2015年1月15日木曜日

1月17日(土)授業道場野口塾IN木更津

授業道場野口塾IN木更津が開催されます。

今回も、楽しくたくさん学べる会になりそうです。

現場の授業 ここが気になる

卒業式の作法

「観」を磨く教師人生の楽しみ方

などなど、他の学習会では学べない内容が盛りだくさんです。

〆切間近です。
ぜひこの機会に木更津にお越しください。

2015年1月13日火曜日

学年に応じたルール指導

ルールについての考え方を一つ。

校内のルールの徹底は大切。
しかしそれに対しても、基本的な考え方がある。
それは「学校のルールが守られない」という現象を、学年差なしの一律で捉えないことである。

低学年は「そもそもルール自体を分かっていない」という状態が多い。
だから、きちんと教え諭すことが大切になる。

中学年は「ルールは分かっているが、気がつくと破っている」という状態。
だから、気付かせる指導、自制心を持たせる指導が大切になる。

高学年は「ルールはよくわかっているけど破る」という状態。
意図的であり、あえて破った理由や、変な話「ねらい」がある。
言い方は悪いが「確信犯」であることが多い。
ルールを守るべき直接的な理由は重々分かっているので、それ以外の多角的な視点での指導が大切になる。

例えば「廊下を走る」という現象に対し、それぞれの一般傾向は次のようであると感じる。
低学年(特に一年生)は「走りたいから走った」「走っちゃダメだったの?」→一度きちんと教える必要あり
二年生から中学年は「ふざけっこしていたらつい走っていた」→自制心を持つ訓練(繰り返し)が必要
高学年は「きっと誰にもぶつからないし、先生も見ていないから大丈夫だと思って走った」→内面が変わる指導が必要

あくまで全体傾向ではあるが、私見としては大体そういう感じである。

一律に「ルールは守りなさい」ではなく、学年や個人の理解度に合わせた指導が大切である。
また、大人が小さなルールを少しずつ破っている状態なら、特に高学年への指導は無駄だと思ってよい。
大人の前で表面的に良くなったように見えても、内面は変わっていない。
これは学校・家庭・地域社会のあらゆる大人に対して当てはまる。
子どもたちは年齢に関わらず、意外と小さなことまでよく見ている。
何も言わないが「大人だって」と思われている可能性が高い。

話が二つに割れた。
まとめとしては、ルールの指導は
「理解度に合わせた指導」と「率先垂範・鏡の法則」である。

2015年1月11日日曜日

自分に合う

心学者「円 純庵」という方の「心学」のフェイスブックの記事に、
前号までの「自分の文脈に落とし込む」に近い話があった。
ご本人の許可を得たので、以下引用する。
============================
自分に合う
自分にあった形や量でなければ役に立たない。
靴や洋服の色や形が綺麗で気に入っても、
自分のサイズに合わなければ履いたり着たりすることは出来ない。
小さい靴は履けない、大きい靴は歩き難い。
小さい服は着られない、大きい服は似合わない。
自分のその時々に合ったものが必要。
何事も自分に合った質量がある。
それを判断するのは自分自身の心。
希望や欲望は分かるが、自分自身それを使い熟すならば、
自分に合ったものを見つけなければならない。
============================
「自分のその時々に合ったものが必要。」という一文が、すとんと腑に落ちた。

色々なことを学ぶと、それを全て使いたくなる。
また、上手くいくと、次の年にも使いたくなる。

ただ、これは、気を付けないといけない。
誰かがうまくいったからといって、自分もうまくいくとは限らない。
また、以前うまくいったからといって、次もうまくいくとは限らない。
しつこいようだが、相手が違う。
そして、自分自身も変わっている。

これは、以前あっていたサイズの服が、小さくなってしまう例に当てはまる。
逆に、名人の授業をそのまま真似ても全然うまくいかないのは、サイズが大きすぎる場合の例である。

また、T.P.O.も大切である。
今の自分にぴったりの革靴でも、登山では全く使えない。
単学級の学校から、大規模校に異動すると、何かとうまくいかないのもこれである。
(逆もある。常識がまるで違う。)
時と場が変われば、常識が変わり、適切な方法も変わる。

「自分に合う」+「環境に合う」の両方への配慮が大切である。

2015年1月8日木曜日

1言って1伝わるか

指導の伝わり方について。

指導や説得は「受け手9割」のところがあり、相手との普段の関係にかなりの部分がかかっている。
これは、内容の良否に関わらない。
一般的な社会においての「上司のいうことを部下が聞くか」ということの問題と同じである。
「自分のためを思って言ってくれている」と、伝わるかどうかは、受け手との人間関係次第。
こちらがどんなに愛情を持っていようが、相手の「心のコップ」がひっくり返っていては、逆効果である。

