今月、教育雑誌『授業力&学級経営力』で「残業ゼロの時間術」という特集で書かせていただいた。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/21080
タイトルが恐ろしすぎてご遠慮しようかと思ったのだが、せっかくの機会なのでお受けした。
編集者の方にも、附属小学校の場合は勤務形態がかなりの期間、特殊であることも告げた上である。
記事の中でも、そこは冒頭でちゃんと述べている。
その上での話を書く。
実は、結構残業が続いている。
陸上練習期間である上に、教育実習が被っている。
まずこの2点があるだけで、勤務時間の定刻自体が大きく変わる。
さらに体育の新しい提案がある上に、次年度の公開研究会に向けての研究授業が並行している。
6年生担任としての学級経営や授業等の本業務も、もちろんたくさんある。
そうなると、勤務時間内で済まない仕事も当然出る。
一例を挙げれば、実習生を一人で四人担当すると、放課後に指導したり一人ずつ相談を受けたりする。
実習生が授業の悩みについて真剣に聞いてくれば、当然最優先で答える。
四時に子どもを下校させてすぐ始めたとして、そこから一時間から二時間はかかる。
すると、その業務だけでもう勤務時間の定刻である。
授業の準備や研究等の諸々の業務はこの後スタートである。
きちんとやれば、どうやっても残業ゼロにはならない。
そういう特殊な状況を除けば、残業ゼロにすることはできる。
ただ、今の私は、その選択をしないというだけである。
残業してでもしっかり仕事をしたい時期なのである。
実習生の指導。
真剣に授業について悩む姿が、若かりし頃の自分と重なる。
そうすると、どうしても応援したくなる。
今目の前にいる実習生の成長が学校教育の未来、子どもの笑顔につながると考えると、やる気も出る。
ここに時間をかけることは、むしろ楽しみである。
公立校に勤務している時も実習生を何度か持たせてもらったが、充実の一言である。
まして、現職教員として活躍している元実習生をみると、感無量である。
採用試験合格の知らせが届いた時も、我が事のように嬉しいものである。
授業研究も同様。
研究が子どもの成長や喜びにつながると思えば、俄然やる気が出る。
今回の教材はハードル走。
ハードル走は、苦手な子どもも多い分、はまればめきめき上達する。
どうやると子どもがこの楽しさを追求するのか、目の前で変化が見られるのは最高に嬉しい。
逆に、同じやり方でもうまくいかない子どもには、どうすればいいのか悩むこともある。
真剣にやって悩むのも、仕事の楽しみの一つである。
そういう風に仕事を楽しんでいれば、残業も苦ではない。
そして、一気にやる日を設けて、時に定刻退勤する。
一緒に残業した仲間と飲みに行ったりもする。
そうやって楽しんでやれば、疲れも残らない。
要は、勤務時間どうこうではく、やはり内容。
本人が楽しいかどうかがすべての鍵である。
2016年10月31日月曜日
「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則
全国の仲間の先生から、時々葉書が届く。
私が尊敬する人は、筆まめの方が多い。
(いただく度に猛省である。)
その中のある方から、ご友人が本を出したからということで、次の本を紹介していただいた。
『「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則』
https://www.amazon.co.jp/dp/4569829244
人に紹介するというのは気合いがいる。
責任が伴う。
特に、友人知人といった大切な人に紹介する時は、変なものはすすめられない。
つまり、私にこれをすすめてくれる時点で、間違いないと判断し、即購入した。
実際購入して読んでみると、大変読みやすくためになる。
ビジネス書だが、ストーリー仕立てである。
ストーリー仕立ては、一見まわりくどいようで、記憶に残りやすく、能率的といえる。
「放てば手に満てり」が基本の考え方。
つまり、持っているものを手放せということ。
さらにいうと、自分のもっているものを人に提供せよということ。
「無財の七施」の話は、知っていたが、より深く意味がわかった。
