今回は、上越教育大学教授の赤坂真二先生の記事から。
赤坂先生には、雑誌や編著で何本も書かせてもらい、個人的に大変お世話になっている恩人である。
↓参考『学級を最高のチームにする極意』シリーズ「学級開き」
http://www.amazon.co.jp/dp/4181852156
赤坂先生は、大学の偉い教授とはとても思えない(思わせない)気さくな方である。
本当にすごい人というのは、普段接している時にそれを変に感じさせない。
何というか、人間味がある。
立場や年齢の上下を越えて接してくれる。
私の尊敬する野口芳宏先生と通ずるものを感じる。
とにかく一度会ってみると初めてわかる感じのすごさである。
さて、本題。
赤坂先生の、次の記事を紹介する。
『協働は万能ではない』↓教育zine 明治図書オンライン
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/jichi/?id=20160136
記事の中に、「協働の光と闇」という項がある。
協働学習に万能性を感じているなら、必読である。
記事の中にある「全ては万能ではない」という認識。
大切である。
よく引用するが、ソクラテスの「無知の知」である。
一斉学習否定も、ここにあたる。
アクティブ・ラーニング推奨は、一斉学習を否定するものではない。
協働学習のみを全肯定するものでもない。
放っておくと何かに偏るから、そこに警鐘を鳴らしているわけである。
アクティブ・ラーニングの中には、多様な学習方法と状態が含まれる。
時に一斉学習、時に体験活動、時に個人作業で、時に協働学習なのである。
全員がずっと主体的でいてくれれば最高だが、現実はそうもいかないので、受動的に入ることもある。
こんなことは、数年の経験のある方なら、知っていることだと思う。
しかし、若手、特に新卒の人にとっては、こんなことだって、言われないとわからない。
言われないとわからないのは本人が悪いのではなく、わからなくて当たり前で、周りがきちんと言わないからである。
知らないことは、察しようもないのである。
(時々、この点において「それぐらいわかれ」みたいな理不尽な人がいるが、異星人だと思って聞き流すに限る。
新しく入る人は、その場の古いしきたりや暗黙の了解なぞ知るはずがないのである。)
偏らないこと。
いや、偏ってもいいが、偏っていることを自覚すること。
万能の方法はなく、新たに学び続ける以外に活路はないと心得ること。
当たり前ながら、結構大切な心構えである。
2016年4月29日金曜日
円
まぐまぐの「知識知恵・人生哲学」部門で受賞しているメルマガらしく、哲学の話。
最近、「円」についてよく考える。
円とはいっても、お金のことではない。
「〇」の方の円である。
多分、ここしばらく、禅関係の本を読んでいるからだと思う。
禅の心を形で示したのが〇(円)である。
いっそ、「凹」「凸」のように「〇」という漢字にしてしまえばいいと思った。
ちなみに「国」等の漢字の部首である「□」(くにがまえ)は、「円」と近い意味である。
しかし、最近、はたと気付いたのである。
「円」という字をよく見ると、部屋が二つに分かれている。
それぞれの部屋に、真逆のものがおさまっているのではないか。
善と悪。
権利と義務。
労働と対価。
勤労と奉仕。
代償と成果。
男と女。
親と子。
生徒と教師。
私とあなた。
・・・・・・・
眺めてみると、逆のようで、本質は同じである。
コインやお札の裏表と同じである。
裏表セットでないと、機能しない。
多くの場合、分ける意味もない。
この「裏表」(うらおもて)という言葉も、辞書で引くと面白いことがわかる。
「表裏」(おもてうら)より「裏表」の方が、辞書の登録数が多い。
私の手元の電子辞書では、
「裏表」は5つの辞書で表示されるが、
「表裏」は明鏡国語辞典ただ一つの結果である。
試しに、パソコンで変換してみても、
「裏表」は一発で単語として変換されるが、
「表裏」は、一文字ずつの変換である。
「うらおもて」は、訓読みである。
和語である。
つまり、日本では「裏」が「表」より先にくる。
「表裏」(ひょうり)は漢語である。
こちらは、表が裏より先である。
どちらが先に来るかということは、結構重要なポイントである。
大切と思われる方が、先にくる。
意図されている。
しかし、「円」の前において、それは無意味である。
円には、上下左右もない。
ただ巡り巡る円である。
そう考えると、「円」という字に二つ部屋があるのは、はたと気付かされる面がある。
二つで円、というメッセージが伝わってくるように思ったのである。
自分のやっていることも、目の前の子どものやることも、それぞれの円である。
自分自身が、いびつな円になっていないか、俯瞰して見る目を持ちたい。
