「まぐまぐニュース」に本ブログの元となっているメルマガの記事が載ったのでリンクを紹介する。
http://www.mag2.com/p/news/13869
要は、実力に合う道具を使うことが大切ということである。
そして、子どもは学校に勉強をしに来ているということである。
相手はただでさえ集中力の無い「子ども」である。
注意力散漫なのが「自然」なのである。
そして、教育は「自然」のままにさせずに善導することに意義がある。
(そうでなければ、学校に来る意味がない。)
だからこそ、気の散るような使いにくい道具や、筆箱内の余計なおもちゃ類を許諾しない。
何でもかんでもOKすることが「個性を認める」ことではない。
子どもに力がつくこと。
授業に集中できること。
ここに尽きる。
特にこの点は、保護者との連携が必須である。
教師の願いや思い、悩みを、保護者と共有しておきたい。
2015年4月25日土曜日
最高の学級づくりの必殺技
前号の「何となくを言語化する」ということの続き。
どうすれば「最高の学級づくり」ができるかを考える。
手前味噌ながら、昨年度、良い学級経営ができたと思う。
至らない点は多々あるものの、子どもたちは確実に成長を自覚していた。
保護者の皆様から「子どもがこの一年ですごく変わった」という有難い言葉を複数いただけたのも事実である。
(一方で、表に出てこないだけで不満も確実に存在するであろうことも、常に念頭にある。)
では、どうすればそうなるのか。
そこが、学級経営に悩む多くの教師の興味・関心の集まる部分である。
その「学級経営の必殺技」を、真剣に考えてみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・思いつかない。
いや、正確に言えば、「必殺技」「決め手」が思いつかないのである。
一方で、こまごまとした実践や心がけは羅列できる。
割と、一工夫したり、がんばったりしたかと思うものやキーワードを羅列すると、
「クラス会議」「学級目標活用」「主体変容」「率先垂範」「24時間道徳」
「拍手」「3分間日記」「学び合い」「掃除」「給食」「歌」
「とにかく漢字」「外遊び」「得意技発表会」「会社活動」
「8の字跳び」「跳び箱」「鉄棒」「二重跳び」「水泳」
「10マス計算」「難問」「ことわざカルタ」「百人一首」
・・・・多分、まだまだある。
単語だけ並べても内容がさっぱりわからないと思うが、とにかく色々やっている。
「これ!」という決め手が絞れないのである。
ちょうど1年ほど前にも紹介したが、二宮尊徳の言葉の一つに「積小為大」がある。
小さいことを積み重ねることで、大きなことを為すということ。
「小」とは身の丈にあったことであり、平凡なこと。
それを集めることで、大きなことになる。
前号の話で私が「どうすればそうなるのか」を答えられなかった点が、そこにある。
極論すると「これをやればこうなる」という必殺技は、無い。
本当に、本当に小さなことの積み重ねなのである。
「8の字跳び」という実践一つについても、これ自体が小さな小さなことの積み重ねである。
一方で「一事が万事」ということも真実で、一つうまくいくと連動して他のことがうまくいく。
例えば「学級目標活用」は、私の中で外せない中心実践である。
ここは徹底する。
また、「24時間道徳」ということも、子どもに話すとともに常に自省している。
「これは、自分の道として正しいと信じられるか」と常に自問する。
子どもにも投げかける。(面倒な先生である。)
そうやって、自分の学級経営の「芯」を作っていく。
長くなったが、要は「必殺技」は、存在しないという結論である。
成功の秘訣があるとすれば「積小為大」。
小さなことの一つとして「学級開きや学級目標をどうしているか」というようなことなら、話せる。
(ちなみにこれは、3月30日の文科省でのセミナーでお話しした内容。)
成功への近道はない。
ただ、成功への道はある。
遠く見える道程も、一歩ずつ。
それも、行きつ戻りつである。
目の前の小さなことを丁寧に行うことが、ダイヤモンドの原石を削る作業である。
