今回のタイトルも、先日紹介した地元有名校長先生から教わった言葉。
書き物として残す。
そうすると、誰かが読む。
誰かにとっては、役に立たない場合もある。
でも誰かにとっては、役に立つ場合もある。
書き物に残すことで、世代を越えて伝えられることもある。
自分なぞの書いたレポートだって、結構活用してくれている人がいる。
有り難いことである。
書き物は誰かを救う。
たった一人でも、誰かのためになれたら、幸せなことである。
2014年1月28日火曜日
2014年1月26日日曜日
「魔女の宅急便」 キキの魔法
前号の話の続き。
「自分の得意を100%提供する」ことに関連しての話。
角野栄子さん。
「魔女の宅急便」を書いた作家さんである。
「PHP2013年12月号 No.787」に特集で記事が載っていた。
記事の中で、こんな話が載っていた。
「魔女の宅急便」の主人公のキキ。
彼女は、魔女でありながら、「空を飛ぶ」以外の魔法は一切使えない。
それ以外はごく普通の女の子である。
「空を飛ぶ」が唯一の特技である。
それは「バイオリンが弾ける」「絵が上手」というのと同じである。
得意なたった一つのこと、それが全ての人に与えられた「魔法」であるという。
それを頼りに生きていく。
その力しかないからこそ、それを信じ、大切に使っていく。
そういう話が書いてあった。
これを読んで、やはり「得意の提供」だと感じた。
たった一つでもいい。
そこだけは、人の役に立てる。
それが、自信になる。
この「魔法」は、早くに見つけられる人もいれば、見つかるのが遅い人もいるという。
角野さんは、35歳で作家デビューしたのが、その時だったという。
自分自身、どんな「魔法」が提供できるのか、未だ見つからず模索している。
見つかっている気もするし、そうでない気もする。
持ってない気もするし、何かある気もする。
PHPの特集のタイトルは「心がぶれない生き方」。
私はぶれまくっていて、とても心に響いたので、紹介した。
「自分の得意を100%提供する」ことに関連しての話。
角野栄子さん。
「魔女の宅急便」を書いた作家さんである。
「PHP2013年12月号 No.787」に特集で記事が載っていた。
記事の中で、こんな話が載っていた。
「魔女の宅急便」の主人公のキキ。
彼女は、魔女でありながら、「空を飛ぶ」以外の魔法は一切使えない。
それ以外はごく普通の女の子である。
「空を飛ぶ」が唯一の特技である。
それは「バイオリンが弾ける」「絵が上手」というのと同じである。
得意なたった一つのこと、それが全ての人に与えられた「魔法」であるという。
それを頼りに生きていく。
その力しかないからこそ、それを信じ、大切に使っていく。
そういう話が書いてあった。
これを読んで、やはり「得意の提供」だと感じた。
たった一つでもいい。
そこだけは、人の役に立てる。
それが、自信になる。
この「魔法」は、早くに見つけられる人もいれば、見つかるのが遅い人もいるという。
角野さんは、35歳で作家デビューしたのが、その時だったという。
自分自身、どんな「魔法」が提供できるのか、未だ見つからず模索している。
見つかっている気もするし、そうでない気もする。
持ってない気もするし、何かある気もする。
PHPの特集のタイトルは「心がぶれない生き方」。
私はぶれまくっていて、とても心に響いたので、紹介した。
2014年1月24日金曜日
人は支えて、支えられて生きる
学級の係を減らして、気付いた人が進んでやることになっている。
配り物や窓の開閉、黒板をきれいにしたり、ちょっとした手伝いをするなど、様々である。
(黒板に自分で書いた文字は、自分できれいにした方が良いと思っているが、
進んでやってくれる子どもがいるので、有り難く思って敢えて任せている。)
そうすると、とてもよく気付いて動く子どもと、そうでない子どもに分かれる。
係から自主的な動きへの移行期として、この事態は不可避である。
当然、よく気付く子どもから不満とも疑問ともとれる言葉が出る。
「先生、これでいいのですか」と。
よくぞ言ってくれた、という感じである。
そこで、こんな話をした。
「人という字は、二つの棒が支え合ってできている。」
金八先生の有名な話である。
本物の「人」の字の語源とは違うが、本物よりわかりやすくて納得がいく。
そもそもこの話を考えたのは、新渡戸稲造だという。
さすがの偉人である。
ところで、その解釈でいくと、右側の棒が支え役である。
左側は、完全に寄りかかっている。
何だか、不公平ではないか。
そうではない。
右側の棒も、左側の棒がないと倒れてしまう。
力を発揮する対象がいてこそ、自分も立てる。
つまり、得意分野では大いに力を発揮すれば良い。
一方、苦手な分野では、助けてもらえば良い。
この役割は、常に変化する。
算数が得意な人は、算数で周りに力を提供すれば良い。
サッカーが得意な人は、サッカーの時に。
音楽が得意な人は、音楽の時に。
私は何も得意なことがないという人は、手伝いでも何でもやれることはある。
いつも明るく楽しい話を周りに提供できる人がいる。
