2015年3月31日火曜日

教える側も「日常が全て」

「日常が全て」という話の続き。

私が3月に子どもに必ず話すのは、避難訓練のこと。
実際にあの3.11の時、私の教室には子どもたちがいた。
そこで避難させようとした時、肝を冷やした。
防災頭巾が椅子に絡まって外れず、逃げ遅れている子どもがいたのである。
すぐに助けに行って、ひもを引きちぎった。
偶然ではなく、普段から絡まっていたのが原因である。
それを日常的に見逃していた。
本番にして痛恨の、忘れられない出来事である。
つまり、教える側にも「日常が全て」の法則が当てはまる。

別の例でいえば、教材研究をしたりセミナーに出かけたりして、何か良い方法を学んだ時。
これはいいと、意気揚々と子どもに投げかける。
だが、意外と反応が悪い。
「子どもが悪いからだ」と考えたくなるが、それは違う。
普段の鍛え方が悪いのである。素地が育ってないのである。
ちょっと「全力で」やったぐらいで、子どもは変わらない。
しつこく、何度も、自分で嫌になるぐらいやって、少し変わってくる(ことがある)。
それを続けていく。

素晴らしい学級集団を作る先生がいるが、これも一朝一夕ではない。
だから少し見て真似をしても、到底届かない。
日常の指導の「当たり前」レベルが違うからである。

日常が全て。
教師の側にこそ当てはまる、原理原則である。

2015年3月29日日曜日

日常が全て

日常が全て。
子どもによく伝える言葉の一つである。
(ちなみに、私が組んだある学年主任の先生の黒板に書かれていた言葉である。
 今は教育委員会に入って、大活躍している素晴らしい先生である。
 この言葉は特に気に入って、よく使わせてもらっている。)

行事や試合がある。
本番だから、真剣にやる。
これは、当たり前である。
誰でもやることだから、そこで差はつかない。

差がつくのは、本番ではなく、日常である。
つまり、本番前に、ある程度勝負は決している。
「ある程度」というのは、同レベル集団内では「運」が勝負を左右するからである。
逆にいえば、レベルの違う集団間では、本番のがんばりによる逆転は起きない。
(不慮の事故等による逆転は有り得る。)

わかりやすい例でいえば、マラソン。
練習もせずにいきなりフルマラソンに出る人はまずいない。
また、1ヶ月程度の練習で「本番は全力を出して1位をとります!」という人もいない。
身のほどがわかっているからである。
先頭集団はあくまで先頭集団内で争う。
先頭集団に入る選手は、練習量の次元が違う。

この勘違いの現象が、学校では結構出現するように思う。
「がんばる」「一生懸命」とはどういうことかが、わかっていないからである。

よくある小さいところだと、漢字テスト。
昨日「一生懸命」練習をやったのに、点数が悪かった。
それに比べて○○さんは普段通りなのに百点。
「不公平だ」と思う子どもがいるかもしれない。

実際は、日常の練習量が違う。
本番直前にやり始めて「がんばった」というのは、単なる自己満足である。
たとえすぐに結果が出ずとも愚直に何ヶ月も続けてみて、初めて「努力」とよべることを教える必要がある。
普段やらないのに、特別な日を1日2日設けても焼け石に水。
「日常が全て」である。

スポーツだろうが音楽だろうが何かの試験だろうが、共通の原理原則である。
先日、6年生を送る会で劇をやった際、クラスの子どもが日記に
「練習は本番のつもりで、本番は練習のつもりでやったらうまくいった。」と書いていた。
つまり、普段は全力で努力したお陰で、本番は適度にリラックスして実力を発揮できたのである。
大切なことが実によくわかっていると思う。

日常が全て。
私が勝手に座右の銘にしている言葉の一つである。

2015年3月27日金曜日

本質として何を学習するか~雨の日の送迎を例に~

当然すぎる前提だが、学習の主体者は、学習者自身である。
(ちなみに「授業の主役は誰か」ということとは違う種類の話である。)
「馬の耳に念仏」という諺もあるように、どんなにいい話でも受け手9割である。
要は、どんな現象が存在するか以上に、学習者側が「何を学習するか」の方が大切である。