教育にそのまま適用できる話である。
「外から安く買う」のではなく、「知人から高くても買う」のがなぜいいのか。
マーケティング理論とも関連して説明されていて、すとんと理解できる。
本ブログ読者の皆様にもおすすめの1冊である。
私が尊敬する人は、筆まめの方が多い。
(いただく度に猛省である。)
その中のある方から、ご友人が本を出したからということで、次の本を紹介していただいた。
『「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則』
https://www.amazon.co.jp/dp/4569829244
人に紹介するというのは気合いがいる。
責任が伴う。
特に、友人知人といった大切な人に紹介する時は、変なものはすすめられない。
つまり、私にこれをすすめてくれる時点で、間違いないと判断し、即購入した。
実際購入して読んでみると、大変読みやすくためになる。
ビジネス書だが、ストーリー仕立てである。
ストーリー仕立ては、一見まわりくどいようで、記憶に残りやすく、能率的といえる。
「放てば手に満てり」が基本の考え方。
つまり、持っているものを手放せということ。
さらにいうと、自分のもっているものを人に提供せよということ。
「無財の七施」の話は、知っていたが、より深く意味がわかった。
教育にそのまま適用できる話である。
「外から安く買う」のではなく、「知人から高くても買う」のがなぜいいのか。
マーケティング理論とも関連して説明されていて、すとんと理解できる。
本ブログ読者の皆様にもおすすめの1冊である。
2016年10月29日土曜日
「なぜ」より「どうしたら」で問う
子どもが何かしらの問題行動を起こす。
例えば低学年で「お友達を叩いてしまった」でも何でもいい。
その時、どう対応するかは無限にあるが、かなり多いのが次の対応。
「なぜ(または『どうして』)叩いちゃったの?」(WHY)
気持ちをきこうという点ではいいのだが、これは答えにくい。
どう答えていいかわからず、黙ることになる。
または色々考えてうだうだ話し始めるが、要領を得ない。
「幼稚園の頃にいじわるをされた」というような無理矢理感のある理由をこじつける場合もある。
尋ねた側は恐らく「何があったの?」(WHAT)がわかればいいのだが、「なぜ」だと、行動の根本的な原因を問うことになる。
「なぜ廊下を走ったの?」も同様で、高学年なら色々理由はつけるが、本音は
「走りたかったから走った」のである。
そんなことより、尋ねるべきは
「次はどうしたらいい?」(HOW)
である。
繰り返されるのが問題なのだから、次にうまくいく方法を準備することが肝要である。
例え行動の原因が明確にわかっても、解決には至らない。
これは、実習生への指導にもいえる。
例えば指導案や指導の様子を見て、何か不備があったとする。
(その勉強をしに来ているのだから、不備は当たり前である。)
ここで「なぜ?」をあまりしつこく聞いてもしょうがない。
それよりも「どうしたい」「どうしたら」という視点で尋ねてみる。
答えは、それぞれ自分自身の中にある。
上から目線で「指導しよう」などと思うよりも、実習生自身が頭の中から引っ張り出すことである。
そんなことを意識していると、自分自身にも問いが返ってくる。
どうしたら、自分は実習担当として、実習生に良い影響を与えられるか。
結局、背中で見せるしかないというのが答えである。
不備を指摘すればするほど、自分のことのようで反省の日々である。
例えば低学年で「お友達を叩いてしまった」でも何でもいい。
その時、どう対応するかは無限にあるが、かなり多いのが次の対応。
「なぜ(または『どうして』)叩いちゃったの?」(WHY)
気持ちをきこうという点ではいいのだが、これは答えにくい。
どう答えていいかわからず、黙ることになる。
または色々考えてうだうだ話し始めるが、要領を得ない。
「幼稚園の頃にいじわるをされた」というような無理矢理感のある理由をこじつける場合もある。
尋ねた側は恐らく「何があったの?」(WHAT)がわかればいいのだが、「なぜ」だと、行動の根本的な原因を問うことになる。
