動機づけに変換する必要がある。
人工的なサービスを受けて楽しいといっている状態から、自然の中に入って自分で楽しみを見つけられるようにするのと同じである。
現在の学校は、残念ながら、オーダーメイドの場ではない。
しかし今、時代はそういう流れになってきている。
消費者一人一人にとって、最適で快適なサービスを提供するのが当然という流れ。
ICTの得意分野である。
だからこそ、そうではない経験をする場として、学校は意味がある。
自分の思い通りにいかない他者との関係の中に生きる。
サービス満点ではない、不満足な中で、他者と折り合いをつけながら学ぶ。
多少しんどいことでも、意義を見出し、意欲をもって取り組む。
便利な世の中だからこそ、不便な体験も必要である。
他人と協働することは、大変だし、面倒である。
大変だからこそ、大きく変われる。
他者の面倒をみるからこそ、面倒をみてもらっていた自分に気付ける。
学習意欲の話に戻る。
やりやすいもの、面白いものばかりでは、育たない「学習意欲」もある。
困難であっても、挑戦しようと思えるような学習意欲が欲しい。
例えば算数。
普通に教科書レベルの問題であれば、特に考えなくても、大抵のものはできる。(手順や公式の丸暗記でできる。)
しかし、入試問題のようなものや、算数オリンピックのような問題であれば、別である。
古今東西の算数クイズもたくさんある。
こういった、知識だけでは解けないようなものに粘り強く取り組む「学習意欲」も育てたいのである。
解けないかもしれないし、モヤモヤも残るかもしれないが、単なる点数だけを追っている子ども(と親)には特に意味がある。
今の自分には難しいからこそ、自分をよりよく変えていこうという学習意欲が欲しい。
その基盤となるのが、前号までに述べてきたセルフエスティーム。
自己信頼があれば、困難にも、意欲をもってがんばれる。
易しいものばかりを与えるのが優しさではない。
励ましつつ、困難にも挑戦できるような真の学習意欲を育てたい。
2019年12月21日土曜日
セルフエスティームを高める方法
前号の「セルフエスティーム」に関連して。
私見として、気付き。
「自分自身の価値を信じる」というと、日本では品がないように思われることがある。
しかし、それは違う。
自分自身に価値を見出せないと、他人の価値も認められなくなるからである。
自分に不足感があると、他者に色々と求めるようになる。
「もっと〇〇をちょうだい」
「あの人の方が私よりももっている。悔しい。勝ちたい。」
「なんでもっと私を大切にしてくれないの」
・・・まあ、重い。
面倒な人である。
しかし、セルフエスティームが低い人は、この傾向になる。
自分の足りない分を他の「富める者」からの「施し」で補おうとするからである。
逆に、セルフエスティームが高い人は、満足している状態になる。
つまり、自分自身に、余裕ができる。
そうすると、余裕の分が溢れ出てしまうので、他者に与えることになる。
溢れた分が勿体ないので、捨てずに人に分け与えることで、満足できる。
仕事というのは、これである。
自分の専門技能なり努力なりで生んだ余剰価値を、他者に提供する。
相手に喜んでもらい、満足する。
単純化すると、そういう仕組みである。
つまり、自分には価値あるものを提供できない、という考えだと、喜びがなくなる。
価値あるものを提供できるという自信が、喜びにつながる。
ちなみに、海外の人には理解し難い日本語の「つまらないものですが・・・」は、本当につまらないものとは思っていない。
自分としては精一杯の価値のあるものだが、あなたの素晴らしい価値に対しては申し訳ないかもしれない、という意味である。
モノ自体が決してつまらないのではなく、相手を敬っているからこその言葉である。
モノと相手の相対的価値から、モノが「つまらないもの」になってしまうだけである。
話がやや逸れたが、ではセルフエスティームをどう高めるかである。
これは「与える側」に立つに限る。
先に述べたように、もてるものが与える側に立てる。
逆にいえば、与えてしまえば、もてるものという潜在意識を作れる。
そういった意味でも、例えば募金は意味がある。
相手のためでもあるのだが、何より自分のためになる。
募金をすれば、セルフエスティームが否応なしに高まる。
それを狙ってするのも憚れるかもしれないが、少なくとも募金しないより、する方が相手にとっては助かる。
ボランティア活動といわれるもの全般も同様。
ごみ拾いでも何でも、すればセルフエスティームが高まってしまう。
やっていて、悪いことをしているとは、どうしても思えないからである。
道行く散歩中の人々に「ありがとう」と言われて、セルフエスティームが高まらないようにする方が難しい。