今回、ここについて、雨が降った時の学校の送迎を例に考える。
スクールバスがないのに学区が広い学校の場合、雨の日は保護者による送迎が目立つ。
(特に安全面で心配な低学年に顕著である。)
都内などの公共交通機関が主の地域は別として、車社会の地域であれば、割とどこでも見られる現象ではないかと思う。

この「送迎」というのは、雨が降ったこと、距離が遠いこと、そこに車を所有していることに起因する「現象」である。
一昔前には無理だったことも、今は可能である。
少なくとも根本には、我が子への愛情があると思う。

この「送迎」自体の是非は決定しづらい面がある。
例えば不審者や交通事故等の多い地域などは、雨が降らずとも、送迎することがあると思う。
歩く大切さもわかる一方で、我が子の安全を優先したい気持ちが働くのも無理なからぬ話である。

ここで本当に考えるべきは、送迎される側(子ども)が何を学習するかである。

「雨が降る」→「送迎あり」→「楽」という思考回路による「負の学習」では、逆効果である。
「雨が降ると迎えに来てくれる」→「守られている・大切に思われている」→「感謝」なら、話は別である。
「忙しいのにわざわざ」などと考えるようなら、尚更意味がある。

また、子どもの送迎はしないという選択もあり得る。
こちらも「〇〇ちゃんの家は送迎してもらえる」→「ずるい」の思考回路による学習では、逆効果。
「うちの親は送迎しない」→「自分でできることは自分でやれる人になるため」と理解しているなら意味がある。
また「他人の家は他人の家。うちはうち。みんな違って当然。」と割り切って考えることも意味がある。

要は、現象に対する「意味づけ」をどうできるかが、教える側の腕の見せ所であり、唯一できることである。
別の例だと、例えば長縄で「記録がずっと伸びない」という現象に、どう意味づけできるか。
つまり、この現象から子どもが何を学ぶように仕向けていけるか。
これによって、この後本当に記録が伸びるか伸びないかが決まる。
長縄への取り組みを通して学ぶ内容も大きく変わる。

ともすると、ついつい目の前の現象に振り回されやすい。
しかし現象以上に、それが教育として見た時、子どもが何を学習するかを考えること。
それが現象の陰にある「本質」である。
どうせなら、同じ現象にも、よりよい意味づけをできるようにしたい。

2015年3月25日水曜日

「わからない」のか「知らない」のか

「わからない」とは、「わかっている」が前提にある。
つまり、「わからない以前」の状態もある。
これが「知らない」という状態である。

体育の場合を例に考える。
例えば、2年生の鉄棒遊びの学習で「逆上がり」のやり方を教えるとする。
これは、大抵見たことがある。
だが、「後方支持回転」(いわゆる「空中逆上がり」)は知らない子どもがいる。
まして「前方支持回転」(いわゆる「空中前回り」)は、見たこともない子どもが多い。
「けあがり」などは、想像もつかない。
だから、「わかる?」ときけば「わからなーい」と答えるが、実際は「知らない」が正しい。

見たことがないから、知らないだけで、わからないとは違う。
つまり、知ったらできる可能性がある。
知る→やってみる→わかる(わからない) という流れである。

だから、低学年は様々な動きを知った方がいい。
技を見せてあげればいい。
可能性が広がる。
わからないとかできないとか以前に、知らないだけの可能性がある。

「わからない」と「知らない」、どちらなのか区別するだけでも、指導が変わるはずである。

2015年3月21日土曜日

「わからない」を哲学する その3~感覚的な「わからない」は難しい~

「わからない」哲学シリーズその3。前号の続き。

感覚的な「わからない」は、説明が難しい。
「〇〇の音楽が好きな人の感覚がわからない」という人がいたとする。
〇〇に入るのは、ロックでもクラシックでもヘビメタでもラップでも何でもいい。

