前号で「信頼しても信用しない」ということを書いた。
今回はこれに関連して「期待」について。
次のような心理構造がある。
期待をすると、がっかりする。
期待をすると、腹が立つ。
期待をすると、文句をつけたくなる。
・・・・
つまり、期待をすると、心理的に「ネガティブな○○」が生じる。
これに対して、反論が予想される。
「ピグマリオン効果」というものである。
期待されていると本当にそうなるというプラスの心理である。
実際「期待しているよ」と声をかけられると、モチベーションがあがる人も多い。
(プレッシャーになって不安になったり焦ったりする人もいる。
これらは個人のモチベーション特性の違いによる。)
問題は「期待している」の内実が、
A 相手のモチベーションを上げるため
なのか
B 自分の望み通りになって欲しいという自己願望
なのかという違いである。
Aの場合、相手がそうならなくても構わない。
実際の恩恵を得るのは相手自身だからである。
一方、Bの場合は、相手がそうならないのは自己都合にとって悪い。
恩恵を得るのが自分自身だからである。
期待外れは「損した」「ぞんざいだ」「○○してあげたのに」などという怒りや失望につながる。
前号書いた信頼と信用の違いと同じである。
信頼は一方的で、相手がそうならなくてもOK。
信用は、それをしたからには相手が裏切らないのが前提で、そうならないのはNGである。
Aの期待は無条件だから、大いにすればいい。
冒頭に問題にしていたのは、Bタイプの期待である。
「期待しない」というのは、相手が自分に何かをしてくれること、思い通りを求めないということである。
例えば、あいさつ。
誰もが言うように、あいさつは大切である。
しかしながら、相手が返してくれることを期待してはいけない。
そこは期待しないで勝手に行うのが精神衛生上よろしい。
例えば、お店で受けるサービス。
お金を払っているからといって、「お客様」である自分も、実は神様ではない。
バイトの学生さんに多少ぶっきらぼうに扱われても、まあ仕方ないと割り切るぐらいで丁度いい。
(社会人としての教育をしてあげてもいいが、嫌な思いをして敢えて自分がしてあげなくてもいい。)
例えば、職場での自分への待遇や扱い。
ただでさえ忙しい職場、そんなにみんな暇じゃない。
自分のことなど見てくれているはずがない。
自分だって、忙しい時にそんなに人を見てあげられているかといえば、「否」である。
もし髪を切ったなんて些細なことを気付いた人が一人でもいてくれれば御の字である。
それぐらいで丁度いい。
例えば、仕事。
一生懸命やっているからといって、周りがそれを評価してくれる保証などない。
一生懸命やっているのにミスしたり、文句やクレームをもらったりという方がずっと可能性が高い。
不条理なようだが、それが現実である。
(それ以前に、そもそも「仕事を一生懸命」は社会人にとって結果を出すための前提であって、+評価の対象ですらない。
子どもや学生にとっての勉強の在り方と同じである。)
手を抜いても当然いい結果が得られる訳ではなく、ミスがあったり文句を言われたりする覚悟で一生懸命やるしかないのである。
子どもに対しても同様。
子どもへの期待値が高すぎることが不幸の始まりである。
Bの期待はしないで、子どもにはAの「期待している」ことを伝えればいい。
人が自分の願うように動くことを期待しない。
一方で、子どもをはじめ、大切な人たちにはきっと良くなると期待してあげること。
学級経営においても応用の利くものではないかと思い、書いてみた。
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