6月29日に他界した祖母の話。
私の祖母は、生涯笑顔とユーモアの人だった。
そして、自分にできることをして生きることを何よりも大切にしていた。
20年ほど前に祖父がなくなった後にも、しばらく山の中で一人で暮らしていた。
運動不足を防ぐべく、NHKで放映されている朝のラジオ体操をテレビのお姉さんと一緒にやっていた。
「毎朝やるっちゃが。これがいいとよ。」と笑顔で言っていた。
足腰を悪くしてから、動き回れなくなった後は、とにかくよく手を動かしていた。
私の「やる気スイッチ押してみよう!」が枕元にあり、それを読んで、視写をしていた時期もあった。
頭の体操になるそうである。
人が尋ねてきては、必ず笑わせて帰す。
サービス精神が旺盛なのである。
山奥で一人で暮らす祖母を心配して、
「強盗とか悪い奴が来たらどうするとか。」
と尋ねると、
「お茶でもすすめればいいっちゃが。」
と答えたという。
本当にやるかどうかは別として、祖母らしい切り返しである。
人生ではあらゆる「非常事態」が起きるが、どう対応するかで全て決まる。
あらゆる出来事をユーモアで見る人にとっては、困った出来事を「そう来たか」と面白がる。
すべてに感謝する人もいるし、天に唾する人もいる。
生き方を考えさせてくれた祖母に、改めて感謝したい。
2017年8月14日月曜日
2017年8月12日土曜日
図と地の反転
私は大学時代に教育心理学を専攻していたこともあり、心理学が好きである。
その中の「ゲシュタルト心理学」に「図と地」という知覚に関する面白い考え方がある。
簡単に言うと、図とは、対象物そのものとして知覚されるもの。
地とは、「下地」という言葉にあるように、いわゆる背景のようなもので、知覚されない部分である。
よく知られている例でいうと、白黒の「くびれた壺」の絵である。
黒地の真ん中に白い壺の絵が見える。
しかし見方を変えてみると、「向かい合っている人の顔」に見えるという、あれである。
他にも、例えば次のような絵である。
http://livedoor.blogimg.jp/humon007/imgs/e/8/e8064f53.png
見えただろうか。
この画像の正解は、まさに意識しないと見えないものの一つである。
図と地を反転させると、見えるものが一変するということである。
通常、人間は面積が大きい部分を「地」、小さい部分を「図」と捉えやすい。
つまり、小さい部分の方に着目してしまうという、厄介な心理が人間にはある。
真っ白な布に小さな染みが一点あると、そちらが気になって仕方がないのと同じである。
小さいこと、細かいこと、些細なことに囚われやすいということである。
親が子どもを叱りたくなるのも、この心理である。
我が子が元気であることの有り難さなど、病気になるまで完全に吹っ飛んでしまう。
学級でも、この心理の罠に陥りやすい。
目の前の子どもたちの、些細な「望ましくない点」を「図」としてとらえ、目がいってしまうのである。
もっと大きな面積を占める「地」の方に目をやると、見え方が変わる。
そもそも、今日も元気に学校に来ているということ自体、かなり大きなことである。
あんなつまらない授業をしたのに、あんなひどい叱り方をしたのに、今日も来ているあの子。
にこにこして「先生」と呼ばれること。
この「地」の部分を見ると、畏れるべきことである。
こういう「当たり前」をただの「地」としてみるか、非常に大きな「図」として見るかである。
地と図。
人間は些細なことに着目しやすい。
大きな大事なことを見落としやすい。
家族や職場などの人間関係。
もっと身近だと、自分自身である。
「生きているだけで丸儲け」とは、至言である。
暑いとか文句言ってないで、今日も生きていることに感謝したい。
その中の「ゲシュタルト心理学」に「図と地」という知覚に関する面白い考え方がある。
簡単に言うと、図とは、対象物そのものとして知覚されるもの。
地とは、「下地」という言葉にあるように、いわゆる背景のようなもので、知覚されない部分である。
よく知られている例でいうと、白黒の「くびれた壺」の絵である。
黒地の真ん中に白い壺の絵が見える。
しかし見方を変えてみると、「向かい合っている人の顔」に見えるという、あれである。
他にも、例えば次のような絵である。
http://livedoor.blogimg.jp/humon007/imgs/e/8/e8064f53.png
見えただろうか。
この画像の正解は、まさに意識しないと見えないものの一つである。
図と地を反転させると、見えるものが一変するということである。
通常、人間は面積が大きい部分を「地」、小さい部分を「図」と捉えやすい。
つまり、小さい部分の方に着目してしまうという、厄介な心理が人間にはある。