最近、「円」についてよく考える。
円とはいっても、お金のことではない。
「〇」の方の円である。
多分、ここしばらく、禅関係の本を読んでいるからだと思う。
禅の心を形で示したのが〇(円)である。
いっそ、「凹」「凸」のように「〇」という漢字にしてしまえばいいと思った。
ちなみに「国」等の漢字の部首である「□」(くにがまえ)は、「円」と近い意味である。
しかし、最近、はたと気付いたのである。
「円」という字をよく見ると、部屋が二つに分かれている。
それぞれの部屋に、真逆のものがおさまっているのではないか。
善と悪。
権利と義務。
労働と対価。
勤労と奉仕。
代償と成果。
男と女。
親と子。
生徒と教師。
私とあなた。
・・・・・・・
眺めてみると、逆のようで、本質は同じである。
コインやお札の裏表と同じである。
裏表セットでないと、機能しない。
多くの場合、分ける意味もない。
この「裏表」(うらおもて)という言葉も、辞書で引くと面白いことがわかる。
「表裏」(おもてうら)より「裏表」の方が、辞書の登録数が多い。
私の手元の電子辞書では、
「裏表」は5つの辞書で表示されるが、
「表裏」は明鏡国語辞典ただ一つの結果である。
試しに、パソコンで変換してみても、
「裏表」は一発で単語として変換されるが、
「表裏」は、一文字ずつの変換である。
「うらおもて」は、訓読みである。
和語である。
つまり、日本では「裏」が「表」より先にくる。
「表裏」(ひょうり)は漢語である。
こちらは、表が裏より先である。
どちらが先に来るかということは、結構重要なポイントである。
大切と思われる方が、先にくる。
意図されている。
しかし、「円」の前において、それは無意味である。
円には、上下左右もない。
ただ巡り巡る円である。
そう考えると、「円」という字に二つ部屋があるのは、はたと気付かされる面がある。
二つで円、というメッセージが伝わってくるように思ったのである。
自分のやっていることも、目の前の子どものやることも、それぞれの円である。
自分自身が、いびつな円になっていないか、俯瞰して見る目を持ちたい。
2016年4月27日水曜日
問題を知る、見つめる
3月11日にメルマガで書いた記事。
====================
東日本大震災から丸5年。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、まだ過ぎていない。
見ていないだけである。
問題が目の間にあるのに、目を逸らしているだけである。
見ていないというより、見て見ぬふりをしているといった方が正確である。
改善された地域、立ち直れた人がいる一方で、何も変わっていないところもある。
福島の原発周辺がそれである。
手が付けられない状態は、ずっと変わっていない。
原発の放射能問題ははっきりと残ったままである。
都心部周辺に住んでいると、復興したかのような錯覚を覚える。
現実は、復興とはほど遠い現状である。
正直、自分の力では、どうにもできない。
目の前にある問題に対し、手も足も出ない。
原発問題に限らず、日常にも起きることである。
自分にはどうにもできないからといって、自分にも関わる問題を見ようとしないのは、解決から最も遠ざかる在り方である。
主体的で協働的な人間の在り方とはいえない。
まずは、知ること。
そして、改めて見つめ直すこと。
誰にでもできることである。
今日は、震災と現状について知り、見つめ直す日にしたい。
=========================
この記事を書いた時、熊本の地震が来るとは思っていなかった。
まずは知ること。
その上で、できることを考える。
今は熊本に目が向くが、福島も未解決のままである。
今後も被災地には関心を注いでいきたい。
====================
東日本大震災から丸5年。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、まだ過ぎていない。
見ていないだけである。
問題が目の間にあるのに、目を逸らしているだけである。
見ていないというより、見て見ぬふりをしているといった方が正確である。
改善された地域、立ち直れた人がいる一方で、何も変わっていないところもある。
福島の原発周辺がそれである。
手が付けられない状態は、ずっと変わっていない。
原発の放射能問題ははっきりと残ったままである。
都心部周辺に住んでいると、復興したかのような錯覚を覚える。
現実は、復興とはほど遠い現状である。
正直、自分の力では、どうにもできない。
目の前にある問題に対し、手も足も出ない。
原発問題に限らず、日常にも起きることである。