この辺りの見極めが難しい。
関係には色々あって、
A 1言って1伝わる相手
B 1言って10伝わる相手
C 10言って1伝わる相手
がいる。
ABCの3種類ではなく、幅がある。
Aが「素直にそのまま受け止めてくれる」タイプ 
Bが「効き過ぎる」タイプ 
Cが「伝わりにくい」タイプ 
である。

しかも厄介なことに、相手との関係によっては、このパターンをマイナスにして受ける人もいる。
つまりAの逆で「1言ってマイナス1伝わる相手」もいる。
言えば言うほど、マイナス。

万が一この関係になっている可能性がありそうな子どもに対する時は、怒るアプローチは、厳禁である。
やればやるほど、ものすごいマイナスを被る。
「心のコップを上向きにする」という作業に、普段から余念なく地道に取り組むしかない。
(だから「学級崩壊」の状態で担任に生徒指導を頑張らせるのは、かなり酷なことである。
生徒指導担当や教務など、なるべく関係性の深い他の人間が代わりに入って行う必要がある。)

つまり、指導は相手との関係性に全てかかっているということである。
だからこそ「学級経営、これで絶対うまくいく!」という必勝法は、無いと断言できる。
できることは「様々な見方、考え方、手法を知り、人間性を広げ、選択肢を増やす」ということだけである。
だから教える立場にある人間は、常に自省しながら学び続け自己変革をし続ける必要があり、そこには一生終わりがない。
「もうこれで大丈夫」と思った時が、一番危険な状態である。

私も、人間関係で失敗している時がある。
後で振り返って、申し訳なかったと後悔することもたくさんある。
だからこそ、謙虚さを忘れずに、自省して学び続けたい。
自信が過ぎて驕った時は、転落の予兆である。

2015年1月5日月曜日

自分の特性を生かす

前号の続き。
自分の文脈に落とし込むことに関連して。

「どんなに叱っても全然言うことをきいてくれない」ということで悩む人がいる。
「びしっとさせたいから、一生懸命やっているのに」とご本人。

この手の悩みを抱える方に相談された時は、
「ニコニコして、困ったふりをしてお願いするとかどうですか?」
と答えるようにしている。

なぜかというと、大抵この手の相談をされる先生は、どう見ても、迫力がないというタイプが多い。
代わりに、すごく温かい雰囲気を持っていたりする。
子どもがべったり寄ってきて、くっついていく感じである。

逆に考えるとわかる。

元々がカチッとした雰囲気の人や、迫力がある人がいる。
この人は、割とびしっとさせるのは得意である。
この人に、「もっと子どもが近づきやすい雰囲気になりたい」
と相談されたらどうアドバイスをしてあげるか。
多分周りの人は「いや、別にそのままでいいのでは?」と返すと思う。
願望そのものに無理を感じるし、この特性にも需要がある。
そんなことより、せっかくの特性を生かし、いざという時に学校や学年全体に大切なルールを指導する役割を担ってもらいたい。

冒頭にあるような先生の相談は、これに近い。
びしっとさせたいというアプローチそのものが、根本的に向いてないかもしれない。
代わりに、子どもから相談を受けたりするのは大得意だったりする。
そもそもの持っている特性が、近づきやすい雰囲気なのである。
学級経営や子育てにおいて、必ずしもびしっとさせる必要はない。
それに、一見ふわふわしているようで、内実はよくまとまった学級というのもたくさんある。

叱り方や褒め方についてのマニュアルが世にあふれている。
これにしても、あくまで「基本形」であって、自分の文脈に落とし込まないと使えない。
指導者側の持つ特性と相手の特性によって、「効果抜群」のアプローチが異なる。
だから同学年を組むならば、色々なタイプの人がいる方が有利である。

自分の特性を生かし、無理な方法を選択しない。
道は常に一つではないというように考えると、自然体になれる人がいるかもしれない。

2015年1月3日土曜日

マニュアルを自分の文脈に落とし込む

タイトルは、上越教育大学の赤坂真二先生の言葉。
赤坂先生は著書に「クラス会議」のマニュアル本がある。
http://www.amazon.co.jp/dp/493887492X
しかし、マニュアル通りにやっても、それだけではうまくいかない。
それは、教える側も教わる側も全く違う人間であり、環境も違うからである。