毎日を「繰り返し」でなく「積み重ね」で生きたい。
どうすれば「最高の学級づくり」ができるかを考える。
手前味噌ながら、昨年度、良い学級経営ができたと思う。
至らない点は多々あるものの、子どもたちは確実に成長を自覚していた。
保護者の皆様から「子どもがこの一年ですごく変わった」という有難い言葉を複数いただけたのも事実である。
(一方で、表に出てこないだけで不満も確実に存在するであろうことも、常に念頭にある。)
では、どうすればそうなるのか。
そこが、学級経営に悩む多くの教師の興味・関心の集まる部分である。
その「学級経営の必殺技」を、真剣に考えてみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・思いつかない。
いや、正確に言えば、「必殺技」「決め手」が思いつかないのである。
一方で、こまごまとした実践や心がけは羅列できる。
割と、一工夫したり、がんばったりしたかと思うものやキーワードを羅列すると、
「クラス会議」「学級目標活用」「主体変容」「率先垂範」「24時間道徳」
「拍手」「3分間日記」「学び合い」「掃除」「給食」「歌」
「とにかく漢字」「外遊び」「得意技発表会」「会社活動」
「8の字跳び」「跳び箱」「鉄棒」「二重跳び」「水泳」
「10マス計算」「難問」「ことわざカルタ」「百人一首」
・・・・多分、まだまだある。
単語だけ並べても内容がさっぱりわからないと思うが、とにかく色々やっている。
「これ!」という決め手が絞れないのである。
ちょうど1年ほど前にも紹介したが、二宮尊徳の言葉の一つに「積小為大」がある。
小さいことを積み重ねることで、大きなことを為すということ。
「小」とは身の丈にあったことであり、平凡なこと。
それを集めることで、大きなことになる。
前号の話で私が「どうすればそうなるのか」を答えられなかった点が、そこにある。
極論すると「これをやればこうなる」という必殺技は、無い。
本当に、本当に小さなことの積み重ねなのである。
「8の字跳び」という実践一つについても、これ自体が小さな小さなことの積み重ねである。
一方で「一事が万事」ということも真実で、一つうまくいくと連動して他のことがうまくいく。
例えば「学級目標活用」は、私の中で外せない中心実践である。
ここは徹底する。
また、「24時間道徳」ということも、子どもに話すとともに常に自省している。
「これは、自分の道として正しいと信じられるか」と常に自問する。
子どもにも投げかける。(面倒な先生である。)
そうやって、自分の学級経営の「芯」を作っていく。
長くなったが、要は「必殺技」は、存在しないという結論である。
成功の秘訣があるとすれば「積小為大」。
小さなことの一つとして「学級開きや学級目標をどうしているか」というようなことなら、話せる。
(ちなみにこれは、3月30日の文科省でのセミナーでお話しした内容。)
成功への近道はない。
ただ、成功への道はある。
遠く見える道程も、一歩ずつ。
それも、行きつ戻りつである。
目の前の小さなことを丁寧に行うことが、ダイヤモンドの原石を削る作業である。
毎日を「繰り返し」でなく「積み重ね」で生きたい。
2015年4月21日火曜日
「何となく」を言語化すべし
千葉大学を会場にしたセミナーで講師をしてきたことに関連して、前号の話の続き。
最高の話は、勇気がもらえる話。
それには「すごくうまくいった実践の話」だけではなく、
「どうやったら自分にもできるか」という明確な手順が示されることが条件である。
残念ながら、私は参加者の方のその質問に、正対した答えが示せない場面があった。
「何となくうまくいく」では、セミナー講師としては失格である。
それを、言語化して誰にもできそうな形で提示する義務がある。
一方で、そこまでしないでも、教師なんだから学べる人は学べるという意見も存在する。
それも一理ある。
しかし、前に立って教える以上、できる限りわかりやすく伝えるのが責務である。
子どもに教える時も同様。
理解力のある子どもは、誰が教えてもできる。