自分にはどうにもできないからといって、自分にも関わる問題を見ようとしないのは、解決から最も遠ざかる在り方である。
主体的で協働的な人間の在り方とはいえない。
まずは、知ること。
そして、改めて見つめ直すこと。
誰にでもできることである。
今日は、震災と現状について知り、見つめ直す日にしたい。
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この記事を書いた時、熊本の地震が来るとは思っていなかった。
まずは知ること。
その上で、できることを考える。
今は熊本に目が向くが、福島も未解決のままである。
今後も被災地には関心を注いでいきたい。
2016年4月25日月曜日
「売り方」より「在り方」
どう売るかは、大切である。
どんなにいいモノであっても、知ってもらわねば人の手に渡らない。
経済用語で「マーケティング」などというが、ここはあながち軽視できない。
宣伝はしっかりして、まずは人々に知ってもらう必要がある。
(という訳で一応宣伝。ぜひご一読いただきたい。)
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
しかし、それ以上にもっと大切なのは、その商品の内容そのものである。
宣伝してせっかく買ってもらっても、内容が悪ければ、トータルでマイナスである。
それなら、買ってもらわない方がよかったということになる。
つまり、「売り方」以上に「在り方」である。
本でいうなら、ロングセラーのものは、在り方、つまり内容そのものがいいのである。
これは、授業やその他の指導にも当てはまる。
教材の提示の仕方から、指示、発問の仕方、活動内容まで、どう教えるか。
これは、先の話でいうと、「売り方」にあたる。
そもそも興味を持ってくれないと、話が進まないのだから、大切である。
一方、それはどんな人物が教えているのか。
本気で、その教材のどんなところが良いと思って授業しているのか。
普段どんな言動で、どんな感じ方をしているのか。
これは、先の例の「在り方」にあたる。
教え方の技術があっても、こっちがなければ、言葉に重みもない。
逆に、教え方は割と普通でも、子どもがよく育つクラスは、教師の人間性が優れている可能性が高い。
先日、私の尊敬するあるベテランの先生に会って、道徳の授業について話す機会があった。
この先生のクラスの子どもは、毎年ものすごく元気になって、自発的になって、いきいきするのである。
さらに、礼儀正しくなって、根性がついて、人に優しくなる。
ついでに、悔しいことに、学力も体力もばっちりつく。
まあ、無敵である。
さぞ道徳の授業にも力を入れているかと思いきや「実は、かなり適当で・・・」とのこと。
しかし、私は知っている。
この先生は、普段から、めちゃくちゃ熱いのである。
まず、いつもニコニコしている。
そして、これでもかというぐらいよく褒めたり驚いたりする。
職員室でもそういうことを嬉しそうに話すので、子どもが本当に好きだとよくわかる。
(ついでに、学年の仲間など周りの職員に対してもめちゃくちゃ感謝して、いつも褒めている。
「陰口」ならぬ「陰褒め」もよくしている。)
上っ面でなく、子どものやることに本気で感動しているのである。
そして、悪いことをするとかなり怒る。
本気で怒る。
しかも、すぐ泣く。
感動しても泣くし、子どもが悪いことをしてもその行為を哀しんで一緒に泣く。
こうやって文字にすると、感情的でダメだという見方をするかもしれないが、ご本人を見れば恐らくその感想はなくなる。
教え方以上に、教師としての「在り方」が違うのである。
だから、ご本人曰く「適当」な道徳授業でも、かなり芯のある子どもに育つ。
在り方。
どう在るのか。
背中である。
技術は無論大切だが、そこではないところに、本質があると思う次第である。
どんなにいいモノであっても、知ってもらわねば人の手に渡らない。
経済用語で「マーケティング」などというが、ここはあながち軽視できない。
宣伝はしっかりして、まずは人々に知ってもらう必要がある。
(という訳で一応宣伝。ぜひご一読いただきたい。)
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
しかし、それ以上にもっと大切なのは、その商品の内容そのものである。
宣伝してせっかく買ってもらっても、内容が悪ければ、トータルでマイナスである。
それなら、買ってもらわない方がよかったということになる。
つまり、「売り方」以上に「在り方」である。
本でいうなら、ロングセラーのものは、在り方、つまり内容そのものがいいのである。
これは、授業やその他の指導にも当てはまる。
教材の提示の仕方から、指示、発問の仕方、活動内容まで、どう教えるか。
これは、先の話でいうと、「売り方」にあたる。