「なぜ廊下を走ったの?」も同様で、高学年なら色々理由はつけるが、本音は
「走りたかったから走った」のである。
そんなことより、尋ねるべきは
「次はどうしたらいい?」(HOW)
である。
繰り返されるのが問題なのだから、次にうまくいく方法を準備することが肝要である。
例え行動の原因が明確にわかっても、解決には至らない。
これは、実習生への指導にもいえる。
例えば指導案や指導の様子を見て、何か不備があったとする。
(その勉強をしに来ているのだから、不備は当たり前である。)
ここで「なぜ?」をあまりしつこく聞いてもしょうがない。
それよりも「どうしたい」「どうしたら」という視点で尋ねてみる。
答えは、それぞれ自分自身の中にある。
上から目線で「指導しよう」などと思うよりも、実習生自身が頭の中から引っ張り出すことである。
そんなことを意識していると、自分自身にも問いが返ってくる。
どうしたら、自分は実習担当として、実習生に良い影響を与えられるか。
結局、背中で見せるしかないというのが答えである。
不備を指摘すればするほど、自分のことのようで反省の日々である。
2016年10月27日木曜日
サークル活動で他律的自律
「木更津技法研」というサークルがある。
野口芳宏先生のご自宅で月1回の学習会を行う。
私も、今の学校に異動するまで、毎月参加していた。
今でも参加したいのだが、勤務地が遠く退勤時刻が遅い以上、どうしても例会の時刻に間に合わない。
土日開催の特別な行事には参加できるのだが、平日の例会には参加できていない。
通勤時間がかかるというのは、思った以上に様々なことを諦めることになった。
自分を磨く最高の場であっただけに、残念無念である。
そこで、友人たちと勤務校の近くで新しくサークル活動を始めた。
少人数の小さな会である。
月1回の例会で、実践報告等をし合う。
大きなことはしないが、学びがある。
外での学びにも色々ある。
セミナーに参加すると、いい方法などたくさん知れてためになる。
最新の知識が得られたりもする。
これは「受け手」としての学びになる。
これはこれで必要である。
しかし、サークル活動は、受け手ではなく、「送り手」として主体的に学べる。
新しい知識を得ること以上に、自分の実践を見てもらい、振り返る機会になる。
また、メンバーの実践発表が、自分にとっての刺激になる。
はるか遠い立場の講師の話ではなく、身近な仲間の実践である。
大きなことをした訳ではないが、一歩前進した感があった。
忙しいと、どうしても外に目が向かなくなる。
自分の校内のことで手一杯である。
先に紹介した野口芳宏先生からは、いつも忙しいに決まっているのだから、先に予定を入れ込めということを教わった。
忙しくなってからだと、色々言い訳をしてやらなくなる。
だから、先に予定として決めて入れておく。
そうすると、やらざるを得なくなる。
「他律的自律」である。
サークルメンバーの実践発表で「学級通信を毎日出します」と保護者に宣言したというのがあったが、これも同様である。
そうせざるを得ない場に自分を追い込む。
私の勤務校だと、教育実習生をたくさん見ながら、並行して研究をせざるを得ない状況に追い込まれる。
やらざるを得ないという状況が自分を鍛えてくれる。
ある意味で「有難い」ことである。
校内に、やらなくてはいけない仕事は「無限」にある。
だからこそ、どこかで線引きをして、自ら外へ出て学ぶ時間を設定する必要があるのではないかと思った次第である。
野口芳宏先生のご自宅で月1回の学習会を行う。
私も、今の学校に異動するまで、毎月参加していた。
今でも参加したいのだが、勤務地が遠く退勤時刻が遅い以上、どうしても例会の時刻に間に合わない。
土日開催の特別な行事には参加できるのだが、平日の例会には参加できていない。
通勤時間がかかるというのは、思った以上に様々なことを諦めることになった。
自分を磨く最高の場であっただけに、残念無念である。
そこで、友人たちと勤務校の近くで新しくサークル活動を始めた。
少人数の小さな会である。
月1回の例会で、実践報告等をし合う。
大きなことはしないが、学びがある。
外での学びにも色々ある。
セミナーに参加すると、いい方法などたくさん知れてためになる。
最新の知識が得られたりもする。
