「叱る」とはどういうことか、「信じる」とはどういうことか。
こういったことについて、ここ数回書いてきた。
言葉の意味というのは、よくよく考えて用いなければならない。
安易に使うと、誤解を生みやすい。
何度も書いたが「叱る」と「褒める」というそれぞれの言葉自体に善悪はない。
誰がどの文脈で用いるかが大切なのである。
誤解されがちなものの一つに「質問」がある。
「質問するのはいいことだ」という風潮がある。
しかし、実際には、やたらな質問をするのは、よくない場合も結構多い。
体育主任をする若い方などからよく聞く話だが、運動会練習期間などで
「〇〇はどうするんでしたっけ?」
とやたらにきいてくる人がいるという。
「提案文書よく読んで」と言い返したくなるだろうが、何かと協力してもらう手前、言えない。
質問者側には、「主担当者なんだから完璧に把握しているはず」という前提がある。
それはその通りなのだが、異動したての時などで、見えていないことも多いと、何かと大変である。
本当は、質問する前に自分で調べて確認すべきことである。
自分の頭で考える方が先である。
その上で、確認の意味も兼ねて
「〇〇は△△ということでよろしいですね?」
と尋ねるべきところである。
類似したことは、教頭や教務主任等、忙しい人に対してこそやってしまいがちなので要注意である。
基本的に何でも把握しているので、つい頼りがちになるが、忙しい人にはちょっと調べればわかる無駄な質問をすべきではない。
これは、子どもの指導にもいえる。
「質問があります」とたずねる能力自体は、コミュニケーション能力としてはいい。
しかし、本来は、たずねないでも自分でわかる方がよりいいのである。
「聞いてない」「読んでない」「考えていない」という「ないない」だらけの質問は、良くないということを伝える。
低学年だから聞けなくても仕方無い、という考えもある。
しかし、実際は、幼稚園児でもきちんと話を聞けるのである。
そこを甘やかす必要はない。
(幼稚園や保育園の先生方は、一年生の小学校におけるあらゆる甘やかされっぷりに、ため息をついていることが結構多い。
卒園させた側からすれば、手塩にかけて鍛え上げた能力のある子どもたちなのである。
小さくて見た目がかわいいからといって、なめてはいけない。)
このあたり、低学年でしつけておかないと、高学年に「聞く力」が足りないまま育つ可能性がある。
高学年や思春期の指導の困難さは「きかない」「聞けない」ことに多く起因する。
学力の根本は聞く力なのである。
低学年で緩くしたことが、結局、「低学力&話を聞かない」ということにつながる。
学力面も情緒面も育たないとなれば、子どもが不幸である。
(体育でもいえる。幼児期~中学年までのゴールデンエイジには運動神経系を鍛えておかないと、後では取り返しがつかない。)
「クラス会議」等の「話し合い」をする場では、ここが顕著に出る。
35人の学級なら、平均して「話す時間:聞く時間=1:34」である。
つまり、その時間の97%ぐらいは、聞いている状況である。
聞く力の方をはるかに多く使う。
その上で、短い時間で効果的に話して伝える力が要求される訳である。
つまり、「話し合い」とはいうが、実は「聞き合い」という方が適切なぐらいである。
また、ここは大切なポイントだが、本人の努力の問題とは別に、聞けない子どもも存在し得る。
ここに対しては、特別な配慮がいる。
肢体不自由で車椅子に乗っている子どもに、みんなと同じように走れと無茶を言う人はいない。
しかし、色盲の子どもに色を見分けろという無茶を言っている可能性はある。
何が違うかというと、外から見てわかるかどうかの差である。
視覚・聴覚など、脳の内部の情報処理の困難については、特別な知識がある人には見えるのだが、そうでないと見えない。
「気になる子」は、対応を間違えると、二次障害を引き起こす。
単純に見てわからない困難さは、指導者側が配慮するしかない。
そういう可能性も常に頭の隅におきつつ、指導することが肝要である。
話が広がったが、「質問できる」がいいかどうかは、単純に言えないという話である。
どんな言葉や事柄も、それ自体がいいか悪いかでなく、文脈で考えるようにしたい。
2018年6月14日木曜日
「信じているよ」と「裏切られる」は、パッケージ
拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』が、好評につきまた増刷された。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
教育に携わる多くの方の手に渡り、何かしらの手助けができるかもしれないということは、この上ない喜びである。
この本の中で紹介している切り返しの一つに、「信じているよ。」というものがある。
自分の教育観の柱に当たる部分にある、根本的な切り返しである。
どんな子ども相手でも、何をされても、教員にとって子どもを信じる以外に生きる道はないと思っている。
さて、こんなに言っても
「でも、うちのクラスの子どもは、本当にひどいんです!何度言っても、裏切るんです!」
という悲痛な叫び声が上がるのは、心からわかる。
真面目な人ほど、ここに悩む。
(真面目でないなら、そもそも面倒で手のかかる子どもを相手に悩まないし、担任もしない。)
根本的な間違いの認識が
「信じる」=「相手は裏切らない」
