東日本大震災から7年である。
私も何度もお世話になっている『被災地に学ぶ会』は、3月20日にまた福島へ赴くという。
私は残念ながら今回参加きないが、今年も関わっていく予定である。
大きなことというのは、自分一人の力ではどうにもならない。
正直、被災地でボランティアさせていただいても、自分ができることは、たかが知れている。
ただ、「自分ががんばってもどうせ」という精神は、あらゆることへの後退を促す。
あらゆるマナー違反もこの類である。
選挙の投票率がふるわないのもそうである。
そして、最後には「自分なんかどうせ」という、自分自身の存在への諦めにもなる。
ボランティアをして、救われたという話はよく聞く。
動物愛護センターの職員の方なども、動物を救うつもりが、いつの間にか自分が救われていたという話も聞く。
教師の仕事でも、教えてあげているつもりが、教わっている。
子育ても同様である。
要するに、他の人のためにやれることをやると、望むと望まざるとに関わらず、自分の生き方に影響を及ぼすということである。
ボランティアは、やったことのない人にとっては、やる前の敷居が高い。
飛び込んでみるしかない。
そして、一度やってみれば「次も行こう」と思う人が多い。
支援の仕方は色々ある。
何か一つ、被災地に向けて自分にできる小さなアクションはないか。
この記事一つも、何かを思い起こすきっかけになれば幸いである。
2018年3月11日日曜日
2018年3月10日土曜日
学級開き準備で一年間の見通しをもつ
今月末、学級開きについて何度か話をさせていただく機会がある。
なぜ学級開きが大切か。
学級の悩みは、最初のつまずきが原因のことが多いからである。
5月辺りから、「なぜか」子どもが言うことをきかなくなる。
「なぜか」トラブルが増え始める。
しかしトラブルが多い理由は、単に運が悪いから、だけではない。
トラブルが起きやすい土壌を、最初に作ってしまったからである。
適切な学級開きの準備をすると、見通しがもてる。
そして、最初が肝心ということがよくわかる。
作物を育てる時を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。
作物を育てようとするならば、どの季節に何をすればいいか考える。
最高の収穫ができた状態から、逆算する。
芽が出た直後は弱いこと、虫や冷害のことも考える必要が出る。
そう考えると、まずは土づくりの段階が最も大切だとわかる。
大切なのは良い出来事への見通しであり、そこに向けたトラブルへの見通しである。
準備万端でスタートすれば「想定外」を減らせる。
「まさか鳥に食べられるとは」というのは、鳥がそれを食べる想定がないために起きる悲劇である。
いずれ鳥対策が必要という見通しがあれば、発芽の段階やら結実の段階やらで、それぞれ対策をとる。
今回の2つの学級開きセミナーでは、具体的に「何をするか」をもちろん伝える。
しかしそれ以上に、「何のためにそれをするのか」についても語りたい。
後者は100倍大切である。
拙著『「切り返し」の技術』が多く読まれているのは、この「何のため」までが明確にしてあるからだと思う。
例えば「廊下は○○になって移動」の○○に、なぜ敢えて忍者とゴキブリの両方を入れるのか。
なぜ学級開きの時期に話す必要があるのか。
いつでも廊下は静かにしなくてはいけないのか。
緊張と解放のバランスをどう考えるか。
こういったことも伝える予定である。
また、「何のため」が抜けると、単なる方法論に陥る。
そうすると、少しうまくいかない時に原因がわからなくなったり、継続性がなくなったりする。
ただ単に打ち上げ花火のように一見派手な学級開きをしても、ダメなのである。
過剰な演出はその後の「期待外れ」にもつながり、余計なマイナスも導きかねない。
例えば私は学級開きでは、大抵マジックをやる。
しかしそれは、あくまで興味付けであり、とりあえず話を聞いてもらうための導入でもある。
ねらいの本質は別にある。
本当に伝えたいメッセージを落とさないための一手段である。
キャラクターの問題も大切である。
自分のキャラクターを無視した方法を採用すると、余計に痛い目に遭う。
先の派手な花火の話と同様で、無理な自分を演じ続けることができないからである。
様々な人の学級開きの方法を知ることで、自分に近いものを見つけられるだろう。