誰が教えても「わからない」という子どもがいた時こそ、はじめて工夫をしようと頭をひねるチャンスである。
何となくうまくいっていることを、いかに言語化し、伝達できる形にするか。
これからの課題である。
最高の話は、勇気がもらえる話。
それには「すごくうまくいった実践の話」だけではなく、
「どうやったら自分にもできるか」という明確な手順が示されることが条件である。
残念ながら、私は参加者の方のその質問に、正対した答えが示せない場面があった。
「何となくうまくいく」では、セミナー講師としては失格である。
それを、言語化して誰にもできそうな形で提示する義務がある。
一方で、そこまでしないでも、教師なんだから学べる人は学べるという意見も存在する。
それも一理ある。
しかし、前に立って教える以上、できる限りわかりやすく伝えるのが責務である。
子どもに教える時も同様。
理解力のある子どもは、誰が教えてもできる。
誰が教えても「わからない」という子どもがいた時こそ、はじめて工夫をしようと頭をひねるチャンスである。
何となくうまくいっていることを、いかに言語化し、伝達できる形にするか。
これからの課題である。
2015年4月17日金曜日
最高の話とは
先日、千葉大学でセミナー講師をさせていただいた。
こういう機会をいただけるのは、実に有難いことである。
休日に有料の研修会に参加するような志ある方々へ話すのは、毎度ながらかなりのプレッシャーを感ずる。
可能な限り有益な話をしたいと願って立つ。
さて、私の師事する野口芳宏先生が、先日のサークルで次のような話をしてくださった。
「〇〇さん、最高の話って、どんな話だと思う?」
「う~ん・・・」
私は「感動する話かな?」などと考えた。
野口先生は、次のように回答された。
「最高の話とは、勇気が出る話だよ。」
なるほど、合点いった。
ちなみにこれは、野口先生自身が師と慕う先生から教えていただいた話だそうである。
ここからは私見。
勇気が出る話。
どんな話だろうか。
自分の思いついたものを羅列してみる。
・すごいと思っている人の失敗談(「自分と同じなんだ」という感覚)
・感動する話(困難の克服、愛、誰かを救った、成長ストーリー、・・・)
・がんばれば自分にもやれそうだと思う話(「試してみたい!」という感覚)
・・・まだまだある。
要は、参加者視点で、やる気スイッチが入るものであればいい。
日々の授業でも、少しでも「最高の話」に近づけるように、万全の準備を持って臨みたい。
______________________________
こういう機会をいただけるのは、実に有難いことである。
休日に有料の研修会に参加するような志ある方々へ話すのは、毎度ながらかなりのプレッシャーを感ずる。
可能な限り有益な話をしたいと願って立つ。
さて、私の師事する野口芳宏先生が、先日のサークルで次のような話をしてくださった。
「〇〇さん、最高の話って、どんな話だと思う?」
「う~ん・・・」
私は「感動する話かな?」などと考えた。
野口先生は、次のように回答された。
「最高の話とは、勇気が出る話だよ。」
なるほど、合点いった。
ちなみにこれは、野口先生自身が師と慕う先生から教えていただいた話だそうである。
ここからは私見。
勇気が出る話。
どんな話だろうか。
自分の思いついたものを羅列してみる。
・すごいと思っている人の失敗談(「自分と同じなんだ」という感覚)
・感動する話(困難の克服、愛、誰かを救った、成長ストーリー、・・・)
・がんばれば自分にもやれそうだと思う話(「試してみたい!」という感覚)
・・・まだまだある。
要は、参加者視点で、やる気スイッチが入るものであればいい。
日々の授業でも、少しでも「最高の話」に近づけるように、万全の準備を持って臨みたい。
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2015年4月15日水曜日
自ら立ち上がろうとしない者は救われない
二宮尊徳記念館での学びシリーズその3。
次の尊徳の言葉について。