話すのが苦手な人は、そういう人を羨ましく思う。
しかし話すのが苦手な人は、悩んでる人の悩みをきく役は最適である。
ついべらべらアドバイスをしてしまう人より、黙ってきいてくれる人の方が有り難い。
そこで力を発揮すればいい。
そばにいるだけで、役に立てている。
だから、自分がやれることは惜しみなく100%提供する。
脚が折れて松葉杖をついている仲間がいたら、今健康な自分が支えてやればいい。
心が折れている仲間がいたら、今心が元気な自分が支えてやればいい。
支えてもらっている側も、いつか支える側にまわればいい。
支えている方も、役に立っている自分に自信が持てるものである。
だから、お互い様である。
時に支えてもらって、時に支える。
学級は異なる人間の集まりなのだから、それでいい。
ただ、支えてもらいっ放しではいけない。
気付いた仕事は特定の人に頼らずやれるクラスにしたい。
そんな話をした。
何かの参考になれば幸いである。
配り物や窓の開閉、黒板をきれいにしたり、ちょっとした手伝いをするなど、様々である。
(黒板に自分で書いた文字は、自分できれいにした方が良いと思っているが、
進んでやってくれる子どもがいるので、有り難く思って敢えて任せている。)
そうすると、とてもよく気付いて動く子どもと、そうでない子どもに分かれる。
係から自主的な動きへの移行期として、この事態は不可避である。
当然、よく気付く子どもから不満とも疑問ともとれる言葉が出る。
「先生、これでいいのですか」と。
よくぞ言ってくれた、という感じである。
そこで、こんな話をした。
「人という字は、二つの棒が支え合ってできている。」
金八先生の有名な話である。
本物の「人」の字の語源とは違うが、本物よりわかりやすくて納得がいく。
そもそもこの話を考えたのは、新渡戸稲造だという。
さすがの偉人である。
ところで、その解釈でいくと、右側の棒が支え役である。
左側は、完全に寄りかかっている。
何だか、不公平ではないか。
そうではない。
右側の棒も、左側の棒がないと倒れてしまう。
力を発揮する対象がいてこそ、自分も立てる。
つまり、得意分野では大いに力を発揮すれば良い。
一方、苦手な分野では、助けてもらえば良い。
この役割は、常に変化する。
算数が得意な人は、算数で周りに力を提供すれば良い。
サッカーが得意な人は、サッカーの時に。
音楽が得意な人は、音楽の時に。
私は何も得意なことがないという人は、手伝いでも何でもやれることはある。
いつも明るく楽しい話を周りに提供できる人がいる。
話すのが苦手な人は、そういう人を羨ましく思う。
しかし話すのが苦手な人は、悩んでる人の悩みをきく役は最適である。
ついべらべらアドバイスをしてしまう人より、黙ってきいてくれる人の方が有り難い。
そこで力を発揮すればいい。
そばにいるだけで、役に立てている。
だから、自分がやれることは惜しみなく100%提供する。
脚が折れて松葉杖をついている仲間がいたら、今健康な自分が支えてやればいい。
心が折れている仲間がいたら、今心が元気な自分が支えてやればいい。
支えてもらっている側も、いつか支える側にまわればいい。
支えている方も、役に立っている自分に自信が持てるものである。
だから、お互い様である。
時に支えてもらって、時に支える。
学級は異なる人間の集まりなのだから、それでいい。
ただ、支えてもらいっ放しではいけない。
気付いた仕事は特定の人に頼らずやれるクラスにしたい。
そんな話をした。
何かの参考になれば幸いである。
2014年1月23日木曜日
授業道場野口塾IN木更津 開催
今年も「授業道場野口塾IN木更津」を木更津技法研で開催。
平成26年2月15日(土)9:30開始。
詳細は下記ページにて。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/study/?id=20131083
たくさんの御参加、お待ちしております。
平成26年2月15日(土)9:30開始。
詳細は下記ページにて。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/study/?id=20131083
たくさんの御参加、お待ちしております。
2014年1月22日水曜日
偶然を必然にする出会い ~求める~
私の勤務する地区の、ある校長先生の言葉。
相当な業績を残した方で、人脈も幅広い。
その先生に「心に残る出会いがありますか」ときいてみた。
すると、ちょっと違った答えが返ってきた。
「偶然の出会いの中に、求めるものがあるのかどうか。
偶然を必然にせよ。」
例えば、何かの会に出れば、たくさんの人に出会う。
大きな成功を収めた人にきくと大抵、
「あの時の○○さんとに偶然出会ったお陰で、運命が変わった」という。
もう少し突っ込んできくと、
「たまたま、そのことについて考えていた時に出会った」という。
偶然でも、たまたまでもない。
必然となる準備をしていた、と解釈できる。
常に、何を求めているか。
