2013年11月15日金曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その5

ここまで、チャンスにチャレンジしてチェンジできる子どもを育てる、という話を書いてきた。
しかし、これを本当にやるべきは、子どもではない。

実は、教師がやることが先である。
子どもは教師の言葉ではなく、背中を見ている。
「率先垂範」があってこそ、子どもはチャレンジしようと思う。
どんなに言葉でいいことを言っても、それが行動にできていないなら、響かない。

チャンスがあったら、チャレンジする。
そして、自分自身がチェンジする。
「主体変容」である。
嫌でも子どもも変わる。

まずは、今まで何となく先延ばしにしてきたことに、一つ手をつけてみたい。

2013年11月13日水曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その4

前号の続き。

「跳べないことを見られるのが怖い」というのは、自尊心が傷つくことによる精神的苦痛である。
変にプライドが高く、自意識過剰という場合もある。
これは、本人そのものが変わるより、周り全体を変える方がてっとり早い。
(人間は環境によって作られるため。)
「失敗しても大丈夫」な風土作りが普段から必要となる。
「○○さん、がんばって!!」と心から応援してくれる風土である。
この雰囲気は、体育の時間だけでは醸成できない。
授業を中心とした、まさに日常の雰囲気作りにかかっている。

逆に言うと、いわゆる崩壊している状態では、あらゆるチャレンジは不可能である。
チャレンジによるリスクが大きすぎる。
そういう状態で「がんばりなさい」というのは、無茶である。

チャレンジできる環境は、安全・安心な雰囲気作りから。
学級担任の第一優先の仕事である。

2013年11月11日月曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その3

チャレンジするために、考慮すべき条件が一つある。
それは前々回書いた「恐怖心」である。

チャレンジできない最大の理由は、恐怖心。
恐怖心を取り除けないと、チャレンジは難しい。
恐怖心の原因を考える。

例を挙げると、「跳び箱自体が怖い」場合と「跳べないことを見られるのが怖い」場合は、恐怖の根本が違う。

前者は、肉体的苦痛が予想されることによる、精神的苦痛である。
他の動物にもある恐怖心で、生命を脅かすことへの本能的恐怖である。
これは「安全」の確保が必須である。
落ちても痛くないように周りに何か敷く、補助をする、スモールステップで行うなど、失敗しても痛くない手をうつ。
体育においては、痛い思いはなるべくさせない方がいい。
たまたま野生児のような性格の子どもならいいが、そうでない場合、挑戦意欲そのものが削がれる可能性が高い。
「根性論」ではどうにもならない。
また、筋肉が無駄に緊張し、パフォーマンスが下がるので、尚更良くない。
クラスで一番かよわい子どもを基準に指導方法を考えるのが鉄則である。
(逆に野生児的な子どもは止めても自分からどんどん挑戦するので、安全面に一層配慮する。)

では、後者の「跳べないことを見られるのが怖い」という場合はどう考えるか。
長くなるので、次号に続く。

2013年11月9日土曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その2

チャレンジをしよう、という話の別バージョン。

私は、学生時代にサッカーをやっていて、今もフットサルで続けている。
ポジションはフォワード(前で点を取るポジション)。
だから、Jリーグやワールドカップなどを見てもフォワードの選手が気になる。

学生時代、三浦知良選手や岡野雅行選手のプレーが大好きだった。
ゴールを量産する選手には「ごっちゃんゴール」が結構多い。
現在大活躍中の本田圭佑選手も、かなりがこれである。
何かというと、要するに他選手が打ったシュートのこぼれ球を詰める、というものである。
敵がうっかりミスした球をしっかり奪って、という場合もある。
一見、単なるラッキーに見える。
「あの人は運がいいだけ」みたいに思われることもある。

しかし、これはチャンスに何度もチャレンジしている結果である。
100回に1回、1000回に1回でも、可能性がある限り詰める。
これは99回、あるいは999回の「失敗」を経験しても続ける、という意志の強さである。
(そんなことをかつてあるCMで三浦選手が言ってたのを今思い出した。)
チャンスは、自分で引き寄せる。
そのためには、チャレンジが欠かせない。