「自ら立ち上がろうとしない者は救われない。」
つまり、困っている人を助けるけれども、依頼心を助長してはいけない、ということである。
だから、尊徳は相談されても一度は断り、相手に返すという。
相手に自分の頭で考えてもらい、気付いてもらうためである。
数々の指導実績を残してきた、二宮尊徳らしい教育的な手法である。
「教師としての学び」という視点でこれを考えてみる。
(実は、先月のセミナーで自分に与えられたテーマである。)
例えば、世の中には様々な教育の手法や理論、哲学がある。
その中には、それぞれ正反対のものもある。
どちらが正しいかの判断基準があるとすれば、私が見るのは「子どもの事実」である。
しかし、どちらも子どもの事実として成果が上がっていたりする。
そうなると、どっちが正しいのかわからなくなる。
結論。
どちらも正しい。
ただし、その場その人にとって、である。
以前にも書いたが、「正義は個人内にあり」である。
つまり、誰かの言うことに振り回されてはいけない。
素直ということと鵜呑みは違う。
一旦は受け容れる、というのが素直ということである。
咀嚼し、それが正しいかの判断は自分自身で行う。
自分がやってうまくいかなかったからといって、その理論や手法が悪いという訳ではない。
ましてその人のせいにしたりしてはいけない。
批判も良くない。
たまたま、自分に合わないだけである。
誰かにとっては、やはり有益だったりする。
要は、使い手次第である。
「自分に合ったものを選ぶ」ということである。
選択権は自分にある。
手法や理論に頼り過ぎてはいけない。
使うのは、紛れもない自分自身である。
それが自分に合うのかどうか、自分自身の選択に責任を持ちたい。
次の尊徳の言葉について。
「自ら立ち上がろうとしない者は救われない。」
つまり、困っている人を助けるけれども、依頼心を助長してはいけない、ということである。
だから、尊徳は相談されても一度は断り、相手に返すという。
相手に自分の頭で考えてもらい、気付いてもらうためである。
数々の指導実績を残してきた、二宮尊徳らしい教育的な手法である。
「教師としての学び」という視点でこれを考えてみる。
(実は、先月のセミナーで自分に与えられたテーマである。)
例えば、世の中には様々な教育の手法や理論、哲学がある。
その中には、それぞれ正反対のものもある。
どちらが正しいかの判断基準があるとすれば、私が見るのは「子どもの事実」である。
しかし、どちらも子どもの事実として成果が上がっていたりする。
そうなると、どっちが正しいのかわからなくなる。
結論。
どちらも正しい。
ただし、その場その人にとって、である。
以前にも書いたが、「正義は個人内にあり」である。
つまり、誰かの言うことに振り回されてはいけない。
素直ということと鵜呑みは違う。
一旦は受け容れる、というのが素直ということである。
咀嚼し、それが正しいかの判断は自分自身で行う。
自分がやってうまくいかなかったからといって、その理論や手法が悪いという訳ではない。
ましてその人のせいにしたりしてはいけない。
批判も良くない。
たまたま、自分に合わないだけである。
誰かにとっては、やはり有益だったりする。
要は、使い手次第である。
「自分に合ったものを選ぶ」ということである。
選択権は自分にある。
手法や理論に頼り過ぎてはいけない。
使うのは、紛れもない自分自身である。
それが自分に合うのかどうか、自分自身の選択に責任を持ちたい。
2015年4月13日月曜日
農業と教育 ~日々、雑草を抜く~
二宮尊徳記念館での学びの続き。
農業と教育は、本当に関係が深いと思う。
どちらも、生き物を育てる仕事という点で共通である。
種を蒔く前の土作りが大切なのも同じ。
また、手間や時間がかかるのも同じ。
放っておいてもよく成長しない一方で、自然の力が必要なのも同じ。
無理矢理ひっぱったり、栄養をあげすぎたり、手をかけすぎたり、確認しすぎたりするとダメになるのも同じ。
「ほどほど」に手をかけ、後は自力で伸びるのを見守る必要がある。