という図式である。
これは、ほとんどの場合、誤りである。
なぜなら、
「信じる」の主語は自分であり、
「裏切る」の主語は相手だからである。
そもそも「裏切る」以前に、子ども側からすれば
「約束した覚えもない」
ということがほとんどである。
勝手に、一方的に、100%自分主体で、子どもを「信じている」だけである。
(類義語に「言ったでしょ!」がある。うん。言ったには、言ったと思う。こっちは聞いてないけど、である。)
あらゆる人間関係も、この誤りパターンが当てはまる。
わかりやすく、恋愛関係を例に説明する。
自分が好きになった相手が、全然自分を相手にしてくれないとする。
何度どんなに好意的な態度で喜びそうなことをしてあげても、「けんもほろろ」な反応である。
しかし、それでもがんばる。
それは、いつか相手が振り向いてくれると「信じている」からである。
ここで、間違える人は、相手を恨み出す。
「こんなに自分がしてやっているのに、なぜ振り向かないんだ」
「何て性格が悪いやつなんだ」
「人間としてダメなやつだ」
そう、こんなに自分が「信じてやってる」「一生懸命」なのに、である。
これが、いかに「ヤバいやつ」かは、説明する必要はあるまい。
まあ、このままいくと、ストーカー等の犯罪行為に走るのは必至である。
相手が振り向くかどうかは、相手に100%の選択権がある。
いわずもがなの当然すぎる前提だが、「恋は盲目」で、一生懸命、必死なほど、ここを見誤る。
本来は、「やり方を変える」とか「距離の取り方を変える」とか、色々手法を工夫すべきところである。
繰り返す子どもの不適切な言動も、これと同じである。
信じるかどうかは教師に100%選択権があるが、変わるかどうかは、100%子どもに選択権がある。
信じるが、やり方は少しずつ変えないと、同じ結果が出るのは目に見えているのである。
だから「信じている」けど、「また裏切られるかもね」という言葉も含みおきである。
そこすら「お約束」である。
「信じる」と「裏切られる」は、表裏一体、パッケージなのである。
「信じているよ」といいながら、当然裏切られる覚悟をもち、ほんの少し「次は変わるかも」と期待する。
その確立は、標準で1%以下である。
100回言えたら、1回チャンスタイムが来るかもしれない。
ほとんどはずれの、当たりくじ付きお菓子のようなものである。
標準で「銀のエンゼル」、大物相手は「金のエンゼル」レベルである。
それでも、開ける瞬間は「今度こそ当たりかも!?」と思って、どきどきする。
それぐらいの確立だと思って、大らかに構えることが大切である。
色々書いた。
こういう、哲学的なというか、「観」の部分にも力を入れて書いた本である。
ピンチがチャンスになるぐらいの真の切り返しワードを手に入れたいなら、そういう部分をこそ、読んでいただきたい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
教育に携わる多くの方の手に渡り、何かしらの手助けができるかもしれないということは、この上ない喜びである。
この本の中で紹介している切り返しの一つに、「信じているよ。」というものがある。
自分の教育観の柱に当たる部分にある、根本的な切り返しである。
どんな子ども相手でも、何をされても、教員にとって子どもを信じる以外に生きる道はないと思っている。
さて、こんなに言っても
「でも、うちのクラスの子どもは、本当にひどいんです!何度言っても、裏切るんです!」
という悲痛な叫び声が上がるのは、心からわかる。
真面目な人ほど、ここに悩む。
(真面目でないなら、そもそも面倒で手のかかる子どもを相手に悩まないし、担任もしない。)
根本的な間違いの認識が
「信じる」=「相手は裏切らない」
という図式である。
これは、ほとんどの場合、誤りである。
なぜなら、
「信じる」の主語は自分であり、
「裏切る」の主語は相手だからである。
そもそも「裏切る」以前に、子ども側からすれば
「約束した覚えもない」
ということがほとんどである。
勝手に、一方的に、100%自分主体で、子どもを「信じている」だけである。
(類義語に「言ったでしょ!」がある。うん。言ったには、言ったと思う。こっちは聞いてないけど、である。)
あらゆる人間関係も、この誤りパターンが当てはまる。
わかりやすく、恋愛関係を例に説明する。
自分が好きになった相手が、全然自分を相手にしてくれないとする。
何度どんなに好意的な態度で喜びそうなことをしてあげても、「けんもほろろ」な反応である。
しかし、それでもがんばる。
それは、いつか相手が振り向いてくれると「信じている」からである。
ここで、間違える人は、相手を恨み出す。
「こんなに自分がしてやっているのに、なぜ振り向かないんだ」
「何て性格が悪いやつなんだ」
「人間としてダメなやつだ」
そう、こんなに自分が「信じてやってる」「一生懸命」なのに、である。
これが、いかに「ヤバいやつ」かは、説明する必要はあるまい。
まあ、このままいくと、ストーカー等の犯罪行為に走るのは必至である。
相手が振り向くかどうかは、相手に100%の選択権がある。
いわずもがなの当然すぎる前提だが、「恋は盲目」で、一生懸命、必死なほど、ここを見誤る。
本来は、「やり方を変える」とか「距離の取り方を変える」とか、色々手法を工夫すべきところである。
