2017年3月12日日曜日

お腹がいっぱいでも夕飯の献立を考える

外食して、ランチをお腹いっぱい食べる。
その後は帰って昼寝、といきたいところだが、台所を守っている者は違う。
お腹いっぱいの状態で、家族の夕飯の献立を考えて、買い物に行くのである。
その際に聞かれる
「今日の夕飯何がいい?」
という母親(または妻)の質問に辟易した世界中の子どもや旦那の数は、はかり知れない。

何が違うかというと、責任感である。
台所を守る者は、単に食べたら終わりの「消費者」と違い、「生産者」としての責任と見通しがある。
面倒でもここでやっとかないと、後々困ると知っている。
頭が下がる思いだが、当の「消費者」本人たちはお腹いっぱいなので、正直「今は面倒」としか思えないのが本音である。
「消費者」にとって、自分事になっているのは、「お腹が空いた時」だけなのである。

この心理の原理、復興支援に対しても似た部分がある。
震災当時、多くの人が関心をもった。
特に6年前、東北や関東近辺の人間にとって、震災は「明日は我が身」の緊急事態の自分事であった。
だから、復興支援にも協力したし、自分の身の回りを次なる震災に備えて整えたりもした。
九州は遠いから安全と思っていた矢先に、今度は熊本だった。
我々は、日本に住んでいる以上、常に同じ問題を共有し続けているといえる。
過ぎ去っても、いつかまた必ずどこかにやって来る。
歴史がそれを証明している。

しかし、喉元すぎれば何とやらで、マスコミやメディアも、時が経つと大きくは取り上げなくなる。
そうすると自然、「復興が進んだ」「もう大丈夫」と錯覚する。
支援が減る。
事実、震災へのボランティアの人数も支援金額も、年々下がってきている。
震災への自身の備えも甘くなる。
要は、お腹が満たされているから、先々必ず起こるであろう問題のことを考えなくなる。

福島原発をはじめとする震災の問題が数多く残っている以上、東京オリンピックだって安泰とはいえない。
世界に誇る日本にしていくためには、ここを無視できない。

私が大好きな、東北出身の児童文学作家、宮沢賢治の言葉。

「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」

私は、この言葉の「世界」とは自分の知覚(近く)の世界を指すと解釈している。
つまり、家族や学級のような小・中集団から、地域、日本、世界という大きな単位まで、知ることのできる社会的な集団すべてを指す。
少なくとも、目の前の人と言い争っている内は、世界中の戦争もなくならないし、平和も幸せもないと思っている。
被災地は、自分の属す日本という国の一部である。
体のどこか一部がひどく痛むのだから、そこを無視しては本当に健康とはいえない。

一人の人間にできることはごく限られている。
そのごく限られたことをそれぞれが果たしていくことしかできないが、それが集まることでとてつもなく大きな力になる。
長期的な視点をもって、今必要な行動をしていきたい。

被災地に寄せる思いが共有できたら幸いである。
3月26日(日)の「被災地に学ぶ会」
ご興味のある方は、本ブログへのコメント欄への書き込みか、メルマガ上の私のメールアドレスまで。
(今回に限り、コメント欄は、私が確認して返信後に削除いたします。)

2017年3月11日土曜日

被災地の復興は終わらない

東日本大震災から6年が経った。
復興が進んでいるようで、被災地の中には「手つかず」の状態で放置されている地域もたくさんある。
先日紹介した女川中学校の生徒の書いた作文を読めば一目瞭然だが、心のケア等含め、復興はまだまだというところである。

さて、私の尊敬する先生が主催している次の会がある。

 第27回被災地に学ぶ会in南相馬
 3月26日(日) 4:00集合 20:00終了
 集合・解散は草加市社会福祉協議会駐車場
 参加費5000円(学生は無料)

会の名称に注目していただきたい。
「被災地に学ぶ会」
である。
被災地に行けば、学ぶことは数知れない。
「助けに行く」というより「助けさせてもらう」という方がより正確である。

