前号の「自分の人権を認める」という話の続き。
セルフネグレクトという言葉がある。
私はこの言葉を、社会派ブロガーのちきりん氏が、音声媒体の「voicy」で取り上げていたことで知った。
人権についての意識が高まっていた時に出会ったので、偶然ではないのかもしれない。
元々は「ごみ屋敷」に住むような人の心理状態を指したようである。
しかしながら、今はもっと多くの人に当てはまるものとして定義されている。
セルフネグレクトについて、とりあえずの定義をWikipediaから引用する。
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(引用開始)
個人自身の基本的ニーズに対して発生するネグレクト行為であり、
それには不適切な衛生、服飾、食事、医学的状況などが挙げられる。
より広義には、個人の保健、衛生、生活環境などのセルフケアが不足している状況をいう。
(引用終了)
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つまり、セルフネグレクトは、労働問題と直結する。
忙しい人が多い職場ほど、この傾向は強くなる。
自分に余裕がない状態になれば、当然他者のケアはできない。
新人研修や異動者へのケアといった本来必要なものも、冷たいものになってしまいがちである。
学校の場合、このしわ寄せの最終被害者は、子どもである。
子どものために自己犠牲して頑張った結果の犠牲者が子どもという矛盾が生じる。
これは学級担任の場合に限らない。
管理職が忙しくなれば、教務主任に余裕がなくなり、結局学級担任に及ぶ。
逆も然りで、下が余裕なくなれば、上も余裕がなくなる。
結局みんな一蓮托生である。
学校が忙しくなってる原因は至極単純明快である。
最近の先生たちがだらしなくて仕事をしなくなったから、ではもちろんない。
載せすぎである。
トラックだって最大積載量が定められており、これをオーバーすると法で罰せられる。
最大積載量が定められる理由は、それを越えると事故につながり、危険だからである。
教員の労働量については、もう何十年も前からとっくに積載量オーバーである。
満載になってるところに更に積み荷を無理矢理載せたら、やがて崩れることは目に見えている。
なるべくしてなった感が否めない。
学校は、サービス業ではない。
色んな便利サービスを提供する場ではない。
再三言っているが、業務的に近いのは、ホテルやテーマパークではなく、お寺である。
(学校のない時代からお寺というところは、貴重な教育機関である。)
過剰サービスというか、そもそも学校の業務ではないところまで負担しすぎである。
そこまでやらせるのなら、国は法を改正して教職員定数を大幅に引き上げるのが当然である。
(同時に待遇も大幅改善しないと確実に質が落ちる。
人気が出れば確実に競争倍率が上がり、結果的に質も上がる。
逆もまた然り。)
学校は、子どもを育てるための機関である。
子どもを育てることと関係のない業務を減らしていかない限り、この本来の目的に打ち込むことは不可能である。
滅私奉公からのセルフネグレクト教員集団から子どもが学ぶのが「学校の先生にだけはなりたくない」ということになりかねない。
これは、教員採用試験の低倍率化の根本的な部分である。
質の低下→問題増加→多忙化という負の連鎖である。
一教員にとって、この問題はどこから手をつければよいのか。
それは、セルフネグレクトからの脱出である。
昭和的ガンバリズムを脱して、自分の時間を最優先確保するところからである。
無理してでも早く退勤することは、周りに気後れすることかもしれない。
自分の時間を楽しむことも、何だか悪いことをしているように思えるかもしれない。
病気にでもならない限り一切年休が取れないという状態かもしれない。
しかしそれは、完全な誤解である。
あなたが自分を大切にすることで、周りも幸せにできる。
先にも述べた通り、疲れて不機嫌な担任の一番の被害者は子どもである。
そして同僚の不機嫌をも引き起こし、同僚の担任するクラスの子どもの不幸にもつながる。
一生懸命死ぬほど頑張ることが、逆に悪いことが繰り返し起こる根本的原因なのである。
それに気がついたら、負の連鎖を断ち切る必要がある。
そのための行動は、自分を大切にすることである。
ガンバリズムの先にあるのは、いつか楽になれる天国のような世界ではない。
互いに自己犠牲をいつまでも強要し続ける地獄のような世界である。
やれないことはやれない。
とりあえず帰る。
自分の時間を確保する。
生活空間を清め、栄養ある美味しいものを食べて、体と心をメンテナンスする。
これは決して快楽主義ではなく、仕事も含めた人生を大切にするが故の行為である。
元気で上機嫌な方がみんないい仕事ができるに決まっているのである。
こういう当たり前のことを今まで意識してきたかどうか。
セルフネグレクトからの脱出は、学校の問題を解決するための糸口になるはずである。
学校現場からの実感である。
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