真っ白な布に小さな染みが一点あると、そちらが気になって仕方がないのと同じである。
小さいこと、細かいこと、些細なことに囚われやすいということである。
親が子どもを叱りたくなるのも、この心理である。
我が子が元気であることの有り難さなど、病気になるまで完全に吹っ飛んでしまう。
学級でも、この心理の罠に陥りやすい。
目の前の子どもたちの、些細な「望ましくない点」を「図」としてとらえ、目がいってしまうのである。
もっと大きな面積を占める「地」の方に目をやると、見え方が変わる。
そもそも、今日も元気に学校に来ているということ自体、かなり大きなことである。
あんなつまらない授業をしたのに、あんなひどい叱り方をしたのに、今日も来ているあの子。
にこにこして「先生」と呼ばれること。
この「地」の部分を見ると、畏れるべきことである。
こういう「当たり前」をただの「地」としてみるか、非常に大きな「図」として見るかである。
地と図。
人間は些細なことに着目しやすい。
大きな大事なことを見落としやすい。
家族や職場などの人間関係。
もっと身近だと、自分自身である。
「生きているだけで丸儲け」とは、至言である。
暑いとか文句言ってないで、今日も生きていることに感謝したい。
2017年8月10日木曜日
「自分に厳しく」もほどほどに
「自分に厳しい」というのは、一般的に良いことと捉えられている。
しかし、自分に厳しく他人に優しい、というのは、理想的だがなかなか難しい。
自分に厳しくしていると、どうしても他人が許せなくなってしまう。
わかりやすい例だと、授業。
一生懸命に用意をするのはいい。
しかし、こちらの努力に対し、子どもがノってくるかは、別問題である。
子どもの側からすれば、こちらの努力など、知ったことではない。
ノってくるかどうかは、それが単に子どもにとって面白いかどうかだけである。
努力するほど、往々にしてここを勘違いしてしまう。
努力量と成果は、すぐに直結するとは限らないというのが真実である。
努力が担保してくれるのは、自分が納得することまでである。
自分に厳しくしても、他人に厳しくしていい免罪符にはならないということである。
この時期、湿気と暑さがものすごい。
あまりに自分に厳しくしていると、疲れる。
急激な気温の変化は、体に負担をかける。
この時期、肉体的にも精神的にもだるいのは、あなたがだらしないので決してなく、正常なのである。
肉体が無理をしているのに精神で統御するのは、修行僧でもない限り難しい。
倒れたら元も子もない。
また、自分に厳しくしていると、往々にして他人にも厳しく接してしまうものである。
かの文豪ゲーテも
「人間の最大の罪は不機嫌である。」
と言っている。
疲れていてもいいが、不機嫌なのは、大罪なのである。
こういう時期は無理をせず、「そんなもんだ」とゆるゆる自分の機嫌をとってやっていきたい。
しかし、自分に厳しく他人に優しい、というのは、理想的だがなかなか難しい。
自分に厳しくしていると、どうしても他人が許せなくなってしまう。
わかりやすい例だと、授業。
一生懸命に用意をするのはいい。
しかし、こちらの努力に対し、子どもがノってくるかは、別問題である。
子どもの側からすれば、こちらの努力など、知ったことではない。
ノってくるかどうかは、それが単に子どもにとって面白いかどうかだけである。
努力するほど、往々にしてここを勘違いしてしまう。
努力量と成果は、すぐに直結するとは限らないというのが真実である。
努力が担保してくれるのは、自分が納得することまでである。
自分に厳しくしても、他人に厳しくしていい免罪符にはならないということである。
この時期、湿気と暑さがものすごい。
あまりに自分に厳しくしていると、疲れる。
急激な気温の変化は、体に負担をかける。
この時期、肉体的にも精神的にもだるいのは、あなたがだらしないので決してなく、正常なのである。
肉体が無理をしているのに精神で統御するのは、修行僧でもない限り難しい。
倒れたら元も子もない。
また、自分に厳しくしていると、往々にして他人にも厳しく接してしまうものである。
かの文豪ゲーテも
「人間の最大の罪は不機嫌である。」
と言っている。
疲れていてもいいが、不機嫌なのは、大罪なのである。
こういう時期は無理をせず、「そんなもんだ」とゆるゆる自分の機嫌をとってやっていきたい。
2017年8月8日火曜日
笑って終わる人生
今年の6月、祖母が亡くなった。
97歳の大往生。
「亡くなった」よりも、「生ききった」という言葉がぴったりである。
私の好きな言葉の一つに、次のものがある。
ネイティブアメリカンの言葉だという。
あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい
祖母の葬儀は、終始和やかだった。
私を含めて孫が10人、ひ孫が24人もいるのである。
みんな、お別れの時は泣きに泣いたが、その分、本当に笑顔と思い出話が咲き誇る葬儀だった。
祖母は亡くなる前の日、心配して駆けつけた父にジョークを言って笑わせていたという。
「まだ大丈夫」と思わせて、すっと逝ってしまった。
祖母自身、最後まで笑っていたのである。
どう生きるか。
それは結局、どう死ぬかである。
祖母のように、自分が笑って周りが泣いてくれる生き方をしたい。
97歳の大往生。
「亡くなった」よりも、「生ききった」という言葉がぴったりである。
私の好きな言葉の一つに、次のものがある。
ネイティブアメリカンの言葉だという。
あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい
祖母の葬儀は、終始和やかだった。
私を含めて孫が10人、ひ孫が24人もいるのである。
みんな、お別れの時は泣きに泣いたが、その分、本当に笑顔と思い出話が咲き誇る葬儀だった。
祖母は亡くなる前の日、心配して駆けつけた父にジョークを言って笑わせていたという。
「まだ大丈夫」と思わせて、すっと逝ってしまった。
祖母自身、最後まで笑っていたのである。
どう生きるか。
それは結局、どう死ぬかである。
祖母のように、自分が笑って周りが泣いてくれる生き方をしたい。
2017年8月6日日曜日
原爆記念日 核兵器禁止条約を考える
今日は広島の原爆の日である。
3日後の8月9日は長崎。
そして8月15日が終戦記念日である。
核兵器禁止条約が今年の7月7日に国連により採択された。
一見すると、核兵器根絶にとって大きな一歩に見える。
しかし、ここには主要な核保有国が参加していない。
そして何より、日本が参加していない。
これは、非常に奇異な決定のように見える。
しかし、当たり前だが、日本は核の撤廃について相当な関心がある。
さんざん考えた上での政治的判断である。
次の記事は参考になる。
『核兵器禁止条約、日本はなぜ反対したのか』2016.12.5 ヤフーニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/452
世界中の問題が、複雑に絡み合っている。
誰にも解けないパズルである。
この問題が解決する日はくるのか。
この問題の解決策を自分の力で考え出すのは、恐らく不可能である。
我々にできることは、関心をもつこと。
東日本大震災等も含め、負の記念日のもつ意味は、そこである。
3日後の8月9日は長崎。
そして8月15日が終戦記念日である。
核兵器禁止条約が今年の7月7日に国連により採択された。
一見すると、核兵器根絶にとって大きな一歩に見える。
しかし、ここには主要な核保有国が参加していない。
そして何より、日本が参加していない。
これは、非常に奇異な決定のように見える。
しかし、当たり前だが、日本は核の撤廃について相当な関心がある。
さんざん考えた上での政治的判断である。
次の記事は参考になる。
『核兵器禁止条約、日本はなぜ反対したのか』2016.12.5 ヤフーニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/452
世界中の問題が、複雑に絡み合っている。
誰にも解けないパズルである。
この問題が解決する日はくるのか。
この問題の解決策を自分の力で考え出すのは、恐らく不可能である。
我々にできることは、関心をもつこと。
東日本大震災等も含め、負の記念日のもつ意味は、そこである。
2017年8月4日金曜日
聖戦は危険
子どもに、何かしら指摘をする。
説教をする。
明らかに、子どもの行為が良くない。
だから、正々堂々と叱る。
「明らかに」なので、迷いなく注意できる。
しかし、その自信の度合いが高い時ほど、要注意である。
正義、正当だと信じている時ほど、危ない。
大抵、子どもに対して自信をもって指摘をしていることが、自分の問題である。
そうでないことなら、控えめになる。
「まあ、そんな言っても私もできていないのだけれど」と付け加えながら話すのとでは、全く違う。
国際間の紛争を見てもわかる。
宗教や思想による争いは、両者一本も譲らない。
両者にとって我こそが正義の「聖戦」である。
明後日は原爆の日だが、原爆問題も互いの正義の二項対立では解決しない。
話を戻す。
子どもに「だらしない」とか「どうしてそんなことが」「信じられない」などと思ったら、自分のこと。
我が身を振り返るチャンスである。
説教をする。
明らかに、子どもの行為が良くない。
だから、正々堂々と叱る。