繰り返す子どもの不適切な言動も、これと同じである。
信じるかどうかは教師に100%選択権があるが、変わるかどうかは、100%子どもに選択権がある。
信じるが、やり方は少しずつ変えないと、同じ結果が出るのは目に見えているのである。
だから「信じている」けど、「また裏切られるかもね」という言葉も含みおきである。
そこすら「お約束」である。
「信じる」と「裏切られる」は、表裏一体、パッケージなのである。
「信じているよ」といいながら、当然裏切られる覚悟をもち、ほんの少し「次は変わるかも」と期待する。
その確立は、標準で1%以下である。
100回言えたら、1回チャンスタイムが来るかもしれない。
ほとんどはずれの、当たりくじ付きお菓子のようなものである。
標準で「銀のエンゼル」、大物相手は「金のエンゼル」レベルである。
それでも、開ける瞬間は「今度こそ当たりかも!?」と思って、どきどきする。
それぐらいの確立だと思って、大らかに構えることが大切である。
色々書いた。
こういう、哲学的なというか、「観」の部分にも力を入れて書いた本である。
ピンチがチャンスになるぐらいの真の切り返しワードを手に入れたいなら、そういう部分をこそ、読んでいただきたい。
2018年6月10日日曜日
「荒れ」は合理的
休日らしく、家での生活に関わる話から。
仲間との会話からの気付き。
私の仲間の一人(男性)が、
「家事をどんなにやっても妻にほめられない。」
とぼやいた。
さらに
「結構上手くやってると思うんだけれど。」
とも言っていた。
なるほど、それは当然気付かない。
人間は、当たり前のことに感謝しないからである。
空気があることはもちろん、電気や水道の水が無限のように使用できることに感謝しないのと同様である。
もっというと、当たり前のように上手にできればできるほど、注目されない。
この私の仲間の例でいうと、家事を上手にこなしすぎなのである。
一方でもし、しょっちゅう料理を焦がしたり、洗濯を忘れていたり、言われないと全然掃除をしなかったりという人だったとする。
そんな人が、たまにまともに上手にやっていたり、自分からすすんでやっていたりしたら、きっとこう言われる。
「すごいじゃん!」「ありがとう!」
要は、そういうことである。
人間は、当たり前に上手にやってくれていることに対して、価値を感じないのである。
一年生にお手伝いに来てくれる高学年の子どもを見ていると、これがわかる。
一年生の教室には、6年生と、私が4年生で担任していた現5年生がお手伝いに来てくれる。
去年自分が見ていた時には、当時の4年生に「もっともっと!」ばかりだった。
これが、一年生を相手にしていると、脅威的にすごい姿に見える。
全部自分たちで考えてやってくれるのである。
しかも、一年生が自分でやれそうことは、なるべく手を出さない。
もう、恐れ入るすごさである。
去年は、ここに全く気付かなかった。
まさに「這えば立て、立てば歩めの親心」である。
当たり前のように上手にできているが故に、その素晴らしさへの感動も感謝も足りなくなっていた。
反省しきりである。
学級には「手のかからない」子どもがいる。
何度も言っているが、ここが一番配慮すべき子どもである。
何かとトラブルが目立つ子どもや、技能等で飛び抜けたものをもつ子どもには、嫌でも目が向く。
しかし、実際に学級を支えてくれているのは、この「手のかからない」多くをきちんとやれる目立たない子どもである。
「当たり前」を当たり前にやってくれる子どもが全体の過半数を占めているからこそ、成り立つのである。
意識的に「見て留める」=「認める」必要がある。
家事の得意な仲間の話に戻るが、彼はこのままでは妻に感謝されないと思う。
アドバイスとしては
「適当にさぼってみれば?」
となる。
家の中が荒れてくれば、嫌でもやってくれていたことに気付く。
ここに「手のかからない」子どもが気付いた場合、様々な「荒れ」という形のサインで出してくる。
要は、「荒れ」とは、「認めてもらえない」という不満を相手に伝えるための表現である。
こう考えると、様々な「非行」も「合理的」といえる。
「荒れ」は合理的なのである。
「荒れ」は、不登校や学力低下という形で表出する場合もある。
本人にも無自覚で無意識なのが難しいところである。
根本的な治療薬は、相手の存在自体を「認める」「感謝する」しかない。
そして、治療は、予防の十倍から百倍の労力がいることを覚悟すべきである。
結論、普段からの当たり前を見直し、「認める」「感謝する」という行為は、双方にとって良い結果を招く。
子どもだけでなく、家族や同僚など、つい後回しにしがちな身近な人にこそ意識的に伝えるようにしたい。
仲間との会話からの気付き。
私の仲間の一人(男性)が、
「家事をどんなにやっても妻にほめられない。」
とぼやいた。
さらに
「結構上手くやってると思うんだけれど。」
とも言っていた。
なるほど、それは当然気付かない。
人間は、当たり前のことに感謝しないからである。
空気があることはもちろん、電気や水道の水が無限のように使用できることに感謝しないのと同様である。
もっというと、当たり前のように上手にできればできるほど、注目されない。
この私の仲間の例でいうと、家事を上手にこなしすぎなのである。
一方でもし、しょっちゅう料理を焦がしたり、洗濯を忘れていたり、言われないと全然掃除をしなかったりという人だったとする。