被災地に行くと、他人事が、自分事に近付く。
同じ日本人としての意識もはたらく。
日本の問題を、自分事として捉える機会にもなる。

そしてボランティア活動の理念は
「できる人が、できる時に、できることをする。」である。
今回、たまたまだが、前日に小学館での発表がある。
神保町と草加駅が割と近い。
チャンスである。
私はそのまま宿泊して参加させていただく予定である。

この会では、当たり前だが教育のハウツーは手に入らない。
しかし、参加すれば確実に得るものがある。

興味のある方は、ご連絡いただきたい。

復興したと思うのは、都心部や遠く離れた場所にいるからである。
被災地の復興は終わらない。
同志の参加をお待ち申し上げる。

2017年3月9日木曜日

鬼を救う寺

今回も節分の話。

奈良県のあるお寺では、「福は内、鬼は内」と唱えるという。
全国で追い払われた鬼たちを仏門に帰依(神仏を信仰させること)させるためだという。

なるほど、追い払われた鬼にも行き場が必要である。
全国の「鬼」に、救いの手をさしのべる。
苦しんでいるものほど、救いの手が必要である。

そう考えると、子どもの中の「鬼」にこそ、救いが必要である。
学校は、「鬼」を追い払う場ではなく、救う場である。
怠け心も卑しい心も何もないのならば、救う必要はなく、来る必要もない。
そういう「鬼」が心の中にあるからこそ、学校は集まって学ぶ意義がある。
学校に来る子どもがみんな勤勉で誠実で完璧な善人ならば、教師に教えられることは一つもない。

むしろ逆で、人間の中には「鬼」がいることを認める。
教えている教師の方にもいることを認めて、伝える。
「私はいつも真面目で道徳的で、完璧な生活をしています。」という人がいたら、気持ち悪い。
親だって教師だって、そんな立派な人間な訳がない。
煩悩だらけである。
そういう人間が集まって、多少なりとも良くなっていこうという場なのである。

だから、悪いことがあってもいい。
良くなろうとすること自体が大切である。
「鬼」は大人になっても一生ついて回るものだから、一生勉強である。
「鬼」に支配されてはいけない。
付き合い方が大切である。
子どもに教えるとともに、自分自身の「鬼」との付き合い方を考えたい。

2017年3月7日火曜日

鬼と悪と正義

節分の時の記事。

節分は、今では、春分を指すようになってきたが、本来は年に4回ある。
立春、立夏、立秋、立冬の前日はすべて節分である。

蘊蓄はこれぐらいにして、節分といえば豆まき。
豆まきといえば鬼。
学級では、鬼の出てくる話や絵本を読むのが通例である。

鬼の話。
みなさんは、何が好きだろうか。

私は『おにたのぼうし』が一押しで大好きである。
あまんきみこさんの文体と、いわさきちひろさんの挿絵の絶妙な取り合わせ。
「おにだって、いろいろあるのに。おにだって……」の名言。
おにたの姿に、ぐっとくる。
素晴らしい作品であるからこそ、国語の教科書にも広く採用されている。
しかし、教科書に載ると、かなしいかな、「教材」として見られてしまい、子どもの「好きなお話」ではなくなってしまうことが往々してある。
ぜひ、ああいう作品は「いじりすぎ」ないで授業をしていただきたい。
私は常々「いい素材はそのまま食べる」ことを推奨している。
(大トロは、刺身が一番。炙るまで。煮たりこねたりしたら、台無しである。)

こういう例外的なお話以外、「鬼」というのは、原則「悪役」である。
そこに光を当てた作品が個人的には好きである。
「桃太郎」のように、勧善懲悪の構図はわかりやすい。
わかりやすいものは、大衆の心を掴む。

ただ、世の中は実はそんなに単純ではなく、善か悪かは、実際は時の為政者が決めることである。
やられた鬼の側は、悪者にされたら黙っているしかない。
歴史は、正義は、時の権力者が決める。
悪にも悪の側なりの、正義があるのだが、歴史に抹殺される。
勝った方が正義という論理でいくと、最後は戦争である。