そもそも興味を持ってくれないと、話が進まないのだから、大切である。
一方、それはどんな人物が教えているのか。
本気で、その教材のどんなところが良いと思って授業しているのか。
普段どんな言動で、どんな感じ方をしているのか。
これは、先の例の「在り方」にあたる。
教え方の技術があっても、こっちがなければ、言葉に重みもない。
逆に、教え方は割と普通でも、子どもがよく育つクラスは、教師の人間性が優れている可能性が高い。
先日、私の尊敬するあるベテランの先生に会って、道徳の授業について話す機会があった。
この先生のクラスの子どもは、毎年ものすごく元気になって、自発的になって、いきいきするのである。
さらに、礼儀正しくなって、根性がついて、人に優しくなる。
ついでに、悔しいことに、学力も体力もばっちりつく。
まあ、無敵である。
さぞ道徳の授業にも力を入れているかと思いきや「実は、かなり適当で・・・」とのこと。
しかし、私は知っている。
この先生は、普段から、めちゃくちゃ熱いのである。
まず、いつもニコニコしている。
そして、これでもかというぐらいよく褒めたり驚いたりする。
職員室でもそういうことを嬉しそうに話すので、子どもが本当に好きだとよくわかる。
(ついでに、学年の仲間など周りの職員に対してもめちゃくちゃ感謝して、いつも褒めている。
「陰口」ならぬ「陰褒め」もよくしている。)
上っ面でなく、子どものやることに本気で感動しているのである。
そして、悪いことをするとかなり怒る。
本気で怒る。
しかも、すぐ泣く。
感動しても泣くし、子どもが悪いことをしてもその行為を哀しんで一緒に泣く。
こうやって文字にすると、感情的でダメだという見方をするかもしれないが、ご本人を見れば恐らくその感想はなくなる。
教え方以上に、教師としての「在り方」が違うのである。
だから、ご本人曰く「適当」な道徳授業でも、かなり芯のある子どもに育つ。
在り方。
どう在るのか。
背中である。
技術は無論大切だが、そこではないところに、本質があると思う次第である。
2016年4月23日土曜日
被災地に何を送るべきか・送らないべきか
熊本で、支援物資が届かなくて困っているという。
一方で、どうでもいいものを送られて困っているという実態もある。
物流には、配送や備蓄場所という要素があることも考えなくてはいけない。
東北の被災経験のある方の話だと、「なるべく新しいものを」とのこと。
賞味期限切れの食べ物やぼろぼろの古着など送られても困るだけでなく、気持ちも滅入るという。
被災地の人の心が暗くなるようではいけない。
リサイクルショップに物を持ち込む感覚では逆に迷惑ということである。
「自分がもらって嬉しいもの」である必要がある。
送るものは、物資だけでなく気持ちも含まれる。
その物資を受け取った時、被災地の人が少しでも明るい気持ちになることが大切である。
また、これは原田隆史先生のメルマガで知ったことだが、「なるべく同じものをまとめて送る」というのも大切なポイントであるという。
良かれと思ってあれもこれもと思い付くままに段ボールに詰めて送ると、受け取る側に「仕分け」という余計な作業が入る。
負担なくできるように、同じ物資をまとめて送るのが正解という。
ともあれ、現場は混乱の様相である。
直接助けに行くことが逆に足手まといになることもあるというから難しい。
躊躇しすぎるのはいけないが、その支援は本当に相手に助かるのかという視点も大切である。
教育にもいえることであると思う。
一方で、どうでもいいものを送られて困っているという実態もある。
物流には、配送や備蓄場所という要素があることも考えなくてはいけない。
東北の被災経験のある方の話だと、「なるべく新しいものを」とのこと。
賞味期限切れの食べ物やぼろぼろの古着など送られても困るだけでなく、気持ちも滅入るという。
被災地の人の心が暗くなるようではいけない。
リサイクルショップに物を持ち込む感覚では逆に迷惑ということである。
「自分がもらって嬉しいもの」である必要がある。
送るものは、物資だけでなく気持ちも含まれる。
その物資を受け取った時、被災地の人が少しでも明るい気持ちになることが大切である。
また、これは原田隆史先生のメルマガで知ったことだが、「なるべく同じものをまとめて送る」というのも大切なポイントであるという。
良かれと思ってあれもこれもと思い付くままに段ボールに詰めて送ると、受け取る側に「仕分け」という余計な作業が入る。
負担なくできるように、同じ物資をまとめて送るのが正解という。
ともあれ、現場は混乱の様相である。
直接助けに行くことが逆に足手まといになることもあるというから難しい。
躊躇しすぎるのはいけないが、その支援は本当に相手に助かるのかという視点も大切である。