例えばこの人にも「好き」ということへの「わかっている」前提がある。
「焼き肉が好き」「本を読むのが好き」「昼寝が好き」・・・
共通点は「おいしい」「楽しい」「気持ちいい」という「正の感情」である。
「本能的欲求の充足」と言い換えてもいい。
ここは「わかっている」点である。

この関連として「わからなさ加減」がくる。
「焼き肉が好き」などの他の感覚と「〇〇の音楽が好き」という感覚とはどう違うのか。
この先の感覚については、これ以上説明しようがない。
ただ「強い正の感情」であるらしいことだけは理解できる。
「感情」というのは、「論理」と相性が悪く、言葉では説明、理解できない部分が多い。
(つまり、音楽やファッション等の趣味・嗜好については、相手に譲歩しないと理解できない。)

真冬に海に入って祈祷をする風習がある。
あれは、やった人にしかわからないという。
やったことのない人には「わからない」行為である。
なぜかというと「真冬の海は冷たくて苦痛」ということを「わかっている」前提で見るからである。
どう考えても、論理的行為ではない。
しかし、「入ればわかる」という。(ただ私には、その行動を起こす勇気と気合いがない。)

つまり、子どもの「わからない」にも、必ず他の何か「わかっている」があるということである。
何を「わかっている」前提で、「わからない」と言っているのか。
次号もう少し考えていく。

2015年3月19日木曜日

「わからない」を哲学する その2~知識との関連~

ある本を読んで、「わからない」と思う時。
例えば、外国語で書かれた本を読んだ場合。
まずもって、文章の持つ意味自体がわからない。
多くの単語も意味わからない。
つまり、文章自体の良否以前の問題である。
「日本語ならわかる」という前提の「わからない」である。
これは、医学の知識がない人が医学書を読む時なども同様である。

一方、日本語の文章だけどわからないという場合。
例えば、大学のテキストなどに使われる本。
文章が難解で回りくどくてわからないものがある。
これは「達意を目的としたすっきりした文章ならわかる」という前提がある。
しかしながら伝える側の意識が「わからない人にはわからなくていい」という前提で書かれている場合もある。
(つまり、対象読者を意図的に限定している。)
つまりこの「わからない」文章は、他の「わかっている」(わかりやすい)文章の前提に存在する。

次号、感覚的な「わからない」について考えていく。

2015年3月17日火曜日

「わからない」を哲学する

今回は、少し哲学的な話。

授業をしても「わからない」子ども。
さて、どう教えるか。
そもそも、「わからない」とはどういう状態なのか。

ここについて、興味深い文章を見つけた。
次の本から引用する。
宇佐美 寛 『私の作文教育』 さくら社 2014年 P.81
http://www.sakura-sha.jp/skillup/sakubun-kyoiku1/
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(引用開始)
「わからない」とは、実は、このようにある程度、あるしかたで「わかっている」ことが何らかあるということなのだ。
だから、その「わかっている」ものとの関連で「わからなさ加減」を言うべきなのだ。
一歩つっこんで問わねばならないのだ。
(引用終了)
========================
学生の「わからない」という言葉に対する回答の一部である。
つまり、「わからない」と言うのは、「わかっている」前提が他にあるという論理である。

この文章を読んだ時、頭の中がスッと晴れたような気がした。
私たちが何かを「わからない」という時、必ず「わかっている」前提がある。

例えば、赤ちゃんは多くのことに対して「わからない」という認識がない。
しかし少し成長すると「わからない」人に対して泣く。
「わからない人」を区別できるのは、「お母さん」を「わかっている」前提で起きる。
つまり、「何かがわかっているからこそ、わからないという認識が起こる」ということである。
ソクラテスの「無知の知」にも通ずる。

次号、もう少し身近な例で考えていく。


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