前回の「批」の続き。
例えば、クラスでとんでもなく勉強ができない子どもがいたとする。
その子どもが、クラスのテストの平均点を著しく下げているとする。
その時「あの子のせいで」と批判していたら、それは自分自身への批判である。
子どもや環境にも原因はあるだろうが、教えられなかったこちらの責任の方がはるかに大きい。
何と言っても、教師は勉強を教えるプロである。
プロが他に責任を求めることはない。
医者が病気を治せずに「あんな病気になった患者が悪い」ということはないだろう。
それで給料をいただいているのである。
子どもが悪いのは教師が悪いと考えるのが、教師の側としては妥当である。
(世間一般からそう見られるのは、分が悪いが。)
自分が子どもの親なら、自分の責任と考えるのが妥当である。
子ども自身の側は、自分自身の努力等に原因があると考えるのが妥当である。
「全ては私の責任です」と全員が受け止めることが妥当であるように思う。
2013年3月29日金曜日
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