教育にもいえることであると思う。
2016年4月21日木曜日
「何のため」にそこに行くのか
先月、苺狩りに出かけた。
今、千葉県の南房総では、苺狩りがシーズンである。
苺狩りというのは、結構値が張る。
苺というのは可食部の90%が水分であり、そんなに多量に食べられるものではない。
(そして、どんなにお腹いっぱい食べても、別に食事はしたくなる。要は、ほぼ水なのである。)
単純に値段に対し食べられる量としては、割がいいとはいえない。
それでも多くの人で賑わうのは、それが「レジャー」としての価値が高いからである。
苺のハウスに入っておいしそうなものを選びながら、その場でもいで食べるのが、無条件に楽しいのである。
ある子連れのご家庭が一緒のハウスにいた。
苺狩りでテンションが上がり、当然はしゃぐ子どもたち。
その行動の逐一に母親が怒っている。
機嫌が悪いとしか思えない怒り方である。
苺狩りで子どもが喜んでいなかったら、その方が残念だと思うが、そこは怒ると気付かない。
苺狩りで、怒っているのである。
気持ちはわかるのだが、これは、目的からすると、かなり逸脱している。
お土産用の苺を買って帰った方が費用対効果がよい。
しかし、世の中そんなに論理的にはいかないので、とにかく怒って苺狩り。
それでも子どもは楽しそうだったので、レジャーに連れ出した父親としてはOKだったようである。
(そもそも、その母親が怒っていたのは父親のせいではないかとか色々邪推できるが、ここでは不明。)
苺狩りに限らず、どこに行くにも「何のために」を考えることは大切である。
こういうことを考えるのが「観」の発揮どころである。
教師は、学校に「何のため」に行くのか。
学校は、言わずもがな子どものための機関である。
そこに行く大人たちは、子どものために何かをしにいく。
何かを為して、成さねば行く意味がないのである。
少なくとも、疲れにいったり怒りにいくのではあるまい。
学校は、子どもと共に喜ぶ場でありたい。
今日は何に一緒に喜べるか、想像してみるのもいいかもしれない。
今、千葉県の南房総では、苺狩りがシーズンである。
苺狩りというのは、結構値が張る。
苺というのは可食部の90%が水分であり、そんなに多量に食べられるものではない。
(そして、どんなにお腹いっぱい食べても、別に食事はしたくなる。要は、ほぼ水なのである。)
単純に値段に対し食べられる量としては、割がいいとはいえない。
それでも多くの人で賑わうのは、それが「レジャー」としての価値が高いからである。
苺のハウスに入っておいしそうなものを選びながら、その場でもいで食べるのが、無条件に楽しいのである。
ある子連れのご家庭が一緒のハウスにいた。
苺狩りでテンションが上がり、当然はしゃぐ子どもたち。
その行動の逐一に母親が怒っている。
機嫌が悪いとしか思えない怒り方である。
苺狩りで子どもが喜んでいなかったら、その方が残念だと思うが、そこは怒ると気付かない。
苺狩りで、怒っているのである。
気持ちはわかるのだが、これは、目的からすると、かなり逸脱している。
お土産用の苺を買って帰った方が費用対効果がよい。
しかし、世の中そんなに論理的にはいかないので、とにかく怒って苺狩り。
それでも子どもは楽しそうだったので、レジャーに連れ出した父親としてはOKだったようである。
(そもそも、その母親が怒っていたのは父親のせいではないかとか色々邪推できるが、ここでは不明。)
苺狩りに限らず、どこに行くにも「何のために」を考えることは大切である。
こういうことを考えるのが「観」の発揮どころである。
教師は、学校に「何のため」に行くのか。
学校は、言わずもがな子どものための機関である。
そこに行く大人たちは、子どものために何かをしにいく。
何かを為して、成さねば行く意味がないのである。
少なくとも、疲れにいったり怒りにいくのではあるまい。
学校は、子どもと共に喜ぶ場でありたい。
今日は何に一緒に喜べるか、想像してみるのもいいかもしれない。
2016年4月19日火曜日
子どもが嘘を正直に告白した時には
子どもの嘘への切り返し。
これは、かなりその人の「観」が現れる。
今回は拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』からの引用である。
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
========
(引用開始)
前述した「人が傷つく嘘をつくことはいけない」というのは,決して教えられることではなく,本人が感じ学びとるものだというのが私の実感です。
私が子どもの頃のエピソードです。
母が,「500円玉貯金」というものをしていました。
