2021年7月17日土曜日

目の前の具体的事実が全て

 前号の話の補足で、指導の在り方の多様性について。

前号では主体性をもった子どもの育成のために、許可制をいかに撤廃していくか、という話だった。


私が以前からよくお世話になっている方から、前号のメルマガを読んで

「私はガンガン指導しています」

というメールをいただいた。

私の書いた意図も全てわかった上でのメールである。


こういう教育があってもいいのではないか。

先生もいろいろあってもいいのではないか。

そういう趣旨のお話だった。


全く同感である。

そしてこれは、全くの説明不足で、補足説明がないと、特に素直な人には誤解される可能性があると考えた。


「教育は、教師はこうあるべき」という一律の姿が押し付けられるせいで、教育崩壊が起きているように思う。

例えば叱る褒めるについての論争も同様で、色々な方法があっていい。

基本的には本人が落ちている状態には褒めた方がいいことが多いが、時には叱る方がいいことだってある。


時代が進化するということは、現実も日々進化する。

常に目の前の具体への対応でしかない。

教育における抽象化された万能論は存在しない。

その上での様々な教育情報である。


「トイレに行ってもいいですか」を報告させないと危険な学級も現実に存在する。

その通りである。

そうせざるを得ない状況、その方が良いという場合は、私もきっとそうする。


一律にこの方法は全部だめ、あるいはどの方法も全部オッケーという論は、どちらも危ない。

目の前の具体的事実によるのである。


そしてこれを読んで

「じゃあやっぱりトイレに行く時は報告させるべきなのだ」

というのが恐れている誤解であり、早合点である。


すべては、目の前の具体による。

それはつまり、教室にあるすべての指導やルールに意図があるということである。

そして、それは目の前の具体的事実によって、取るべき方策が異なるということである。


それを無思考に「慣例」や「以前うまくいった方法」でやってしまうことが問題なのである。

「ハンマーしか持たない者には全てが釘に見える」という言葉の指すところである。

ドライバーという道具を知らないから、ネジの場合もハンマーで叩き込もうとしてしまう。

(加えて言うと、ハンマーを用いても、滅茶苦茶ながらもネジがめり込んでしまうところが更に問題である。)


例えば、授業の前に全員で揃って礼をする。

あるいは、食事の前後に手を合わせる。


これらは、何のためなのか。

意味も考えず、ただやっているだけなら、有害である。

幼少期のしつけなど、最初は意味もわからずやる時期があってもいい。

(しつけの有用性と有害性の問題も、論じるべき点がかなりある。)

ただ、いつまでも意味がわからないままでいいのかというと、それは違う。


どんな声かけが最適なのか。

やる方がいいのか、やらない方がいいのか。

揃える方がいいのか、揃えない方がいいのか。

一律の答えはなく、すべては目の前の具体的事実が規定する。


例えば手を合わせるという行為自体、宗教違いの場合は形式が異なる。

食事のマナーだって異なる。

アレルギーのような身体的理由の場合にも、食事時の最適解は異なる。


要するに、一つの方法や理論を妄信しないことである。

「一斉指導」「個別指導」「強制」「自由」「素直」「従順」「反抗」・・・

すべてはそれ単体では、単なる「単語」でしかなく、善悪も正解不正解もない。

どの文脈でどのように用いるかがすべてである。

ハンマーがいい時もあればドライバーがいい時もあるし、そもそも何もしない方がいいこともある。


この論理でいくと

「じゃあ本やメルマガを読むことも意味がない」

と考える人もいるかもしれない。


それは違う。

様々な道具があった方がいい。

引き出しに様々な道具(選択肢)がしまわれている人と、ハンマーしかもっていない人は違う。

そして、時代の変化によって、必要な道具は進化する。

だから教える立場にある者の学びには永遠にゴールはなく、常に学び続ける必要がある。


目の前の具体的事実が全てである。

最も大きな事実は、自分と子どもたち一人一人である。

そこへの最適な方法を考え得るのは、自分自身しかいない。


私もよく他者から誤解されていて

「先生はもうやり方が確立しているからいいですね」

と言われる。

全くの誤解である。


例え以前と同じ学年だったり、持ち上がりであったとしても、同じ方法を同じように使えた試しなどない。

それどころか、今担任している子どもたちに対しても、変化に応じてやり方をどんどん変えている。

子どもの側も私も、常に変化しているからである。


目の前の具体的事実が全て。

教師のやり方も多様性がある。

どんなやり方であっても、共通点として大切なのは、指導への教育観をもって臨むことである。

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