学級開きには、学級において最も大切な「躾」の問題も含まれる。
集団として成り立つためのルールの定着はここにかかっている。
子どもが言うことをきかなくなるのは、担任だけでなく、みんなの不幸の始まり。
自ら進んでルールを作って従いたくなるクラスづくりには、スタートが肝心である。
もう、とにかく伝えたいことが山ほどある。
悲観的すぎる次年度の不安を打ち砕き、逆に非現実的なパラダイスのような夢も抱かない。
高い理想を抱いた上で、現実的に立ち向かうこと。
学級開きに必要なのは、具体的にできる方法と理論、哲学である。
年度末は、ほっとしたい時期である。
それはわかる。
ただ、少し早くスタートすれば、後が圧倒的に楽である。
人生においては、フライングは反則では決してなく、むしろ望む結果を得るための基本戦略である。
本を読むことでも、学級開きセミナーに申し込むことでもいい。
次年度、担任として学級をもつ予定のある方は、余裕のある3月から、次年度の準備開始をおすすめする。
☆第5回 学級づくりセミナー「学級開きスペシャル低中高」
講師:浅野英樹×飯村友和×松尾英明× 千葉教育サークルスイッチオン
月日:3月24日(土)13:00~17:00
会場:船橋市中央公民館(JR船橋駅より徒歩7分)
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/ index/505949/
☆第40回縁太会『教えます!「やる気スイッチ」ON! 学級開き』
講師:飯村友和×松尾英明×縁太会
日時:3月31日(土)10:00~17:00
場所:戦災復興記念館4階第1会議室( JR仙台駅よりタクシーで5分)
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/ index/502449//
なぜ学級開きが大切か。
学級の悩みは、最初のつまずきが原因のことが多いからである。
5月辺りから、「なぜか」子どもが言うことをきかなくなる。
「なぜか」トラブルが増え始める。
しかしトラブルが多い理由は、単に運が悪いから、だけではない。
トラブルが起きやすい土壌を、最初に作ってしまったからである。
適切な学級開きの準備をすると、見通しがもてる。
そして、最初が肝心ということがよくわかる。
作物を育てる時を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。
作物を育てようとするならば、どの季節に何をすればいいか考える。
最高の収穫ができた状態から、逆算する。
芽が出た直後は弱いこと、虫や冷害のことも考える必要が出る。
そう考えると、まずは土づくりの段階が最も大切だとわかる。
大切なのは良い出来事への見通しであり、そこに向けたトラブルへの見通しである。
準備万端でスタートすれば「想定外」を減らせる。
「まさか鳥に食べられるとは」というのは、鳥がそれを食べる想定がないために起きる悲劇である。
いずれ鳥対策が必要という見通しがあれば、発芽の段階やら結実の段階やらで、それぞれ対策をとる。
今回の2つの学級開きセミナーでは、具体的に「何をするか」をもちろん伝える。
しかしそれ以上に、「何のためにそれをするのか」についても語りたい。
後者は100倍大切である。
拙著『「切り返し」の技術』が多く読まれているのは、この「何のため」までが明確にしてあるからだと思う。
例えば「廊下は○○になって移動」の○○に、なぜ敢えて忍者とゴキブリの両方を入れるのか。
なぜ学級開きの時期に話す必要があるのか。
いつでも廊下は静かにしなくてはいけないのか。
緊張と解放のバランスをどう考えるか。
こういったことも伝える予定である。
また、「何のため」が抜けると、単なる方法論に陥る。
そうすると、少しうまくいかない時に原因がわからなくなったり、継続性がなくなったりする。
ただ単に打ち上げ花火のように一見派手な学級開きをしても、ダメなのである。
過剰な演出はその後の「期待外れ」にもつながり、余計なマイナスも導きかねない。
例えば私は学級開きでは、大抵マジックをやる。
しかしそれは、あくまで興味付けであり、とりあえず話を聞いてもらうための導入でもある。
ねらいの本質は別にある。
本当に伝えたいメッセージを落とさないための一手段である。
キャラクターの問題も大切である。