アンテナを高くしているか。
学級経営とて、同じである。
相当な業績を残した方で、人脈も幅広い。
その先生に「心に残る出会いがありますか」ときいてみた。
すると、ちょっと違った答えが返ってきた。
「偶然の出会いの中に、求めるものがあるのかどうか。
偶然を必然にせよ。」
例えば、何かの会に出れば、たくさんの人に出会う。
大きな成功を収めた人にきくと大抵、
「あの時の○○さんとに偶然出会ったお陰で、運命が変わった」という。
もう少し突っ込んできくと、
「たまたま、そのことについて考えていた時に出会った」という。
偶然でも、たまたまでもない。
必然となる準備をしていた、と解釈できる。
常に、何を求めているか。
アンテナを高くしているか。
学級経営とて、同じである。
2014年1月18日土曜日
鳴かぬなら、それもまたよしホトトギス
タイトルは「経営の神様」松下幸之助氏の言葉。
昨年、講師として色々とお話をさせていただいた。
最後の参加者同士の話し合いや懇親会で、
「なかなか○○先生のようにできない」
というような話が、複数の方から出た。
その時の講師は5人で、それぞれが毛色の異なる提案を行った。
テーマが「30代の教師力」であり、提案の自由度が高かったためと考えられる。
この時は「自分に合うものを真似すればいい」というようなことを答えた。
しかし後になって考えて、タイトルの
「それもまたよしホトトギス」がわかりやすいと思った。
つまり、ホトトギスは鳴く、ということを前提にしない。
よく鳴くホトトギスがいれば、全く鳴かないホトトギスもいる。
そこが個性である。
そう考えると、○○先生の真似ができなくてもよい。
私自身、今回の他の講師4人の実践を徹底的に真似できるかといえば、おそらくできない。
人間が違う。
ただ、良い実践はとても参考になる。
実践の良さと、自分がやれるかどうかは、別問題である。
提案者はあくまで追試ができる形で提案するが、それを真似できなくてもよい。
服と同じで、似合う似合わないがある。
私の教え子も来ていて、話し合いの場で次のような質問を投げかけた。
「学級が荒れることを考えると、やっぱり厳しくした方がいいのでしょうか。」
来年から新採として学級を持つことを考えての質問である。
色々な意見があるが、厳しくするかどうかも「それもまたよし」である。
厳しくしたら荒れない、という保証はどこにもない。
厳しくした方がいい場合もある。
緩くていい場合もある。
必ずこう、と断言できない。
自分の中に、軸があること。
それさえあれば、その場の対応が決まる。
サッカーの試合中のプレーと同じで、セオリーはあるが、後はその場の判断である。
点を取りに行くのか。
守ってしのぐ場面なのか。
状況によりけりである。
それでもとにかく学んだら、即実践。
やってみて、駄目ならそこは自分なりにアレンジするか、または捨てる。
いつでもトライ&エラーの繰り返しである。
質問していただくことで、自分自身を振り返り、考えが深まる。
その日は、誰よりも学ばせていただいた素晴らしい一日だった。
昨年、講師として色々とお話をさせていただいた。
最後の参加者同士の話し合いや懇親会で、
「なかなか○○先生のようにできない」
というような話が、複数の方から出た。
その時の講師は5人で、それぞれが毛色の異なる提案を行った。
テーマが「30代の教師力」であり、提案の自由度が高かったためと考えられる。
この時は「自分に合うものを真似すればいい」というようなことを答えた。
しかし後になって考えて、タイトルの
「それもまたよしホトトギス」がわかりやすいと思った。
つまり、ホトトギスは鳴く、ということを前提にしない。
よく鳴くホトトギスがいれば、全く鳴かないホトトギスもいる。
そこが個性である。
そう考えると、○○先生の真似ができなくてもよい。
私自身、今回の他の講師4人の実践を徹底的に真似できるかといえば、おそらくできない。
人間が違う。
ただ、良い実践はとても参考になる。
実践の良さと、自分がやれるかどうかは、別問題である。
提案者はあくまで追試ができる形で提案するが、それを真似できなくてもよい。
服と同じで、似合う似合わないがある。
私の教え子も来ていて、話し合いの場で次のような質問を投げかけた。
「学級が荒れることを考えると、やっぱり厳しくした方がいいのでしょうか。」
来年から新採として学級を持つことを考えての質問である。
色々な意見があるが、厳しくするかどうかも「それもまたよし」である。
厳しくしたら荒れない、という保証はどこにもない。
厳しくした方がいい場合もある。
緩くていい場合もある。
必ずこう、と断言できない。
自分の中に、軸があること。
それさえあれば、その場の対応が決まる。
サッカーの試合中のプレーと同じで、セオリーはあるが、後はその場の判断である。
点を取りに行くのか。
守ってしのぐ場面なのか。
状況によりけりである。
それでもとにかく学んだら、即実践。
やってみて、駄目ならそこは自分なりにアレンジするか、または捨てる。
いつでもトライ&エラーの繰り返しである。