500円玉をある程度ためて,それを銀行に積んでいたようです。
銀行に入れる前に,一時保留されているカゴがありました。
当時小学2年生だった自分にとって,500円は大きな価値と魅力がありました。
ある日,出来心でその500円玉をとってしまいました。
1枚とった後,2枚,3枚ととった記憶があります。
(そもそも,そこにそれを放置しておくのがどうかという問題は脇に置いておきます。)
ところがしばらくして母が「あれ。何か少ない気がする。」と言いました。
良心が痛んだ自分は「お母さんごめんなさい。僕がとった。」と正直に言ってお金を差し出しました。
悪さをした時には厳しい親だったので,無茶苦茶怒られるのは覚悟の上です。
母の反応は,意外にも「正直に言ってくれてありがとう」でした。
「きちんと言ってくれる子どもに育ってくれて嬉しい」とも言ってくれました。
それ以来,手の届く位置にお金が置いてあっても,決して手をつけなくなりました。
何か「盗みやずるはいけない」ということが,言われずに体に染みこんだ気がします。
もしあの場で,無茶苦茶怒られても,決して怒られたことを恨んだりはしなかったとは思います。
ただ,もしかしたら,言ったことを後悔したかもしれないとも思います。
結構いい加減なところも多い母親ですが,いい教育をしてくれたと今でも感謝の気持ちを持っています。
(引用終了)
================
本の中に、コラム欄がいくつかある。
これは、「切り返し」ではないけれど、ぜひ載せたいと思った記事を何とかコラムという形で載せてもらったものである。
コラム欄がわりと気に入っている。
立ち読みする際には、短時間で完結するのでここだけでも読んでみていただきたい。
これは、かなりその人の「観」が現れる。
今回は拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』からの引用である。
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
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(引用開始)
前述した「人が傷つく嘘をつくことはいけない」というのは,決して教えられることではなく,本人が感じ学びとるものだというのが私の実感です。
私が子どもの頃のエピソードです。
母が,「500円玉貯金」というものをしていました。
500円玉をある程度ためて,それを銀行に積んでいたようです。
銀行に入れる前に,一時保留されているカゴがありました。
当時小学2年生だった自分にとって,500円は大きな価値と魅力がありました。
ある日,出来心でその500円玉をとってしまいました。
1枚とった後,2枚,3枚ととった記憶があります。
(そもそも,そこにそれを放置しておくのがどうかという問題は脇に置いておきます。)
ところがしばらくして母が「あれ。何か少ない気がする。」と言いました。
良心が痛んだ自分は「お母さんごめんなさい。僕がとった。」と正直に言ってお金を差し出しました。
悪さをした時には厳しい親だったので,無茶苦茶怒られるのは覚悟の上です。
母の反応は,意外にも「正直に言ってくれてありがとう」でした。
「きちんと言ってくれる子どもに育ってくれて嬉しい」とも言ってくれました。
それ以来,手の届く位置にお金が置いてあっても,決して手をつけなくなりました。
何か「盗みやずるはいけない」ということが,言われずに体に染みこんだ気がします。
もしあの場で,無茶苦茶怒られても,決して怒られたことを恨んだりはしなかったとは思います。
ただ,もしかしたら,言ったことを後悔したかもしれないとも思います。
結構いい加減なところも多い母親ですが,いい教育をしてくれたと今でも感謝の気持ちを持っています。
(引用終了)
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本の中に、コラム欄がいくつかある。
これは、「切り返し」ではないけれど、ぜひ載せたいと思った記事を何とかコラムという形で載せてもらったものである。
コラム欄がわりと気に入っている。
立ち読みする際には、短時間で完結するのでここだけでも読んでみていただきたい。
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教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
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あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...