そんな人が、たまにまともに上手にやっていたり、自分からすすんでやっていたりしたら、きっとこう言われる。
「すごいじゃん!」「ありがとう!」
要は、そういうことである。
人間は、当たり前に上手にやってくれていることに対して、価値を感じないのである。
一年生にお手伝いに来てくれる高学年の子どもを見ていると、これがわかる。
一年生の教室には、6年生と、私が4年生で担任していた現5年生がお手伝いに来てくれる。
去年自分が見ていた時には、当時の4年生に「もっともっと!」ばかりだった。
これが、一年生を相手にしていると、脅威的にすごい姿に見える。
全部自分たちで考えてやってくれるのである。
しかも、一年生が自分でやれそうことは、なるべく手を出さない。
もう、恐れ入るすごさである。
去年は、ここに全く気付かなかった。
まさに「這えば立て、立てば歩めの親心」である。
当たり前のように上手にできているが故に、その素晴らしさへの感動も感謝も足りなくなっていた。
反省しきりである。
学級には「手のかからない」子どもがいる。
何度も言っているが、ここが一番配慮すべき子どもである。
何かとトラブルが目立つ子どもや、技能等で飛び抜けたものをもつ子どもには、嫌でも目が向く。
しかし、実際に学級を支えてくれているのは、この「手のかからない」多くをきちんとやれる目立たない子どもである。
「当たり前」を当たり前にやってくれる子どもが全体の過半数を占めているからこそ、成り立つのである。
意識的に「見て留める」=「認める」必要がある。
家事の得意な仲間の話に戻るが、彼はこのままでは妻に感謝されないと思う。
アドバイスとしては
「適当にさぼってみれば?」
となる。
家の中が荒れてくれば、嫌でもやってくれていたことに気付く。
ここに「手のかからない」子どもが気付いた場合、様々な「荒れ」という形のサインで出してくる。
要は、「荒れ」とは、「認めてもらえない」という不満を相手に伝えるための表現である。
こう考えると、様々な「非行」も「合理的」といえる。
「荒れ」は合理的なのである。
「荒れ」は、不登校や学力低下という形で表出する場合もある。
本人にも無自覚で無意識なのが難しいところである。
根本的な治療薬は、相手の存在自体を「認める」「感謝する」しかない。
そして、治療は、予防の十倍から百倍の労力がいることを覚悟すべきである。
結論、普段からの当たり前を見直し、「認める」「感謝する」という行為は、双方にとって良い結果を招く。
子どもだけでなく、家族や同僚など、つい後回しにしがちな身近な人にこそ意識的に伝えるようにしたい。
2018年6月8日金曜日
こどもの日とメディア
こどもの日にメルマガ上で書いた記事。
健やかな成長を願って、子どもの子ども時代には、良い情報に多くふれさせたい。
ところでテレビやSNSのニュースを見ると、トップから相変わらず悪いことの記事が溢れている。
凄惨な殺人事件とか、愛憎関係とか、正直、知る必要のない情報が多すぎる。
(メディアが世に登場して以来の普遍的で不変のことではある。)
特に、政治家や芸能人といった有名人へのバッシング量は半端ではない。
有名なのだから、(一方的に)知っている人も多いし、量的な面では当然ではある。
普段「いいね!」が多い分、ひっくり返って「最悪だね!」も多くつく。
ただ、他人をバッシングをして騒ぐ人は、大抵暇である。
自分のすべきことに集中していない。
他人を攻撃する人は、自身が幸せから遠い。
自分勝手な要望を伝えるだけの「悪質なクレーム電話」の大半は、働いていない高齢者からだそうである。
(逆に、高齢者が無理に働かないといけない世の中を良いとも思っていない。)
バリバリ夢中で働いている最中の人には、余計なことをしている暇はない。
またモラル・ライセンシング効果もあって、
「こんなに悪い奴をこてんぱんにやっつけてる自分」
=「自分は少し悪いことをしてもOK!」
という心の免罪符にもなり得る。
マザー・テレサやガンジーが騒ぐとは思えない。
人生の使命に従って生きている人には、毎日のやるべきことが多すぎる。
だから多分、こういうことには、静観しているはずである。
コメントや見解を求められたら、適当に答えるのではないかと思う。
騒がないまでも記事を楽しむ人が多いというのは、自分に不満がある人が多い可能性が高い。
自分にもっていないものをもっている人が、それを失う姿には、溜飲が下がる思いがするだろう。
総じて、子どもへの情報としては、無駄というより害悪ばかりである。
なくなればいいのにと思うが、多くのニーズがあるのだから仕方無い。
ホラー映画や暴力・殺戮系の映画と同じで、恐怖や暴力といった「負」にはかなりのニーズがある。
ユニセフの「子どもの権利条約」第17条、「適切な情報の入手について」の条文から引用する。
===================
(引用開始)
a 児童にとって社会面及び文化面において有益であり、
かつ、第29条の精神に沿う情報及び資料を大衆媒体(マス・メディア)が普及させるよう奨励する。
(中略)
d 第13条及び次条の規定に留意して、
児童の福祉に有害な情報及び資料から児童を保護するための適当な指針を発展させることを奨励する。
(引用終了 ただし記事の読みやすさを考え、一部を松尾が改行。)
===================