これは「受け手」としての学びになる。
これはこれで必要である。
しかし、サークル活動は、受け手ではなく、「送り手」として主体的に学べる。
新しい知識を得ること以上に、自分の実践を見てもらい、振り返る機会になる。
また、メンバーの実践発表が、自分にとっての刺激になる。
はるか遠い立場の講師の話ではなく、身近な仲間の実践である。
大きなことをした訳ではないが、一歩前進した感があった。
忙しいと、どうしても外に目が向かなくなる。
自分の校内のことで手一杯である。
先に紹介した野口芳宏先生からは、いつも忙しいに決まっているのだから、先に予定を入れ込めということを教わった。
忙しくなってからだと、色々言い訳をしてやらなくなる。
だから、先に予定として決めて入れておく。
そうすると、やらざるを得なくなる。
「他律的自律」である。
サークルメンバーの実践発表で「学級通信を毎日出します」と保護者に宣言したというのがあったが、これも同様である。
そうせざるを得ない場に自分を追い込む。
私の勤務校だと、教育実習生をたくさん見ながら、並行して研究をせざるを得ない状況に追い込まれる。
やらざるを得ないという状況が自分を鍛えてくれる。
ある意味で「有難い」ことである。
校内に、やらなくてはいけない仕事は「無限」にある。
だからこそ、どこかで線引きをして、自ら外へ出て学ぶ時間を設定する必要があるのではないかと思った次第である。
2016年10月25日火曜日
「何のため」を問い直す
教育実習をやっていると、色々と実習生から質問を受ける。
新鮮な視点から尋ねられるので、こちらも勉強になる。
例えば、「今日のめあて」は書かないのですかというのがあった。
なるほど、確かにやっている学級は結構多い。
やってもいいのである。
ただ、現在の学級には必要がないと判断し、やっていないだけである。
代わりに、学級目標は毎日読む。
必要と考え、活用しているからである。
学級目標だって、必要がないならなくてもいい。
学級通信や日記、宿題等も同様。
必要に応じてあるものであって、ねらいに応じての選択である。
学校の中には様々な「常識」がある。
注意しないと、何のためにやっているのか、ねらいが何なのかわからないでやっている場合がある。
要るのか要らないのか判断しないで「前からそうだから」というのは振り返る必要がある。
これは、学校以外の様々な企業にも当てはまることだと思う。
その点、外からの視点というのは貴重である。
教員でない友人と話すと、「あれ、何であるの?」という疑問を結構抱いていることが多い。
また、自分の勤務している県で常識でも、他県はやっていないということも多い。
問題は、「常識」だと思い込んでいるため、話題にも上がらないことである。
例えば、他県には制服の公立小学校が結構あると知った時、驚いた。理由を聞いてまた驚いた。
常識だと思っていることは、ゼロベースで疑ってかかる必要がある。
それがあるのは、何のため。
時々振り返って考えると、面白い発見がある。
新鮮な視点から尋ねられるので、こちらも勉強になる。
例えば、「今日のめあて」は書かないのですかというのがあった。
なるほど、確かにやっている学級は結構多い。
やってもいいのである。
ただ、現在の学級には必要がないと判断し、やっていないだけである。
代わりに、学級目標は毎日読む。
必要と考え、活用しているからである。
学級目標だって、必要がないならなくてもいい。
学級通信や日記、宿題等も同様。
必要に応じてあるものであって、ねらいに応じての選択である。
学校の中には様々な「常識」がある。
注意しないと、何のためにやっているのか、ねらいが何なのかわからないでやっている場合がある。
要るのか要らないのか判断しないで「前からそうだから」というのは振り返る必要がある。
これは、学校以外の様々な企業にも当てはまることだと思う。
その点、外からの視点というのは貴重である。
教員でない友人と話すと、「あれ、何であるの?」という疑問を結構抱いていることが多い。
また、自分の勤務している県で常識でも、他県はやっていないということも多い。
問題は、「常識」だと思い込んでいるため、話題にも上がらないことである。