自分のキャラクターを無視した方法を採用すると、余計に痛い目に遭う。
先の派手な花火の話と同様で、無理な自分を演じ続けることができないからである。
様々な人の学級開きの方法を知ることで、自分に近いものを見つけられるだろう。
学級開きには、学級において最も大切な「躾」の問題も含まれる。
集団として成り立つためのルールの定着はここにかかっている。
子どもが言うことをきかなくなるのは、担任だけでなく、みんなの不幸の始まり。
自ら進んでルールを作って従いたくなるクラスづくりには、スタートが肝心である。
もう、とにかく伝えたいことが山ほどある。
悲観的すぎる次年度の不安を打ち砕き、逆に非現実的なパラダイスのような夢も抱かない。
高い理想を抱いた上で、現実的に立ち向かうこと。
学級開きに必要なのは、具体的にできる方法と理論、哲学である。
年度末は、ほっとしたい時期である。
それはわかる。
ただ、少し早くスタートすれば、後が圧倒的に楽である。
人生においては、フライングは反則では決してなく、むしろ望む結果を得るための基本戦略である。
本を読むことでも、学級開きセミナーに申し込むことでもいい。
次年度、担任として学級をもつ予定のある方は、余裕のある3月から、次年度の準備開始をおすすめする。
☆第5回 学級づくりセミナー「学級開きスペシャル低中高」
講師:浅野英樹×飯村友和×松尾英明×
月日:3月24日(土)13:00~17:00
会場:船橋市中央公民館(JR船橋駅より徒歩7分)
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/
☆第40回縁太会『教えます!「やる気スイッチ」ON!
講師:飯村友和×松尾英明×縁太会
日時:3月31日(土)10:00~17:00
場所:戦災復興記念館4階第1会議室(
↓詳細とお申し込みはこちら
http://kokucheese.com/event/
2018年3月9日金曜日
白いものを白としておもしろく
社会科の歴史の授業。
私は、歴史人物かるたをよくやる。
「面白い!」
「もっとやりたい!」
という声が上がる。
これはこれでいい。
しかし、である。
かるた取りは、歴史の授業の本質ではない。
あくまで、興味をもたせるための導入の手段でしかない。
松下幸之助 が『物の見方考え方』(PHP文庫)という本の中で、次のように述べている。
「白いものを白としておもしろく読ますところに、新聞記者としての技能がある。」
白いものを黒としておもしろがらせるのはよろしくない。
当時の新聞記事の過剰な見出しやゴシップへの警笛である。
教師の本文は授業である。
そして、授業の本質は学力形成である。
松下氏の言葉を借りれば、
「教科を教科としておもしろく学ばせるところに、教師としての技能がある。」
といったところだろうか。
算数の授業なら、算数をおもしろく学ばせる。
論理的思考の楽しさである。
体育の授業なら、体育をおもしろく学ばせる。
身体を動かしながら思考を働かせ、技能を高めるという楽しさである。
しかし実際の授業では、「楽しさそのもの」や「活動そのもの」に目が行き過ぎているものが見受けられる。
「活動あって学びなし」とは、アクティブ・ラーニングを目指して行った授業に対して多くされる批判である。
「ペア活動をしたから、アクティブ・ラーニングです」とはならない。
交流すればいいというものではない。
交流によってどんな新たな学びが生み出されているかが大切なのである。
アクティブ・ラーニングといおうが主体的で対話的で深い学びといおうが、本質は学力形成である。
レクなどは、やるだけで楽しかった気がする。
授業中にかるたやゲームを取り入れたら、子どもは楽しかった気がする。
話が逸れてふざけて大笑いしたら、楽しかった気がする。
ただ、これは言うなれば本道ではない。
あくまで、補助的な役割である。
授業の本質は学力形成。
その時間に何の学力がついたのかが大切である。
それができればとりあえず授業としてはOK。
それがおもしろく学ばせられれば、なおよいという話である。
本質は外さないようにしたい。
私は、歴史人物かるたをよくやる。
「面白い!」
「もっとやりたい!」
という声が上がる。
これはこれでいい。
しかし、である。
かるた取りは、歴史の授業の本質ではない。