この条文に反して、現在の世界は明らかに子どもにとって有害な情報だらけである。
社会はキレイゴトだけではないのだから、「子どもを一切の悪から遠ざけろ」とはいわない。
ただ基本的に触れる情報を、子どもにとっての福祉で考えるべきである。
「世の中の大人は汚い奴らばかりだ」という考えを植え付けることが、子どもの福祉につながるとは思えない。
どうするか。
まずは、メディアの情報に無防備にさらさないことである。
インターネットが自由に閲覧できる環境は、子どもにとって害悪の方が多いことに対して、真剣な認識が必要である。
ここに対しすぐ「時代遅れな考え」ということを挙げる著名人も結構いる。
しかし、そういった著名人が、子どもの教育や学校教育に関する専門家とは限らない。
子どもには「発達段階」があるという認識が足りない可能性がある。
便利さと危うさは紙一重である。
便利だからと、子どもに無免許で車を運転させるようなものである。
ここは一定の保護下に置く必要がある。
ここに関しては、子どもが生きる社会の基本単位である、家庭や学級で気を付けていくしかない。
メディアの情報に無防備に浸かっていれば、皮肉屋になる。
変な風に大人びて、愛されない子どもになってしまうのは、社会の影響とはいえ、結局家庭と学校の教育の責任である。
こどもの日とは、
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
日である。
母への感謝は、あらゆる他者への感謝の基礎にもなる。
家庭をはじめとする社会の適切な環境づくりがあってこそ、子どもの幸福があることを忘れないようにしたい。
健やかな成長を願って、子どもの子ども時代には、良い情報に多くふれさせたい。
ところでテレビやSNSのニュースを見ると、トップから相変わらず悪いことの記事が溢れている。
凄惨な殺人事件とか、愛憎関係とか、正直、知る必要のない情報が多すぎる。
(メディアが世に登場して以来の普遍的で不変のことではある。)
特に、政治家や芸能人といった有名人へのバッシング量は半端ではない。
有名なのだから、(一方的に)知っている人も多いし、量的な面では当然ではある。
普段「いいね!」が多い分、ひっくり返って「最悪だね!」も多くつく。
ただ、他人をバッシングをして騒ぐ人は、大抵暇である。
自分のすべきことに集中していない。
他人を攻撃する人は、自身が幸せから遠い。
自分勝手な要望を伝えるだけの「悪質なクレーム電話」の大半は、働いていない高齢者からだそうである。
(逆に、高齢者が無理に働かないといけない世の中を良いとも思っていない。)
バリバリ夢中で働いている最中の人には、余計なことをしている暇はない。
またモラル・ライセンシング効果もあって、
「こんなに悪い奴をこてんぱんにやっつけてる自分」
=「自分は少し悪いことをしてもOK!」
という心の免罪符にもなり得る。
マザー・テレサやガンジーが騒ぐとは思えない。
人生の使命に従って生きている人には、毎日のやるべきことが多すぎる。
だから多分、こういうことには、静観しているはずである。
コメントや見解を求められたら、適当に答えるのではないかと思う。
騒がないまでも記事を楽しむ人が多いというのは、自分に不満がある人が多い可能性が高い。
自分にもっていないものをもっている人が、それを失う姿には、溜飲が下がる思いがするだろう。
総じて、子どもへの情報としては、無駄というより害悪ばかりである。
なくなればいいのにと思うが、多くのニーズがあるのだから仕方無い。
ホラー映画や暴力・殺戮系の映画と同じで、恐怖や暴力といった「負」にはかなりのニーズがある。
ユニセフの「子どもの権利条約」第17条、「適切な情報の入手について」の条文から引用する。
===================
(引用開始)
a 児童にとって社会面及び文化面において有益であり、
かつ、第29条の精神に沿う情報及び資料を大衆媒体(マス・メディア)が普及させるよう奨励する。
(中略)
d 第13条及び次条の規定に留意して、
児童の福祉に有害な情報及び資料から児童を保護するための適当な指針を発展させることを奨励する。
(引用終了 ただし記事の読みやすさを考え、一部を松尾が改行。)
===================
この条文に反して、現在の世界は明らかに子どもにとって有害な情報だらけである。
社会はキレイゴトだけではないのだから、「子どもを一切の悪から遠ざけろ」とはいわない。
ただ基本的に触れる情報を、子どもにとっての福祉で考えるべきである。
「世の中の大人は汚い奴らばかりだ」という考えを植え付けることが、子どもの福祉につながるとは思えない。
どうするか。
まずは、メディアの情報に無防備にさらさないことである。
インターネットが自由に閲覧できる環境は、子どもにとって害悪の方が多いことに対して、真剣な認識が必要である。
ここに対しすぐ「時代遅れな考え」ということを挙げる著名人も結構いる。
しかし、そういった著名人が、子どもの教育や学校教育に関する専門家とは限らない。
子どもには「発達段階」があるという認識が足りない可能性がある。
便利さと危うさは紙一重である。
便利だからと、子どもに無免許で車を運転させるようなものである。
ここは一定の保護下に置く必要がある。
ここに関しては、子どもが生きる社会の基本単位である、家庭や学級で気を付けていくしかない。