特に、雑草の手入れは必須である。
放っておけば、自然の原理で必ず生える。何度でも生える。
一回完璧にがんばればいいというものでなく、継続的かつ定期的にやる必要がある。
ここも、教育との共通点である。
話はやや変わるが、ここで「星の王子様」の話を思い出した。
王子様の小さい星には、「バオバブ」の芽が生える。
バオバブは、放っておくと根を張ってどんどん大きくなり、やがて巨木となって星を丸ごと飲み込んでしまう。
だから、王子様の日常に雑草取りは欠かせない。
「死活問題」だからである。
教室においても、様々な「雑草」が生える。
「ちょっとしたすさみ」と言い換えてもいい。
放っておくと、後で取り返しがつかなくなる。
床にごみが落ちているとか、言葉づかいが気になるとかそういう「些細な」ことである。
これを、学級や学校の「死活問題」と捉えるかどうかが、一つの分かれ目という実感である。
(ただし、これを教師が直接指導するかどうかは、別問題である。)
日頃の手入れが大切である。
あとでまとめて処理しようとすると、とんでもなく苦労することになる。
夏場に伸び放題の雑草と格闘する羽目になるのは、春先にのんびりしていた報いといえる。
これは、学級開きから1ヶ月のスタートダッシュの大切さにもつながる。
そして秋や冬には生えにくくなるものの、定期的な手入れはやはり必要である。
日頃の雑草の手入れ。
実に地味である。
地味だからこそ、徹底して継続的にやる。
「そんな細かいこと」と言われるかもしれない。
「神は細部に宿り給ふ」という。
大きく派手なことに目を奪われて、小さく地味なことを見落としていないか再点検したい。
農業と教育は、本当に関係が深いと思う。
どちらも、生き物を育てる仕事という点で共通である。
種を蒔く前の土作りが大切なのも同じ。
また、手間や時間がかかるのも同じ。
放っておいてもよく成長しない一方で、自然の力が必要なのも同じ。
無理矢理ひっぱったり、栄養をあげすぎたり、手をかけすぎたり、確認しすぎたりするとダメになるのも同じ。
「ほどほど」に手をかけ、後は自力で伸びるのを見守る必要がある。
特に、雑草の手入れは必須である。
放っておけば、自然の原理で必ず生える。何度でも生える。
一回完璧にがんばればいいというものでなく、継続的かつ定期的にやる必要がある。
ここも、教育との共通点である。
話はやや変わるが、ここで「星の王子様」の話を思い出した。
王子様の小さい星には、「バオバブ」の芽が生える。
バオバブは、放っておくと根を張ってどんどん大きくなり、やがて巨木となって星を丸ごと飲み込んでしまう。
だから、王子様の日常に雑草取りは欠かせない。
「死活問題」だからである。
教室においても、様々な「雑草」が生える。
「ちょっとしたすさみ」と言い換えてもいい。
放っておくと、後で取り返しがつかなくなる。
床にごみが落ちているとか、言葉づかいが気になるとかそういう「些細な」ことである。
これを、学級や学校の「死活問題」と捉えるかどうかが、一つの分かれ目という実感である。
(ただし、これを教師が直接指導するかどうかは、別問題である。)
日頃の手入れが大切である。
あとでまとめて処理しようとすると、とんでもなく苦労することになる。
夏場に伸び放題の雑草と格闘する羽目になるのは、春先にのんびりしていた報いといえる。
これは、学級開きから1ヶ月のスタートダッシュの大切さにもつながる。
そして秋や冬には生えにくくなるものの、定期的な手入れはやはり必要である。
日頃の雑草の手入れ。
実に地味である。
地味だからこそ、徹底して継続的にやる。
「そんな細かいこと」と言われるかもしれない。
「神は細部に宿り給ふ」という。
大きく派手なことに目を奪われて、小さく地味なことを見落としていないか再点検したい。
2015年4月11日土曜日
二宮尊徳記念館にて~謙虚ということが、勇気を生む~
先月、サークルで研修旅行をした。
場所を決める際に「単なる旅行ではなく、修養できるもの」が条件。
そこで小田原の二宮尊徳記念館を訪問してきた。
ここの一室を借りて、館内の方のお話を聞いたり、講座を受けたりした。