あくまで、興味をもたせるための導入の手段でしかない。
松下幸之助 が『物の見方考え方』(PHP文庫)という本の中で、次のように述べている。
「白いものを白としておもしろく読ますところに、新聞記者としての技能がある。」
白いものを黒としておもしろがらせるのはよろしくない。
当時の新聞記事の過剰な見出しやゴシップへの警笛である。
教師の本文は授業である。
そして、授業の本質は学力形成である。
松下氏の言葉を借りれば、
「教科を教科としておもしろく学ばせるところに、教師としての技能がある。」
といったところだろうか。
算数の授業なら、算数をおもしろく学ばせる。
論理的思考の楽しさである。
体育の授業なら、体育をおもしろく学ばせる。
身体を動かしながら思考を働かせ、技能を高めるという楽しさである。
しかし実際の授業では、「楽しさそのもの」や「活動そのもの」に目が行き過ぎているものが見受けられる。
「活動あって学びなし」とは、アクティブ・ラーニングを目指して行った授業に対して多くされる批判である。
「ペア活動をしたから、アクティブ・ラーニングです」とはならない。
交流すればいいというものではない。
交流によってどんな新たな学びが生み出されているかが大切なのである。
アクティブ・ラーニングといおうが主体的で対話的で深い学びといおうが、本質は学力形成である。
レクなどは、やるだけで楽しかった気がする。
授業中にかるたやゲームを取り入れたら、子どもは楽しかった気がする。
話が逸れてふざけて大笑いしたら、楽しかった気がする。
ただ、これは言うなれば本道ではない。
あくまで、補助的な役割である。
授業の本質は学力形成。
その時間に何の学力がついたのかが大切である。
それができればとりあえず授業としてはOK。
それがおもしろく学ばせられれば、なおよいという話である。
本質は外さないようにしたい。
2018年3月6日火曜日
やる気が浮かない環境をつくる
現在、サークルでやる気スイッチセミナーを企画している。
3月31日に仙台でもやるので、その1週間前の24日(土)に千葉県内でやる予定である。↓
http://kokucheese.com/event/index/505949/
そこで「やる気のあるクラスづくり」に関する話。
結論からいうと、環境が大切である。
やる気のない集団において、やる気のある人間は「空気の読めない寒いやつ」になる。
一方、やる気のある集団において、やる気のない人間は、やはり「寒いやつ」になる。
「みにくいアヒルの子」みたいな話である。
いずれにせよ、そこの水に合わない状態だと、浮く訳である。
多くの人が感じる、職場を異動した1年目の辛さの原因の1つがここである。
やる気が浮かないためにも、やる気があるのが普通という環境づくりが命である。
しかし、最初からやる気集団なら楽だが、普通はそうならない。
放っておくと、やる気集団にはならないことが多い。
むしろ(高学年だと特にだが)冷めていることが多い。
正確には、冷めている風にしないと、周りから浮いてしまうのが恐ろしいから、そういうふりをしているのである。
放っておけば男女が混ざることはないという話と共通する現象である。
では、どうするか。
リーダーである学級担任からの価値付け。
やる気のある人を優遇する。
ここからである。
種を育てる。
まずは核となる子どもを育てる。
そこから、だんだん増やしていけばよい。
これは、授業にもいえる。
やる気のある子どもたちをまずは伸ばすこと。
それにより、集団の平均を引っぱり上げること。
これは決して「できないで苦しんでいる子ども」を放っておいていいという訳ではない。
できないで苦しんでいる少数の子に注目すると、お互いにより苦しいというのが事実である。
むしろ、全体が上がっていく中で、自然に困っている人をフォローをしようという風土が育つという方がよい。
人間はどうせ、苦手分野があるのだから、フォローしたら今度は別の場で自分も助けてもらえばよい。
足の引っ張り合いではなく、お互い様の精神である。
具体的な行動としては、生活のあらゆる場面で、やる気のある子に注目し、認めていくことである。
誤解なきよう付け加えると、注目すべきはあくまで「やる気のある子ども」である。
これは「能力の高い子ども」という訳ではない。
間違いだらけで失敗が多くても、やる気はあるという子どもは存在する。