メディアの情報に無防備に浸かっていれば、皮肉屋になる。
変な風に大人びて、愛されない子どもになってしまうのは、社会の影響とはいえ、結局家庭と学校の教育の責任である。
こどもの日とは、
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
日である。
母への感謝は、あらゆる他者への感謝の基礎にもなる。
家庭をはじめとする社会の適切な環境づくりがあってこそ、子どもの幸福があることを忘れないようにしたい。
2018年6月6日水曜日
「連続バラバラ発言事件」を防ぐ
実際に一年生にした話。
一年生は、元気がいい。
当たり前である。
言ってもすぐ忘れる。
これも、当たり前である。
何なら、あんまり聞いていない。
これも、当たり前である。
そして、自己中心的である。
これも、当たり前である。
これらのことをトータルして自然にしておくと、何が起きるか。
「連続バラバラ発言事件」である。
話の途中で、どんどん個人的な質問が出る。
しかも、前に言ったものと同じ質問が4連発で来たりする。
(しむらけんのコントと同じである。)
何なら、突然「昨日の夕飯がね」のような話が出る。
「それは後で、休み時間に聞くね」
と笑顔でさらりと流しておく。
(ちなみにここから、真意は単に「先生に話を聞いて欲しい」だけだとわかる。
そこへの対応は、それはそれで大切なことではある。)
さて、多少ならコントで済むが、毎日この調子だと問題が生じる。
教師が疲れるという問題も勿論ある。
しかし、それ以上に、きちんとやろうとしている子どもが疲れてしまうという問題が大きい。
例えば、先生の話や友だちの発言・発表をきちんと聞きたいのに、一部の途中の勝手な発言に遮られて聞けない。
もし先生が途中で勝手にしゃべった人に対応したなら、それが終わるまで待たなければいけない。
それが何度も繰り返されれば、当然話に集中できなくなる。
黙って真面目に聞いてる方が損をするのである。
それなら、自分も話の途中に大声で「し・つ・も・ん・でぇーす!」と叫んだ方がお得であると学習してしまう。
「真面目にやる人に損をさせない」というのが基本方針である。
よって、ここを落とさないようにする。
どうしたか。
とりあえず、次のことを教えた。
一番いいのは、自分で考えてわかること。
これは、周りの友だちの様子を見て自分でわかることも含める。
二番目にいいのは、友だちに直接聞いてわかること。
教えてあげられる人は素晴らしいという話も添える。
これは、教える側、教わる側の双方にとって利益がある。
三番目が、先生に聞くこと。
一と二をやってもわからないことは、聞いてよい。
ここで初めて「質問」が登場する。
これは、勉強の仕方のステップと同じである。
本来は、教科書や参考書を見て、自分でわかるのが一番いい。
黒板に書かれたものや、周りの人のやり方を見てわかればそれもいい。
自力で調べてわかるようなら、それも大切な学力である。
次は、周りの友だちに聞くこと。
助けてもらってわかるようならいい。
しかし、その後は、自力でもう1回やる必要が出る。
最後の手段が、大人に聞くこと。
正解を聞いて満足しない。
やはり、自力でやるというステップが必須である。
結局、まずは自分でわかろうという姿勢が基本である。
学力の根本は、黙って聞く力である。
これらは、一年生でも社会人でも同じである。
質問は、黙って自力で考えてから。
思いつきの勝手な発言が溢れる教室を「元気がいい」なんてイメージ語で済まさない。
どんな相手であっても、指導の原理・原則は同じである。
一年生は、元気がいい。
当たり前である。
言ってもすぐ忘れる。
これも、当たり前である。
何なら、あんまり聞いていない。
これも、当たり前である。
そして、自己中心的である。
これも、当たり前である。
これらのことをトータルして自然にしておくと、何が起きるか。
「連続バラバラ発言事件」である。
話の途中で、どんどん個人的な質問が出る。
しかも、前に言ったものと同じ質問が4連発で来たりする。
(しむらけんのコントと同じである。)
何なら、突然「昨日の夕飯がね」のような話が出る。
「それは後で、休み時間に聞くね」
と笑顔でさらりと流しておく。
(ちなみにここから、真意は単に「先生に話を聞いて欲しい」だけだとわかる。
そこへの対応は、それはそれで大切なことではある。)
さて、多少ならコントで済むが、毎日この調子だと問題が生じる。
教師が疲れるという問題も勿論ある。
しかし、それ以上に、きちんとやろうとしている子どもが疲れてしまうという問題が大きい。
例えば、先生の話や友だちの発言・発表をきちんと聞きたいのに、一部の途中の勝手な発言に遮られて聞けない。
もし先生が途中で勝手にしゃべった人に対応したなら、それが終わるまで待たなければいけない。
それが何度も繰り返されれば、当然話に集中できなくなる。
黙って真面目に聞いてる方が損をするのである。
それなら、自分も話の途中に大声で「し・つ・も・ん・でぇーす!」と叫んだ方がお得であると学習してしまう。
「真面目にやる人に損をさせない」というのが基本方針である。
よって、ここを落とさないようにする。
どうしたか。
とりあえず、次のことを教えた。
一番いいのは、自分で考えてわかること。
これは、周りの友だちの様子を見て自分でわかることも含める。