「ありがとう」は、相手の価値を認める最大の賛辞である。
それを、ただ偶然すれ違っただけの人に言われるのだから、これは「有難い」ことである。
ごみ拾い活動に関していえば、道がきれいになる。
それを見るだけで、爽やかな、嬉しい気持ちになる。
十年前に捨てられたようなごみを拾う時には「お前はずっと待ってて大変だったなぁ」と声をかける。
とりあえず、鍵山秀三郎氏の言うように「一つ拾えば、一つだけきれいになる」が実感できる。
やってみればわかる話である。
私は「偽善者宣言」をしたので、こういう場でも現実の場でも「やっています」と堂々と公言する。
これを知って、真似する人が出るかもしれないからである。
もし一人でも子どもが大人を誘って真似し始めたら、もう教育の目的としては、ばっちりである。
教師である自分と、子どものセルフエスティームを高める。
そのためには、教室で何か「与える」というような活動をしてみる。
または、そういう仕組みを作る。
これを常に意識して教育に当たるのが大切ではないかと思う次第である。
私見として、気付き。
「自分自身の価値を信じる」というと、日本では品がないように思われることがある。
しかし、それは違う。
自分自身に価値を見出せないと、他人の価値も認められなくなるからである。
自分に不足感があると、他者に色々と求めるようになる。
「もっと〇〇をちょうだい」
「あの人の方が私よりももっている。悔しい。勝ちたい。」
「なんでもっと私を大切にしてくれないの」
・・・まあ、重い。
面倒な人である。
しかし、セルフエスティームが低い人は、この傾向になる。
自分の足りない分を他の「富める者」からの「施し」で補おうとするからである。
逆に、セルフエスティームが高い人は、満足している状態になる。
つまり、自分自身に、余裕ができる。
そうすると、余裕の分が溢れ出てしまうので、他者に与えることになる。
溢れた分が勿体ないので、捨てずに人に分け与えることで、満足できる。
仕事というのは、これである。
自分の専門技能なり努力なりで生んだ余剰価値を、他者に提供する。
相手に喜んでもらい、満足する。
単純化すると、そういう仕組みである。
つまり、自分には価値あるものを提供できない、という考えだと、喜びがなくなる。
価値あるものを提供できるという自信が、喜びにつながる。
ちなみに、海外の人には理解し難い日本語の「つまらないものですが・・・」は、本当につまらないものとは思っていない。
自分としては精一杯の価値のあるものだが、あなたの素晴らしい価値に対しては申し訳ないかもしれない、という意味である。
モノ自体が決してつまらないのではなく、相手を敬っているからこその言葉である。
モノと相手の相対的価値から、モノが「つまらないもの」になってしまうだけである。
話がやや逸れたが、ではセルフエスティームをどう高めるかである。
これは「与える側」に立つに限る。
先に述べたように、もてるものが与える側に立てる。
逆にいえば、与えてしまえば、もてるものという潜在意識を作れる。
そういった意味でも、例えば募金は意味がある。
相手のためでもあるのだが、何より自分のためになる。
募金をすれば、セルフエスティームが否応なしに高まる。
それを狙ってするのも憚れるかもしれないが、少なくとも募金しないより、する方が相手にとっては助かる。
ボランティア活動といわれるもの全般も同様。
ごみ拾いでも何でも、すればセルフエスティームが高まってしまう。
やっていて、悪いことをしているとは、どうしても思えないからである。
道行く散歩中の人々に「ありがとう」と言われて、セルフエスティームが高まらないようにする方が難しい。
「ありがとう」は、相手の価値を認める最大の賛辞である。
それを、ただ偶然すれ違っただけの人に言われるのだから、これは「有難い」ことである。
ごみ拾い活動に関していえば、道がきれいになる。
それを見るだけで、爽やかな、嬉しい気持ちになる。
十年前に捨てられたようなごみを拾う時には「お前はずっと待ってて大変だったなぁ」と声をかける。
とりあえず、鍵山秀三郎氏の言うように「一つ拾えば、一つだけきれいになる」が実感できる。
やってみればわかる話である。
私は「偽善者宣言」をしたので、こういう場でも現実の場でも「やっています」と堂々と公言する。
これを知って、真似する人が出るかもしれないからである。
もし一人でも子どもが大人を誘って真似し始めたら、もう教育の目的としては、ばっちりである。
教師である自分と、子どものセルフエスティームを高める。
そのためには、教室で何か「与える」というような活動をしてみる。
または、そういう仕組みを作る。