落ち着きがなくて叱られることも多いけれど、やる気はあるという子どもは存在する。
発言が苦手で黙っているのだけれど、やる気はあるという子どもは存在する。
つまり、学級担任が、何を認める(=見て留める)かである。
例えば「発言しない」=「やる気がない」という尺度だと、大量の取りこぼしを出す。
「ノートに書くのも立派な発言」とは野口芳宏先生の言だが、まさにこれである。
発言一つにも、多面的な見方をしてあげることで、認める場面は格段に増える。
固定観念で見ないことである。
特別支援が必要な子どもには、特に注意である。
本人には実はやる気があるのに、その表現の仕方が適切でないことがほとんどである。
実は、本気で取り組んでいるにもかかわらず、「ふざけている」というように見えてしまう。
仲間の誰かが課題ができた途端に「もうつまんねー!」と叫ぶ子どもがいたら、その本心は「自分もできるようになりたい!」「一番になりたい!」である。
だから、教師の知識のもつ意味は大きい。
教師の無知は、場合によっては罪である。
話がやや逸れた。
やる気のある集団をつくるには、環境をつくること。
それには一人でもやる気がある子どもを優先的に認めていくという、教師の働きかけが命。
そして、やる気を評価する物差しをたくさんもっていることで、認める機会が爆発的に増える。
それなくして、単に「やる気を出そう!」と呼びかけることは、無駄である。
大事な基本なのに、意外と見落としがちなところかと思い、書いてみた。
3月31日に仙台でもやるので、その1週間前の24日(土)に千葉県内でやる予定である。↓
http://kokucheese.com/event/index/505949/
結論からいうと、環境が大切である。
やる気のない集団において、やる気のある人間は「空気の読めない寒いやつ」になる。
一方、やる気のある集団において、やる気のない人間は、やはり「寒いやつ」になる。
「みにくいアヒルの子」みたいな話である。
いずれにせよ、そこの水に合わない状態だと、浮く訳である。
多くの人が感じる、職場を異動した1年目の辛さの原因の1つがここである。
やる気が浮かないためにも、やる気があるのが普通という環境づくりが命である。
しかし、最初からやる気集団なら楽だが、普通はそうならない。
放っておくと、やる気集団にはならないことが多い。
むしろ(高学年だと特にだが)冷めていることが多い。
正確には、冷めている風にしないと、周りから浮いてしまうのが恐ろしいから、そういうふりをしているのである。
放っておけば男女が混ざることはないという話と共通する現象である。
では、どうするか。
リーダーである学級担任からの価値付け。
やる気のある人を優遇する。
ここからである。
種を育てる。
まずは核となる子どもを育てる。
そこから、だんだん増やしていけばよい。
これは、授業にもいえる。
やる気のある子どもたちをまずは伸ばすこと。
それにより、集団の平均を引っぱり上げること。
これは決して「できないで苦しんでいる子ども」を放っておいていいという訳ではない。
できないで苦しんでいる少数の子に注目すると、お互いにより苦しいというのが事実である。
むしろ、全体が上がっていく中で、自然に困っている人をフォローをしようという風土が育つという方がよい。
人間はどうせ、苦手分野があるのだから、フォローしたら今度は別の場で自分も助けてもらえばよい。
足の引っ張り合いではなく、お互い様の精神である。
具体的な行動としては、生活のあらゆる場面で、やる気のある子に注目し、認めていくことである。
誤解なきよう付け加えると、注目すべきはあくまで「やる気のある子ども」である。
これは「能力の高い子ども」という訳ではない。
間違いだらけで失敗が多くても、やる気はあるという子どもは存在する。
落ち着きがなくて叱られることも多いけれど、やる気はあるという子どもは存在する。
発言が苦手で黙っているのだけれど、やる気はあるという子どもは存在する。
つまり、学級担任が、何を認める(=見て留める)かである。
例えば「発言しない」=「やる気がない」という尺度だと、大量の取りこぼしを出す。
「ノートに書くのも立派な発言」とは野口芳宏先生の言だが、まさにこれである。
発言一つにも、多面的な見方をしてあげることで、認める場面は格段に増える。