二番目にいいのは、友だちに直接聞いてわかること。
教えてあげられる人は素晴らしいという話も添える。
これは、教える側、教わる側の双方にとって利益がある。
三番目が、先生に聞くこと。
一と二をやってもわからないことは、聞いてよい。
ここで初めて「質問」が登場する。
これは、勉強の仕方のステップと同じである。
本来は、教科書や参考書を見て、自分でわかるのが一番いい。
黒板に書かれたものや、周りの人のやり方を見てわかればそれもいい。
自力で調べてわかるようなら、それも大切な学力である。
次は、周りの友だちに聞くこと。
助けてもらってわかるようならいい。
しかし、その後は、自力でもう1回やる必要が出る。
最後の手段が、大人に聞くこと。
正解を聞いて満足しない。
やはり、自力でやるというステップが必須である。
結局、まずは自分でわかろうという姿勢が基本である。
学力の根本は、黙って聞く力である。
これらは、一年生でも社会人でも同じである。
質問は、黙って自力で考えてから。
思いつきの勝手な発言が溢れる教室を「元気がいい」なんてイメージ語で済まさない。
どんな相手であっても、指導の原理・原則は同じである。
2018年6月4日月曜日
小事は大事。掃除は大事。
先日「かわいい子には小さなけがもさせよ」という記事を書いた。
参考記事:「その小学一年生はなぜジャングルジムの1段目も登れなかったのか」
http://www.mag2.com/p/news/357391
それに対し読者の方から
「小難は大難を避ける」
という言葉を教えていただいた。
なるほど、これは万事に言えることである。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉にもつながる。
小さな困難を避けようとする姿勢が、より大きな困難を招く。
「これぐらい」「こんなもんで」という仕事の姿勢は、長い時間をかけて、やがて悪い結果を招く。
困難を歓迎して立ち向かう姿勢が、大きな困難を避ける、あるいは克服する力を養う。
小さな仕事を納得するまで「やりきる」という仕事の姿勢が、成功を招く。
例えば「クレームに感謝する」ということを書いたことがあるが、これも同様。
「クレーム」は単なる批判や文句、無茶な要求とは違う。
正当な訴えである。
商品に問題があったら、クレームという形で販売元に伝える。
そうすると、回収するコストを支払うが、その分、大きな事故を防げる。
きちんと経緯を説明すれば、逆に信用を高めるきっかけにもなる。
結論、「小事が大事」なのである。
そこへ今回は「掃除が大事」という話をしたい。
掃除のような小さいことが、最終的に身を助ける。
「なぜ?」と問われれば、説明はできる。
しかし、実感はできない。
実感は、行動にしかついてこない。
学級づくりで悩む先生のもとへ話に行く。
みんな、いきいきとした学級や、落ち着いた学級のつくり方には興味がある。
有名な〇〇先生のような学級をつくることを夢見ている。
しかし、自分のデスクの掃除をするのは、面倒なのである。
ゴミ捨てに行くのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。
トイレ掃除を自分が真剣にやるのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。
しかしこれは、大いに関係があることである。
掃除は大抵「面倒」である。
後回しにしても大丈夫なことである。
だからこそ、価値がある。
繰り返すが、ここへの「何で?」には答えられない。
運動と同じで、やって実感する以外ないからである。
やった人には、感覚的にわかることである。
小事は大事。
掃除は大事。
語呂もよいので、紹介してみた。
参考記事:「その小学一年生はなぜジャングルジムの1段目も登れなかったのか」
http://www.mag2.com/p/news/357391
それに対し読者の方から
「小難は大難を避ける」
という言葉を教えていただいた。
なるほど、これは万事に言えることである。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉にもつながる。
小さな困難を避けようとする姿勢が、より大きな困難を招く。
「これぐらい」「こんなもんで」という仕事の姿勢は、長い時間をかけて、やがて悪い結果を招く。
困難を歓迎して立ち向かう姿勢が、大きな困難を避ける、あるいは克服する力を養う。
小さな仕事を納得するまで「やりきる」という仕事の姿勢が、成功を招く。
例えば「クレームに感謝する」ということを書いたことがあるが、これも同様。
「クレーム」は単なる批判や文句、無茶な要求とは違う。
正当な訴えである。
商品に問題があったら、クレームという形で販売元に伝える。
そうすると、回収するコストを支払うが、その分、大きな事故を防げる。
きちんと経緯を説明すれば、逆に信用を高めるきっかけにもなる。
結論、「小事が大事」なのである。
そこへ今回は「掃除が大事」という話をしたい。
掃除のような小さいことが、最終的に身を助ける。
「なぜ?」と問われれば、説明はできる。
しかし、実感はできない。
実感は、行動にしかついてこない。
学級づくりで悩む先生のもとへ話に行く。
みんな、いきいきとした学級や、落ち着いた学級のつくり方には興味がある。
