学習意欲の重要性と誤解について。
私自身、「どうすればやる気が出るか」についてはとても関心が高い。
実際、初の著書のタイトル通りである。
(参考:『やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1 )
教育心理学では「学習動機付け」という言葉もある。
やる気、意欲は、学校教育に限らず、学習と切り離せない関係である。
実際、学習指導要領の変遷においても、この学習意欲の地位は向上し続けてきている。
いかに子どもの学習意欲を高めるか、が関心事の中心になってきた。
実際、現場で指導していると、他人にやる気を出させるほど難しいことはない。
確かに、知識・技能面はある程度まで詰め込める。
本人の意思とは無関係に、やらざるを得ない環境に放り込めば、やる。
これはやる気を出しているのではなく、逆に諦めている状態である。
当然意欲面は低くなる一方である。
しかし、思考力・判断力となると、これは学習意欲を無視しては育たない。
なぜならば、これらは「なぜ」「何のために」「どのように」を考える部分である。
無思考に従って勉強させられている状態になるには、これらを捨て去る必要があるからである。
真に意欲的に学習している状態では「何のために」が内側からエネルギーを無限に供給し続けてくれる。
真に学習意欲が高い状態は、静かであり、落ち着いている。
当たり前のように淡々とこなす状態である。
もう誰のためでもなく自分のためにやるのだと決めており、動機付けをする必要もなく、勝手にどんどんやる。
動機付け、という言葉も誤解を生むのかもしれない。
やる気は、粘土の作品と同じで、外付けしてもすぐ落ちる。
内側から捻りだすものである。
しかも、本人が自分自身の手で捻りだすものである。
そう考えると、親や教師は子どもに何ができるのか。
一つは、見守ることである。
不安で声をかけたくなるが、やるとなれば本人が決めてやると、信じることである。
一方で、強制しないことである。
強い権限で、やらせることができてしまう。
そのやり方で付けたものは、必ず剥落する。
従順な子どもは、見た目は意欲があるように見せるので、余計に誤解しやすい。
強制しないということは、何もしないということではない。
提案してみる、試してみるよう促す。
何のためにできたものなのか、どんな役に立つことなのかを示してみることはする。
それでもやらないものは、しょうがない。
それは、残念ながら本人の心の琴線に触れないのである。
そもそも全員が同じものに関心を示しているようでは、世界は成り立たない。
諦めも肝心である。
全員万能論が前提にあると、諦めることができない。
何度も書いている「やればできる」の誤解である。
それ以上に、本人がそれをできるようになりたいと思えるかどうかである。
この気持ちが全てで、魂が、腹の底が、本能が求めるものである。
だから、幼児期に熱中したものを大人になって思い返すのが大切という話は、理にかなっている。
これは他人がどうこうできるものではない。
学校教育ができることは何か。
それは、本来、その子どもが意欲をもてるはずのものを、落とさないことである。
あくまで、それを提示できるかどうかまでである。
点数や成績表に記載されるものは、その子どものもつごくごく一部のものでしかない。
見えやすい面に執着しすぎて、大切なものを落とさないようにしたい。
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