そこでの学び。
二宮尊徳といえば、偉人である。
「人並みはずれた努力をして、大成功して人々に崇められた」というイメージがあった。
実際は、相当の苦労をしたようである。
そして、相当に反発も食ったようである。
せっかく築き上げた私財を投げ打って、新天地で改革を行う。
まさに退路を断って決心する「決断」をし続けてきた人である。
人々の安定を求めながら、自身は全く安定をせずに、常にリスクをとって動き続ける。
そして、改革される側の支配者は、改革者に対して冷淡である。
冷遇されながらも、「相手が変わらないのは、自分が変わらないからだ」と自身を磨き続けた。
「主体変容」「率先垂範」を地でいっている偉人である。
常人の為せる業ではないが、部分的には真似できる。
自分の才能は自分のためにあるのではない。
この世に生を受けた恩を返すため、世の中の役に立つことを進んで行う。
「報徳」の精神である。
その名の通り、「損得」を越えた「尊徳」。
その行動そのものに、最も心を打たれた。
野口芳宏先生が講座の中で、
「謙虚ということが、勇気を生む。」
ということと、
「謙虚な人は、本音を語る。」ということを仰った。
二宮尊徳の行動の根本は、謙虚さから来るということだと私は解釈した。
謙虚であれば、畏敬の念が出る。
謙虚であれば、威張ったり自分を大きく見せる必要がないから、本音が語れる。
良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり伝えられる。
謙虚さが、偉人の共通点である。
謙虚は、卑屈とは違う。
道理を外れるようなことには従わない。
正しくないことは、大多数の人がやっていることだとしても、勇気を持って断つ。
教育において、最も大切なことの一つである。
偉人から学べることは多い。
実のある修養ツアーとなった。
場所を決める際に「単なる旅行ではなく、修養できるもの」が条件。
そこで小田原の二宮尊徳記念館を訪問してきた。
ここの一室を借りて、館内の方のお話を聞いたり、講座を受けたりした。
そこでの学び。
二宮尊徳といえば、偉人である。
「人並みはずれた努力をして、大成功して人々に崇められた」というイメージがあった。
実際は、相当の苦労をしたようである。
そして、相当に反発も食ったようである。
せっかく築き上げた私財を投げ打って、新天地で改革を行う。
まさに退路を断って決心する「決断」をし続けてきた人である。
人々の安定を求めながら、自身は全く安定をせずに、常にリスクをとって動き続ける。
そして、改革される側の支配者は、改革者に対して冷淡である。
冷遇されながらも、「相手が変わらないのは、自分が変わらないからだ」と自身を磨き続けた。
「主体変容」「率先垂範」を地でいっている偉人である。
常人の為せる業ではないが、部分的には真似できる。
自分の才能は自分のためにあるのではない。
この世に生を受けた恩を返すため、世の中の役に立つことを進んで行う。
「報徳」の精神である。
その名の通り、「損得」を越えた「尊徳」。
その行動そのものに、最も心を打たれた。
野口芳宏先生が講座の中で、
「謙虚ということが、勇気を生む。」
ということと、
「謙虚な人は、本音を語る。」ということを仰った。
二宮尊徳の行動の根本は、謙虚さから来るということだと私は解釈した。
謙虚であれば、畏敬の念が出る。
謙虚であれば、威張ったり自分を大きく見せる必要がないから、本音が語れる。
良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり伝えられる。
謙虚さが、偉人の共通点である。
謙虚は、卑屈とは違う。
道理を外れるようなことには従わない。
正しくないことは、大多数の人がやっていることだとしても、勇気を持って断つ。
教育において、最も大切なことの一つである。
偉人から学べることは多い。
実のある修養ツアーとなった。
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