例えば、他県には制服の公立小学校が結構あると知った時、驚いた。理由を聞いてまた驚いた。
常識だと思っていることは、ゼロベースで疑ってかかる必要がある。
それがあるのは、何のため。
時々振り返って考えると、面白い発見がある。
2016年10月23日日曜日
自分と相手への合理的配慮
前号のインクルーシブ教育の話の続き。
本人の困り感に共感するのは難しい。
外から見て明らかに困難が確認できるものは、配慮されやすい。
しかし、内面的なものは目に見えない。
下手すると「単なるわがまま」と混同されてしまうのが辛いところである。
ここに「合理的配慮」が必要である。
簡単に言うと、
「AさんにやってもBさんにはやらない」というようなことである。
Aさんには必要なことだから配慮する。
Bさんには必要ないことだから配慮しない。
講師の先生はこれを「横並びからの脱却」と表現していた。
一律に同じ指導・支援をしないということである。
ただ、合理的である反面、何でもかんでも個の要求通りにはできないという面もある。
つまりは、自己理解と他者理解の両方が必要ということであると解釈した。
Aさんにはこれが自力ではできない。
だから、助ける必要がある。
しかし、Aさんにとって必要な支援が、自分には提供できない。
だから、他の人の助けが要る。
それは、周りの子どもかもしれないし、同僚かもしれないし、外部機関の人かもしれない。
そういう思考ができないと、無闇に「頑張る」という方向になってしまう。
頑張ってもダメなことだから合理的配慮が必要なのである。
(なお、よく頑張れる人は、他者にも頑張ることを強要する傾向があるので、注意が必要である。)
相手に合理的配慮が必要なのと同様、自分にも必要である。
自分にできることは何なのかを理解する。
それを考えるために、自分にできないことは何なのかを理解する。
コインの裏表と同じで、二つでワンセットである。
自分と相手、それぞれできないことを見極め、できることに全力を尽くしたい。
本人の困り感に共感するのは難しい。
外から見て明らかに困難が確認できるものは、配慮されやすい。
しかし、内面的なものは目に見えない。
下手すると「単なるわがまま」と混同されてしまうのが辛いところである。
ここに「合理的配慮」が必要である。
簡単に言うと、
「AさんにやってもBさんにはやらない」というようなことである。
Aさんには必要なことだから配慮する。
Bさんには必要ないことだから配慮しない。
講師の先生はこれを「横並びからの脱却」と表現していた。
一律に同じ指導・支援をしないということである。
ただ、合理的である反面、何でもかんでも個の要求通りにはできないという面もある。
つまりは、自己理解と他者理解の両方が必要ということであると解釈した。
Aさんにはこれが自力ではできない。
だから、助ける必要がある。
しかし、Aさんにとって必要な支援が、自分には提供できない。
だから、他の人の助けが要る。
それは、周りの子どもかもしれないし、同僚かもしれないし、外部機関の人かもしれない。
そういう思考ができないと、無闇に「頑張る」という方向になってしまう。
頑張ってもダメなことだから合理的配慮が必要なのである。
(なお、よく頑張れる人は、他者にも頑張ることを強要する傾向があるので、注意が必要である。)
相手に合理的配慮が必要なのと同様、自分にも必要である。
自分にできることは何なのかを理解する。
それを考えるために、自分にできないことは何なのかを理解する。
コインの裏表と同じで、二つでワンセットである。
自分と相手、それぞれできないことを見極め、できることに全力を尽くしたい。
2016年10月21日金曜日
インクルーシブ教育と違いへの理解の困難
研修で、特別支援学校の先生のお話を聞く機会があったので気付きのシェア。
「インクルーシブ教育」と「合意的配慮」がテーマだった。
インクルーシブ教育が「すべての子どもにとってよいもの」である以上、個人差の存在が前提である。
障害を含めた違いを包含(インクルーシブ)する教育である。
(他の教育用語同様にやたらカタカナなのは気になるが、内容は共感できる。)
つまり、違いが前提にある。
磨き合う集団は、違いを認め合うことが絶対条件である。