これを常に意識して教育に当たるのが大切ではないかと思う次第である。
2019年12月19日木曜日
セルフエスティームを高める
セルフエスティーム(自尊感情)について。
大学の授業で学んだ際に、面白い話があった。
セルフエスティームとは、簡単に言うと、「自分には生きている価値がある」と考えられる傾向である。
日本では、「謙譲の美徳」が悪い形でここに反映しており、セルフエスティームが世界一低い傾向がある。
(特に中学生の女子が最低値になるというデータがある。)
ある研修会で、高校の先生から次のような質問を受けたという。
「自分の苦手なところやダメなところを自覚するのも、同じくらい大切ではないですか。」
皆さんは、どう考えるだろうか。
ここを、研修講師をしたその先生は、完全に否定したという。
それは「間違い」であると。
それも大切だが、「同じくらい」ではない。
セルフエスティームが高い方が、ずっと大切である。
なぜなら、セルフエスティームが低い人間にとって、苦手やダメな点を自覚したところで、デメリットしかないからである。
自覚させられたことにより、更に落ち込むことになり、より不活動になる。
つまり、勘違いしている方がずっといい。
人間の可能性なんて、誰にもわからない。
少なくとも、自分はダメだと思って諦めてしまうよりも、勘違いして行動する方が、伸びる可能性がある。
まずは動かないと、伸びる可能性はゼロである。
子どもの教育では、まずこのセルフエスティームを高めること。
苦手を意識させようとしなくても、本人はよくわかっている。
それよりも、長所を伸ばす方に全力を注ぐ段階である。
幼稚園児相手に、「できないこと」を羅列して自覚させることの愚かさを考えればすぐにわかる。
「何でこんな簡単なことができないの!」
・・・・子ども的には、何でそんなことを言えるのかを、大人の方に聞きたいところである。
一番親身に考えているつもりの、親や教師こそが、最も子どもを「ダメ」にしている。
セルフエスティームを高める。
誰から。
大人からである。
あなたがあなた自身の価値を信じることができなければ、子どもが自分の価値を信じることはない。
大人のセルフエスティームの向上と、自信の確立。
それができれば、子どもの可能性を信じることができる。
子どもにガミガミ言いがちだとしたら、自分自身のセルフエスティームの低さを疑ってみることが優先事項である。
大学の授業で学んだ際に、面白い話があった。
セルフエスティームとは、簡単に言うと、「自分には生きている価値がある」と考えられる傾向である。
日本では、「謙譲の美徳」が悪い形でここに反映しており、セルフエスティームが世界一低い傾向がある。
(特に中学生の女子が最低値になるというデータがある。)
ある研修会で、高校の先生から次のような質問を受けたという。
「自分の苦手なところやダメなところを自覚するのも、同じくらい大切ではないですか。」
皆さんは、どう考えるだろうか。
ここを、研修講師をしたその先生は、完全に否定したという。
それは「間違い」であると。
それも大切だが、「同じくらい」ではない。
セルフエスティームが高い方が、ずっと大切である。
なぜなら、セルフエスティームが低い人間にとって、苦手やダメな点を自覚したところで、デメリットしかないからである。
自覚させられたことにより、更に落ち込むことになり、より不活動になる。
つまり、勘違いしている方がずっといい。
人間の可能性なんて、誰にもわからない。
少なくとも、自分はダメだと思って諦めてしまうよりも、勘違いして行動する方が、伸びる可能性がある。
まずは動かないと、伸びる可能性はゼロである。
子どもの教育では、まずこのセルフエスティームを高めること。
苦手を意識させようとしなくても、本人はよくわかっている。
それよりも、長所を伸ばす方に全力を注ぐ段階である。
幼稚園児相手に、「できないこと」を羅列して自覚させることの愚かさを考えればすぐにわかる。
「何でこんな簡単なことができないの!」
・・・・子ども的には、何でそんなことを言えるのかを、大人の方に聞きたいところである。
一番親身に考えているつもりの、親や教師こそが、最も子どもを「ダメ」にしている。
セルフエスティームを高める。
誰から。
大人からである。
あなたがあなた自身の価値を信じることができなければ、子どもが自分の価値を信じることはない。
大人のセルフエスティームの向上と、自信の確立。
それができれば、子どもの可能性を信じることができる。
子どもにガミガミ言いがちだとしたら、自分自身のセルフエスティームの低さを疑ってみることが優先事項である。
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