有名な〇〇先生のような学級をつくることを夢見ている。
しかし、自分のデスクの掃除をするのは、面倒なのである。
ゴミ捨てに行くのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。
トイレ掃除を自分が真剣にやるのは、学級づくりと関係ないと思っている人もいる。
しかしこれは、大いに関係があることである。
掃除は大抵「面倒」である。
後回しにしても大丈夫なことである。
だからこそ、価値がある。
繰り返すが、ここへの「何で?」には答えられない。
運動と同じで、やって実感する以外ないからである。
やった人には、感覚的にわかることである。
小事は大事。
掃除は大事。
語呂もよいので、紹介してみた。
2018年6月2日土曜日
掃除は感謝教育
3連続だが、「まぐまぐニュース」記載の原文。
http://www.mag2.com/p/news/359061掃除の教育的価値の続き。
掃除の場所で、最も避けられるのはどこか。
いわずもがな、トイレである。
ここは、一番汚れる。
他とは違う汚れ方である。
汚いものにわざわざ触りたくないし、関わりたくない。
だから、最も避けられる。
ところで、トイレが汚れるのはなぜか。
自分自身の抱える汚いものを、そこに受け止めてもらうからである。
つまり、自分が汚しているのに、それを汚いと罵る。
「きれいなもの好き」の人間は、自分が使うトイレが汚いのは許せない。
私は「俺様」「御姫様」「御子様」「御客様」だからである。
こういう姿勢を「傲慢」と呼ぶ。
自分を他人より高い位置に置く考え方である。
自分が汚して他人様がきれいにしてくれていることへの感謝の念がない。
いわゆる「金を払っているのだから、最高のサービスを受けるのは当然」という態度である。
「排泄」は、「食」の一環である。
食べた後の食器の始末が汚い場合、トイレの使い方も汚い可能性が高い。
一事が万事だからである。
「後始末」という面で共通だからである。
食べた後に片付けてくださる方への思いやりとか配慮がない。
(だから、様々なことへ平気で文句も言える。)
転じて、自分の使ったトイレを掃除してくれる人のことも考えられない。
だから、学校では直接指導できる「食」からアプローチする。
残し方も指導する。
残してしまう場合でも、まとめれば、片付けやすい。
(米は特にそうである。)
残しものでも食べた後の食器でも、自分から出る汚いものはすべて受け止めて流してもらいたいのである。
本来は、自分できれいにすべきことである。
自分のやったことは、後始末までつけるのが当然である。
しかし、それを誰かや何かにやっていただくのだから、そこへの感謝の念はあって然るべき。
日本の古来からの考え方は、万物に神が宿るというものである。
当然、「便所の神様」というのもある。
万物に感謝する文化である。
要は、掃除も、感謝教育の一環である。
掃除の教育的価値は、世界的にも見直されている。
日本のもつ掃除の教育の価値を再考してみる時期である。
http://www.mag2.com/p/news/359061掃除の教育的価値の続き。
掃除の場所で、最も避けられるのはどこか。
いわずもがな、トイレである。
ここは、一番汚れる。
他とは違う汚れ方である。
汚いものにわざわざ触りたくないし、関わりたくない。
だから、最も避けられる。
ところで、トイレが汚れるのはなぜか。
自分自身の抱える汚いものを、そこに受け止めてもらうからである。
つまり、自分が汚しているのに、それを汚いと罵る。
「きれいなもの好き」の人間は、自分が使うトイレが汚いのは許せない。
私は「俺様」「御姫様」「御子様」「御客様」だからである。
こういう姿勢を「傲慢」と呼ぶ。
自分を他人より高い位置に置く考え方である。
自分が汚して他人様がきれいにしてくれていることへの感謝の念がない。
いわゆる「金を払っているのだから、最高のサービスを受けるのは当然」という態度である。
「排泄」は、「食」の一環である。
食べた後の食器の始末が汚い場合、トイレの使い方も汚い可能性が高い。
一事が万事だからである。
「後始末」という面で共通だからである。
食べた後に片付けてくださる方への思いやりとか配慮がない。
(だから、様々なことへ平気で文句も言える。)
転じて、自分の使ったトイレを掃除してくれる人のことも考えられない。
だから、学校では直接指導できる「食」からアプローチする。
残し方も指導する。
残してしまう場合でも、まとめれば、片付けやすい。
(米は特にそうである。)
残しものでも食べた後の食器でも、自分から出る汚いものはすべて受け止めて流してもらいたいのである。
本来は、自分できれいにすべきことである。
自分のやったことは、後始末までつけるのが当然である。
しかし、それを誰かや何かにやっていただくのだから、そこへの感謝の念はあって然るべき。
日本の古来からの考え方は、万物に神が宿るというものである。
当然、「便所の神様」というのもある。
万物に感謝する文化である。
要は、掃除も、感謝教育の一環である。
掃除の教育的価値は、世界的にも見直されている。
日本のもつ掃除の教育の価値を再考してみる時期である。
登録:
投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...