マニュアルはたたき台であり、基本である。
たとえばサッカーなら、シュートの際の基本型がある。
同じ場所にボールを転がして、走り込んで蹴り込む。
立ち足の位置、蹴り足の部位まで大体決まっている。
ただ、これにしても、蹴りやすい体勢には個人差がかなりある。

また、実際の試合は、そんなきれいな形では蹴れない。
相手の邪魔(ディフェンス)が入る。
倒れながら蹴ることだってある。
だから、実際は、基本型から大きく外れた形でシュートすることになる。
ただ、基本の型でのシュートができないで、倒れながらのシュートはできない。

クラス会議等、様々ある手法も同様で、基本型、理想型を知る必要はある。
しかしながら、それを崩して使う幅がないと、必ずといっていいほど失敗する。
「豆腐のような柔らかさ」のような、堅さ(原実践への忠実さ)に加えた柔軟性、可塑性が必要である。

例えば、クラス会議の手法では、最初に仲間同士で感謝や褒め言葉などを伝え合う。
しかし、学級の実態によっては、ここに時間がかかり過ぎる場合もある。
また、それすら必要のないほど、最初から仲間同士の関係が温まっている学級もある。
そういう場合に、この活動をいれるかどうかは、教える側の判断に委ねられる。
つまり、自分の文脈に落とし込んで使う。

追試実践においては、必ず「自分の文脈に落とし込む」。
ただし、原実践で「なぜそうするのか」を知った上で行うことが大切であるように思う。

2015年1月1日木曜日

維新

2015年。
今年も社会にとって、教育にとって、大きな変化が来る。
日本のグローバル化と高齢化は加速し続ける。
経済問題も絡む(というよりも中心にある)以上、避けようがない。

さて、新年早々真面目な話題で申し訳ないが、次の記事がある。
『「グローバル化時代」の日本の教育』
https://edupedia.jp/special/teidan2014
「陰山英男×小林りん×直山木綿子」という、豪華鼎談(ていだん)である。

詳しい内容が気になる方はページの方を見てもらうとして、この中で
・英語は「通じるか、通じないか」でしかない
・(教育のグローバル化は)流行ではなく、一種の地殻変動
といったことが論じられている。

この中で述べられていることに、概ね賛成である。
単に「小学校で英語をやればいい」というものではなく、通じる英語を身に付けさせる。
また、グローバル化は流行ではなく、好むと好まざるとに関わらず、避けようのない事態であると思う。

完全に個人的見解だが、私はずっとこの「グローバル化」の流れが、歴史の繰り返しであると感じてきていた。
古くは弥生時代に大陸から米作りが「輸入」された頃から始まる。
その中でも最も今に近い状態が「鎖国」からの「明治維新」の時期であると思っている。

江戸時代、日本は鎖国の状態で国内の平和を維持してきた。
しかし黒船来航により、諸外国との力の差を見せつけられ、開国せざるを得ない状況になった。
放っておけば外国に侵略されることを恐れた藩士は、それぞれ手を打った。
日本という国を守るため、諸外国から学び、諸外国に対抗できる力をつけることを選んだ。
黒船に単身乗り込んだ吉田松陰など、その最たる姿であると思う。
亡国を憂うからこそ、諸外国に積極的に学び、日本を復興させる明治維新の志士達を育てた。

大げさに聞こえるかもしれないが、教師という立場は、「志士」を育てる仕事でもあると思う。
「松下村塾」が日本全国あちこちにあればいい。
私たちの教える子どもたちが、これからの日本を決めていく。
だから、教師の仕事は「志事」であると思っている。
単に授業をして生活指導をすればいいというものではない。
どういう技能を身に付けさせ、どんな観を育てるか。
私たちが育ってきた環境とは全く違う世界が、子どもたちの未来に広がっている。
その中でのグローバル化教育の必要は、どうしても出る。

繰り返しになるが、外国語は通じることが大切であり、コミュニケーションの「手段」である。
諸外国を尊重するということは、同時に日本という国に誇りを持つことが必須である。
「隣の芝生が青く見える」というようでは、本末転倒である。
これからのグローバル教育の動向を、自分の目でしっかりと見つめていきたい。

維新とは、広辞苑によると「物事が改まって新しくなること」。
そう考えると、毎日毎時が維新である。
元旦の今日、志を新たにし、2015年を出発したい。
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