まだまだあるが、今回も長くなったのでここまで。

2013年11月7日木曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その1

タイトルは、昨年度の学級のキャッチフレーズ。
ここに関連した話題を。

最近、学級でよく話すテーマが「チャレンジ」。
失敗が怖くてやれない、という心理を何とかしていきたいという思いからである。
優秀で真面目な子ども達であるほど、ここが課題になりやすい。

失敗がなぜ怖いのか。
失敗すると、人に笑われる(気がする)からだと言う。
多分、全国どこできいても、同じ答えが返ってくると思う。
要は、自尊心が傷つくのが怖いからである。
「恥ずかしい」というのは人間独自の感情である。(特に日本人は文化的にこの思いが強い。)
他の動物がチャレンジしない場合は、「失敗体験による命の危険」を学習するからである。
例えば飼っているペットが「何かを異常に怖がる」のは、そこで痛い思いをしたからである。
または、未知で危険を感じるからである。

しかし以前紹介した「超入門 失敗の本質」にもあるが、最大のリスクは「変化しないこと」である。
そこで先日、子どもに以下のような話をした。

猿はどこで暮らしているか。
木の上である。
理由は、安全・安心だから。
木から平野へ降りると、猛獣もいるし食糧も安定しない。
全てが不安定である。
それでも降りた好奇心の強い者がいた。
(ここでの「チャンス」は「好奇心」である。)
降りた者の中には、やはり猛獣に襲われた者もいる。
しかし中には平野での暮らしに適応(チェンジ)していった者も出た。
それが、人類である。
魚が陸に上がって両生類になった時も、鳥が空を飛ぶようになったのも、全て同じ。
現状を捨て、チャレンジと失敗を繰り返した結果である。

この話をきいたところで「そうは言ってもねぇ~」というのが大方の本音だろう。
なので、この類の話はあの手この手で何度もする。

長くなるので、次号に続く。

2013年11月3日日曜日

誉めると叱るは表裏一体

「愛があるから叱るのだ」という野口芳宏先生の言葉を以前紹介した。
叱る場合、相手が素直ならいいが、そうでないと逆恨みされることもある。
つまり、あいはあいでも「気合い」がいる。
叱る行為には、自分が傷付くことも辞さない覚悟がいることになる。

誰でも、自分が可愛い。
自然、学校でも叱らないで誉める教育が広がり、今日に至る。
いいところを見つけ、誉めて伸ばす。
良いことは良い。
それを認める。
このこと自体はいい。
相手も自分も気持ちがいい。

しかし、物事は表裏一体である。
文房具屋でコピー用紙を買う際、
「表だけしか使わないので、裏は結構です」と言っても、
「サービスで裏もつけときます」と返ってくる。
(ちなみに、これは有田和正先生の本にあるユーモア話の一つである。)
どちらか一方だけ、というのは、物事の道理に反する。

いつも誉められまくる一方、悪い面は叱られずに容認されて育つ子ども。
子どもは、毎日楽しいだろう。
全てを認めてもらえるのだから当然である。
先生のことも大好きになるに違いない。
しかし、末恐ろしいことになることが容易に想像できる。
社会に出て、そんなことがあり得るだろうか。

悪いことは悪い。
それを教えるのも教育の大切な仕事の一つであると思う。

誉める実践を推奨している素晴らしい先生方は、叱ることもセットで行っているはずである。
そこを見ないで、誉めるところばかり真似していたら、逆効果である。

誉める教育が脚光を浴びる中に、一抹の不安を感じ、書いてみた。

2013年11月1日金曜日

陰徳を積む

「良い行いを報告する」という実践を紹介した。
これは、教師の側からすると大変都合が良い。
しかし、本来良い行いというのは、人知れず行うのが基本である。

人知れず行う良い行為を「陰徳」という。
読んで字の如く、陰で積む徳のことである。
誰に知られる為でもなく、ただ良いと思うからやる。
純粋なる善行である。

どんなに陰でやっても、必ず二人が見ている。
一人は、天の神様。
もう一人は、他ならぬ自分である。
これは、悪事であっても同様。
良いことをすれば良く、悪いことをすれば悪くなる。
実に理に適っている。
正に「道理」である。

ちょうど前回の記事を書いた後に、栃木県の山中伸之先生のブログ「実感教育」を見たらこのことが出ていた。
なるほどこれも大切なことであると思い、紹介させていただいた。
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