質問していただくことで、自分自身を振り返り、考えが深まる。
その日は、誰よりも学ばせていただいた素晴らしい一日だった。
2014年1月16日木曜日
一人でできる力をつける
今回は、エッセイ。
思うところを書く。
目の前の事は、大切である。
しかしそれは、行く先を見た上でのこと。
どこに向かっているかわからずに進んでも、目標には近づけない。
方向を見定めた上で、足元を見ながら進む。
何のためにやっているのかを常に考える。
例えば算数の問題が解けない場合。
工夫してやり方を教えたり、一緒にやったり、仲間に教えてもらったりして、できたとする。
それで力がついたかというと、ついていない。
(一時的に「できた喜び」が味わえる意義はある。)
一人でできる力をつける。
問題解決において「自立」させる。
学力は、体力と同じで最終的に孤独の力である。
やり方を教わったら、あとは孤独に、黙々とひたすら磨く。
勉強も体力トレーニングも、その点で一緒である。
持久力をつけたかったら、走るのは本人。
学力をつけたかったら、反復練習するのは本人。
教師ができることは、そのための励ましをするまでである。
ものすごい学力をつけられる名物教師のような人は、教え方のうまさだけでなく、このフォローがすごい。
授業後にも追究する姿勢自体を身に付けさせてしまうのが授業名人である。
その力は、一生使える力となる。
「正しいやり方」を教えるまでが、技能の伝達である「教」。
「やる気を起こさせ、継続させる」のが、励ます「育」。
アサガオに例えるなら、棒を立ててやる行為が「教」。
伸びる方向が定まる。
水をやる行為が「育」。
ただし、そこから育つかどうかはアサガオ自身にかかっている。
周りができることは、環境を整えるまでである。
人間も木と同じで、大きく太くなったら、後は勝手にどんどん育つ。
今している教育行為は、将来どんな効果をもたらすのか。
生きる力をつけさせるものになっているか。
自問してみる。
思うところを書く。
目の前の事は、大切である。
しかしそれは、行く先を見た上でのこと。
どこに向かっているかわからずに進んでも、目標には近づけない。
方向を見定めた上で、足元を見ながら進む。
何のためにやっているのかを常に考える。
例えば算数の問題が解けない場合。
工夫してやり方を教えたり、一緒にやったり、仲間に教えてもらったりして、できたとする。
それで力がついたかというと、ついていない。
(一時的に「できた喜び」が味わえる意義はある。)
一人でできる力をつける。
問題解決において「自立」させる。
学力は、体力と同じで最終的に孤独の力である。
やり方を教わったら、あとは孤独に、黙々とひたすら磨く。
勉強も体力トレーニングも、その点で一緒である。
持久力をつけたかったら、走るのは本人。
学力をつけたかったら、反復練習するのは本人。
教師ができることは、そのための励ましをするまでである。
ものすごい学力をつけられる名物教師のような人は、教え方のうまさだけでなく、このフォローがすごい。
授業後にも追究する姿勢自体を身に付けさせてしまうのが授業名人である。
その力は、一生使える力となる。
「正しいやり方」を教えるまでが、技能の伝達である「教」。
「やる気を起こさせ、継続させる」のが、励ます「育」。
アサガオに例えるなら、棒を立ててやる行為が「教」。
伸びる方向が定まる。
水をやる行為が「育」。
ただし、そこから育つかどうかはアサガオ自身にかかっている。
周りができることは、環境を整えるまでである。
人間も木と同じで、大きく太くなったら、後は勝手にどんどん育つ。
今している教育行為は、将来どんな効果をもたらすのか。
生きる力をつけさせるものになっているか。
自問してみる。
登録:
投稿 (Atom)
-
教室は、自分の考えを発表する機会が多い。 そして、声が小さいと聞こえづらい。 そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。 前提条件がある。 まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。 原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿...
-
あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。 しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。 街中、都会になるほどしなくなる。 人が多すぎる為かもしれない。 それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。 (全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の...
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...