違うからこそ、磨き合える。
本当に磨き合う集団ならば、インクルーシブ教育が成立しているはずである。
この、違いを認めるというのが、学校(特に公立校)にとっては大変難しいという話だった。
学校というのは、「同じ・公平」が求められるという。
誤解を怖れずいえば、「違いを認めないこと」を奨励している。
例えば「運動会で手をつないでゴール」のような行きすぎた例が取り沙汰される。
学校側は「そんなことはない」と言うが、実際「同じ」を求める傾向は確かにある。
時間や内容の枠が決まっている以上、ある程度揃わないと、事が進まないのである。
例えば、体育の場面。
ものすごく着替えがゆっくりな子どもがいる。
待ってあげたい。
しかし、時間が決まっている。
20分遅れられると、活動時間が半分になってしまう。
しかも、原則として、そういう子ども一人を教室に残して先に始める訳にもいかない。
しかし、遅いのも「違い」である。
ここを認めながら成立させよということである。
大変な困難が伴う。(困難というより、手立てが見つからないと、努力しても不可能である。)
こういうことを言うと、「本人の気持ちの問題」だと考える人もいる。
ここが大変難しく、本人的にフルスピードであったりする。
ここは、本人にしかわからない。
普通にできる人にとっては、ふざけているようにしか見えないのが辛いところである。
例えば、私は字をきれいに書くことが苦手である。
真面目に書いているけど、ダメなのである。
この気持ちを理解してくれる人とそうでない人の理解度の違いは、天地の差である。
ほとんどの人が、頭では理解しているつもりで、「でも、本当はやる気の問題よね」と思っている。
ここを本当に理解できるかである。
違いを認めるというのは大変な気合いと覚悟と、深い人間理解がいる。
長くなったので次号に続く。
「インクルーシブ教育」と「合意的配慮」がテーマだった。
インクルーシブ教育が「すべての子どもにとってよいもの」である以上、個人差の存在が前提である。
障害を含めた違いを包含(インクルーシブ)する教育である。
(他の教育用語同様にやたらカタカナなのは気になるが、内容は共感できる。)
つまり、違いが前提にある。
磨き合う集団は、違いを認め合うことが絶対条件である。
違うからこそ、磨き合える。
本当に磨き合う集団ならば、インクルーシブ教育が成立しているはずである。
この、違いを認めるというのが、学校(特に公立校)にとっては大変難しいという話だった。
学校というのは、「同じ・公平」が求められるという。
誤解を怖れずいえば、「違いを認めないこと」を奨励している。
例えば「運動会で手をつないでゴール」のような行きすぎた例が取り沙汰される。
学校側は「そんなことはない」と言うが、実際「同じ」を求める傾向は確かにある。
時間や内容の枠が決まっている以上、ある程度揃わないと、事が進まないのである。
例えば、体育の場面。
ものすごく着替えがゆっくりな子どもがいる。
待ってあげたい。
しかし、時間が決まっている。
20分遅れられると、活動時間が半分になってしまう。
しかも、原則として、そういう子ども一人を教室に残して先に始める訳にもいかない。
しかし、遅いのも「違い」である。
ここを認めながら成立させよということである。
大変な困難が伴う。(困難というより、手立てが見つからないと、努力しても不可能である。)
こういうことを言うと、「本人の気持ちの問題」だと考える人もいる。
ここが大変難しく、本人的にフルスピードであったりする。
ここは、本人にしかわからない。
普通にできる人にとっては、ふざけているようにしか見えないのが辛いところである。
例えば、私は字をきれいに書くことが苦手である。
真面目に書いているけど、ダメなのである。
この気持ちを理解してくれる人とそうでない人の理解度の違いは、天地の差である。
ほとんどの人が、頭では理解しているつもりで、「でも、本当はやる気の問題よね」と思っている。
ここを本当に理解できるかである。
違いを認めるというのは大変な気合いと覚悟と、深い人間理解がいる。
長くなったので次号に続く。
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