鬼から話が逸れた。
節分は、正義や悪とは何かを考えるのにもいい機会である。

2017年3月5日日曜日

「シャイ」に逃げない

前号「24時間道徳」で、まぐまぐニュースで取り上げられた記事について書いた。
他の方の書いたもので、なるほどと思ったものがあったのでシェアする。

『「優しさは世界一」の日本人が、電車で老人たちに席を譲らない理由』高橋克明
http://www.mag2.com/p/news/134840

この記事を読むと「日本人はシャイ」とある。
そう。
シャイ。
ちょっと好意的なニュアンスを含む言葉である。
辞書を引いてみる。

『広辞苑』によると
「内気。はにかみ屋。」
『明鏡国語辞典』によると
「内気なさま。恥ずかしがりであるさま。」

例えばきちんと返事ができないあの子も「シャイ」なのである。
「ありがとう」が言えないあの子も「シャイ」なだけである。
素直に謝れないあの子も「シャイ」なだけである。
そしてそれができない時がある私も「シャイ」なだけである。

ただ、しかし。
「シャイ」な人が自分自身を理解をしてもらうのは、時間がかかる。
そして、「シャイ」な人はすぐに行動に移さないため、必要な時に必要な行動をとれない。
そして、必要な時は「瞬間」にやってくる。
たまたま出会った初対面の人にはその「1回きり」で、相手の評価がくだる。
1回しかチャンスがなければ、その時の評価は「シャイ」では済まない。
ビジネス関係なら、二度と会ってもらえない。
1回の評価で「さようなら。」である。

「シャイ」という言葉に逃げない。
自分自身ができるようになってから、初めて子どもにも教えられることである。

2017年3月3日金曜日

24時間道徳

「まぐまぐニュース」に掲載された次の記事から。
『目の前の急病人を助けない大人が、子供に道徳を教えられるのか』
http://www.mag2.com/p/news/232955

元々はタイトルにあるような立派なことを言おうとした訳ではない。
(ちなみに、メルマガでの原題は「ホームで人が倒れていたら」である。)
どちらかというと、人助けできると、自尊感情が高まるということが言いたかったのである。
人助けは「させてもらう」ことだということが主張だったのだが、書いている内に道徳の話になってしまっていた、というのが真実である。
(そして、ネット上に出回ると、色々な人の意見が入って、記事が一人歩きしはじめる。さよなら、私の記事。)

道徳の実行力。
それには、「基礎体力」が必要である。
普段から良いと思うこと、簡単なことをさっとできることである。
大きいことをするのではなく、本当に小さいことである。

教室や廊下にごみが落ちていたら拾って捨てること。
物が乱れていたら整えること。
一人ぼっちのクラスの仲間に声をかけること。
どれも、教室でつけられる力である。

道徳の授業は大切。
一つのテーマについて真剣に考えていくことは価値がある。
しかし、実際は「24時間道徳」である。

24時間道徳的な人間でいろという訳ではない。
そんなことは不可能である。
そうではなく、1日24時間が道徳学習の機会という意味である。

道徳は、生き方そのものである。
教科化が注目されるが、もっと根本の生活の方にこそ着目する必要がある。

2017年3月1日水曜日

当たり前に気付く

最近、富士山がきれいによく見える。(ちなみに、1月発行の記事である。)
空気が乾燥していて、雲が少ないためである。
朝焼けもきれいである。

よく、「自然の美しさに気付くのが大切」と言われる。
朝焼けだったり夕焼けだったり空だったり月だったり、そういうものである。
関東の子供だと雪が降るだけで大喜びするが、東北や北海道の子供には日常風景だろうと思う。
(それでも喜ぶのか、雪かきが面倒だと思うかは、わからない。)
当たり前になると感動しにくくなる。
要は、自然への感動の話も、身の回りにある当たり前の良さに気付くのが大切ということと解釈した。

今はインフルエンザが流行り始めているので、健康であることの有り難さを見直せる。
高熱が出る度に思い出すのだが、感謝も感動も先取りした方がよい。
子供が普通に登校してくるのにも感謝できる。

先日は、市内の球技大会の会場校として運営に携わったが、職員が当たり前のようにサポートしてくれていた。
役割を振れてない以上、私がやらねばならないのだが、いっぱいいっぱいである。
役割でない人が陰でやってくれる。

自分の置かれている環境の当たり前に、改めて感謝したい。
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