固定観念で見ないことである。
特別支援が必要な子どもには、特に注意である。
本人には実はやる気があるのに、その表現の仕方が適切でないことがほとんどである。
実は、本気で取り組んでいるにもかかわらず、「ふざけている」というように見えてしまう。
仲間の誰かが課題ができた途端に「もうつまんねー!」と叫ぶ子どもがいたら、その本心は「自分もできるようになりたい!」「一番になりたい!」である。
だから、教師の知識のもつ意味は大きい。
教師の無知は、場合によっては罪である。
話がやや逸れた。
やる気のある集団をつくるには、環境をつくること。
それには一人でもやる気がある子どもを優先的に認めていくという、教師の働きかけが命。
そして、やる気を評価する物差しをたくさんもっていることで、認める機会が爆発的に増える。
それなくして、単に「やる気を出そう!」と呼びかけることは、無駄である。
大事な基本なのに、意外と見落としがちなところかと思い、書いてみた。
2018年3月5日月曜日
「全員達成」の落とし穴
「担任喜ばせ組」は危ないという話を何度か書いた。
(ちなみに仙台のお二人から学んだ用語である。今月、下記のセミナーで訪問させていただく。
http://kokucheese.com/event/index/502449/)
ある種の力はつくのだが、最も大切な「自発性」や「自信(自身)」という部分が抜け落ちる。
一見良いと思える状態というのは、実は危険をはらんでいることが多い。
例えばいわゆる「良い子」は「大人にとって都合の良い子」であるというのは、周知の事実である。
この辺りに関連する話。
例えば、クラス全員達成。
みんなができる。
素晴らしいこと、に見える。
いや、素晴らいことだし、すごいことには間違いない。
しかし、である。
それを目指す時、指導者はどういう心構えになってしまうか、というのが、見過ごされがちで非常に重要な問題である。
集団というのは、大体2:6:2の法則が適用される。
上2割と同時に、下2割も出るということである。
ここに善悪や正誤はなく、そういうものである。
大人集団だろうが子ども集団だろうが、30人いたら50m走のタイムが全員一律にならないというだけの話である。
少数のかなり速い人とかなりゆっくりな人、多くの集団の平均値周辺の人が出るというのが自然である。
全員達成やみんなができることを目指す時、この2割が「ボトルネック」になる。
つまり、集団の中の誰かが指導者にとっての「壁」になってしまうのである。
この「壁」を爽やかに気持ちよく越えられるならば全く問題はない。
しかし乗り越えたいのに乗り越えられない時、その相手が指導者の「敵」と化す危険を含む。
いや、子どもにとって「壁」がにっくき「敵」となり、ひいては指導者が「敵」となる可能性の方がより恐ろしい。
つまり、全員達成を目指す代償として、指導者の心が荒れて、子どもの心が荒れるという落とし穴にはまる可能性がある。
「頑張れば乗り越えられる」という考えは、一面正しい。
ただし、本人が頑張りたいと思う時だけである。
本当は頑張りたくないし大の苦手で大嫌いなのに「集団圧力」と「大人の勝手な期待」で押し潰されそうになっていることもある。
例えば私自身は長縄が大好きだが、「あれだけは心底嫌だった」と振り返る子どもだって全国に存在することも知っている。
(だからこそ、かつて指導方法レポートを公開して配布した訳である。
全国の学級に良い記録を、という願いではなく、やるからには成長と成功を願って最低限の心構えと指導方法を示した。)
これはすべてのことに適用できる。
「善意の強制」は、個々の成長を心底願っているからこそ「善意」と呼べ、許される行為である。
決して指導者の見栄や実績、目標達成のために許されることではない。
つまり、学級担任にとって、全員達成や「○○大会優勝」などは「そうなったらなったでいいかも」ぐらいの方がいい。
部活動での優勝を目指す部員や、難関校合格を目指す塾生たちを指導する場合などとは、根本的に訳が違う。
学級は部活動やクラブチーム、塾と違い、同好の士の集団ではない。
たまたま、そこに居合わせた集団である。
趣味も志向も特技も人生で目指す方向もすべて違う。
学級づくりは、そのバラバラ加減をある程度保ちつつ、何とか望ましい方向に進んでいく仕事である。