「明らかに」なので、迷いなく注意できる。
しかし、その自信の度合いが高い時ほど、要注意である。
正義、正当だと信じている時ほど、危ない。
大抵、子どもに対して自信をもって指摘をしていることが、自分の問題である。
そうでないことなら、控えめになる。
「まあ、そんな言っても私もできていないのだけれど」と付け加えながら話すのとでは、全く違う。
国際間の紛争を見てもわかる。
宗教や思想による争いは、両者一本も譲らない。
両者にとって我こそが正義の「聖戦」である。
明後日は原爆の日だが、原爆問題も互いの正義の二項対立では解決しない。
話を戻す。
子どもに「だらしない」とか「どうしてそんなことが」「信じられない」などと思ったら、自分のこと。
我が身を振り返るチャンスである。
2017年8月2日水曜日
課題は成果
公開研究会での学び。
学習指導要領の解説が公示された。
各教科とも、変更点がはっきりと示されている。
中でも、教科横断的な学びは強調されているものの一つである。
「カリキュラムマネジメント」が求められている。
算数と体育、音楽と体育など、教科間にまたがる横の学びを計画していくことが求められる。
それは一方で、教科の特性をよりはっきりさせることにもつながる。
算数でしか学べないことは何なのか。
体育ならではの学びは何なのか。
例えば、当たり前のことだが、体育では運動機能の向上が大切である。
広義の意味での「体力」が向上するはずである。
筋力の発達だけでなく、柔軟性や巧緻性等の発達を促す役割がある。
ずっと動かず座学のみの体育などありえない。
だからこそ、体育の授業では、何を身に付けさせたいのかをはっきりする必要がある。
私は「みんなが楽しめるゲームをしよう」というテーマを本時の設定として、ネット型ゲームの授業を行った。
そうすると、ルールや作戦に意識が向き、言語活動の時間が増える。
それ自体は悪いことではないのだが、それによって運動量が減ることは問題がある。
講師の高田先生からは、
「発言量は後半になるほど増えていくのが理想」
「動きながらの言語活動がより大切」ということを教えていただいた。
つまり、話し合いがどんどん活発になっていくということ。
みんなで円になって話し合うだけでなく、運動をしながらその場での発言が増えていくこと。
そういう授業をイメージして作っていけば、より良くなるはずである。
高田先生は講評の冒頭に「課題は成果」というお話をされた。
授業をやって課題が出るのは、その授業の「成果」という意味である。
つまり、課題が見つかったということ自体が次につながる成果ということ。
その考えに至れば、授業では挑戦すること全てに価値が見出せる。
壁に当たることを怖れず、常に挑戦を続けたい。
学習指導要領の解説が公示された。
各教科とも、変更点がはっきりと示されている。
中でも、教科横断的な学びは強調されているものの一つである。
「カリキュラムマネジメント」が求められている。
算数と体育、音楽と体育など、教科間にまたがる横の学びを計画していくことが求められる。
それは一方で、教科の特性をよりはっきりさせることにもつながる。
算数でしか学べないことは何なのか。
体育ならではの学びは何なのか。
例えば、当たり前のことだが、体育では運動機能の向上が大切である。
広義の意味での「体力」が向上するはずである。
筋力の発達だけでなく、柔軟性や巧緻性等の発達を促す役割がある。
ずっと動かず座学のみの体育などありえない。
だからこそ、体育の授業では、何を身に付けさせたいのかをはっきりする必要がある。
私は「みんなが楽しめるゲームをしよう」というテーマを本時の設定として、ネット型ゲームの授業を行った。
そうすると、ルールや作戦に意識が向き、言語活動の時間が増える。
それ自体は悪いことではないのだが、それによって運動量が減ることは問題がある。
講師の高田先生からは、
「発言量は後半になるほど増えていくのが理想」
「動きながらの言語活動がより大切」ということを教えていただいた。
つまり、話し合いがどんどん活発になっていくということ。
みんなで円になって話し合うだけでなく、運動をしながらその場での発言が増えていくこと。
そういう授業をイメージして作っていけば、より良くなるはずである。
高田先生は講評の冒頭に「課題は成果」というお話をされた。
授業をやって課題が出るのは、その授業の「成果」という意味である。
つまり、課題が見つかったということ自体が次につながる成果ということ。
その考えに至れば、授業では挑戦すること全てに価値が見出せる。
壁に当たることを怖れず、常に挑戦を続けたい。
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