毎年、学級で子どもによくする話。
「後始末」が大切である。
椅子をしまう。
周りのごみを拾う。
靴を揃える。
全て後始末である。
しつけは漢字で「躾」である。
心身、あるいは身の周りを美しくする行為である。
放っておいても自然にはそうならないので、教える必要がある。
後始末をつけるというのは、人に余計な迷惑をかけない、手間をかけさせないという意味もある。
例えば給食の片づけ方、あるいは残し方も、後始末。
トイレを使った後も、後始末。
ごみの分別も、後始末。
これを片付けてくれる人、次に使う人のことを想像できるかどうかである。
想像力が全てを決める。
そして子どもたちは教えられないと、意外とここの想像ができない。
スーパーで売っている鮭の切り身の状態で泳いでいると思っている子どもがいるという笑い話がある。
知らないと、そうなる。
例えば給食一つだって、食べ残した後の片付けの場面を想像できない。
なぜなのか。
自分で後始末をした経験がないからである。
食べっぱなしでも、親が片づけてくれるとなれば、想像できない。
食べ残したごみがどうなるのか、お皿の油汚れはどうなるのか、わかるはずもない。
まして、それを片付ける時の、作った人の気持ちなぞ想像できる訳がない。
外食は、全く見えないので、もっと学べない。
ファーストフードに至っては洗い物どころか単にごみが出るだけである。
クリック一つ、ボタン一つの世界である。
本来は、そんなことは家庭教育の分野である。
しかし、時代が変わったのだから、学校が担保するしかない。
躾をなされずに育って大きくなった親に育てられていたら、子どももそうなるのは自然である。
全ての教育は学校に責任があるのだから、この負債も返す必要がある。
この家庭教育については、地域によって大分差がある。
きちんと教育がなされている家庭が多い地域もあれば、そうでない場合もある。
どの場合においても、学校は不足分を補う責務がある。
それは、面倒がらずに、やるべきことである。
具体物で後始末をつけられるようになると、他の面に波及する。
生活や学習のあらゆる面で、後始末を意識できるようになってくる。
「これをしたら迷惑になる」「これをすると誰かが助かるかもしれない」ということの想像力が身につく。
後始末をきちんとつけられるように教育する。
これをするだけでも、学級の様子ががらりと変わることは間違いない。
授業以前の学級経営の重要ポイントである。
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