だから、この集団においては「全員」を目指すことに意味はあるが、無理が生じやすい。
そういう自覚をもつことが大切である。
だからといって、指導が及び腰になってはいけない。
それだと、つけるべき力もつかない。
譲らないところは、譲らない。
頑張らせるところは、頑張らせる。
それが「私心」によるものではなく、メタ認知的な客観性をもっているならば、大丈夫である。
その「目指すもの」が苦手な子どもは、ただでさえ苦しんでいる。
「みんな」が当たり前にできるが故に、その苦しみはますます深い。
その上に指導者から「敵」のように見られては、もうトラウマレベルである。
指導者は、常に「できない」という子どもの苦しみに寄り添う心をもちたい。
その苦しみを救う解決方法が、必ずしも「できるようにさせる」だとは限らないということである。
「みんなができる」「全員達成」を目指す時には、心の片隅に置いておきたいことである。
(ちなみに仙台のお二人から学んだ用語である。今月、下記のセミナーで訪問させていただく。
http://kokucheese.com/event/index/502449/)
ある種の力はつくのだが、最も大切な「自発性」や「自信(自身)」という部分が抜け落ちる。
一見良いと思える状態というのは、実は危険をはらんでいることが多い。
例えばいわゆる「良い子」は「大人にとって都合の良い子」であるというのは、周知の事実である。
この辺りに関連する話。
例えば、クラス全員達成。
みんなができる。
素晴らしいこと、に見える。
いや、素晴らいことだし、すごいことには間違いない。
しかし、である。
それを目指す時、指導者はどういう心構えになってしまうか、というのが、見過ごされがちで非常に重要な問題である。
集団というのは、大体2:6:2の法則が適用される。
上2割と同時に、下2割も出るということである。
ここに善悪や正誤はなく、そういうものである。
大人集団だろうが子ども集団だろうが、30人いたら50m走のタイムが全員一律にならないというだけの話である。
少数のかなり速い人とかなりゆっくりな人、多くの集団の平均値周辺の人が出るというのが自然である。
全員達成やみんなができることを目指す時、この2割が「ボトルネック」になる。
つまり、集団の中の誰かが指導者にとっての「壁」になってしまうのである。
この「壁」を爽やかに気持ちよく越えられるならば全く問題はない。
しかし乗り越えたいのに乗り越えられない時、その相手が指導者の「敵」と化す危険を含む。
いや、子どもにとって「壁」がにっくき「敵」となり、ひいては指導者が「敵」となる可能性の方がより恐ろしい。
つまり、全員達成を目指す代償として、指導者の心が荒れて、子どもの心が荒れるという落とし穴にはまる可能性がある。
「頑張れば乗り越えられる」という考えは、一面正しい。
ただし、本人が頑張りたいと思う時だけである。
本当は頑張りたくないし大の苦手で大嫌いなのに「集団圧力」と「大人の勝手な期待」で押し潰されそうになっていることもある。
例えば私自身は長縄が大好きだが、「あれだけは心底嫌だった」と振り返る子どもだって全国に存在することも知っている。
(だからこそ、かつて指導方法レポートを公開して配布した訳である。
全国の学級に良い記録を、という願いではなく、やるからには成長と成功を願って最低限の心構えと指導方法を示した。)
これはすべてのことに適用できる。
「善意の強制」は、個々の成長を心底願っているからこそ「善意」と呼べ、許される行為である。
決して指導者の見栄や実績、目標達成のために許されることではない。
つまり、学級担任にとって、全員達成や「○○大会優勝」などは「そうなったらなったでいいかも」ぐらいの方がいい。
部活動での優勝を目指す部員や、難関校合格を目指す塾生たちを指導する場合などとは、根本的に訳が違う。
学級は部活動やクラブチーム、塾と違い、同好の士の集団ではない。
たまたま、そこに居合わせた集団である。
趣味も志向も特技も人生で目指す方向もすべて違う。
学級づくりは、そのバラバラ加減をある程度保ちつつ、何とか望ましい方向に進んでいく仕事である。
だから、この集団においては「全員」を目指すことに意味はあるが、無理が生じやすい。
そういう自覚をもつことが大切である。
だからといって、指導が及び腰になってはいけない。
それだと、つけるべき力もつかない。
譲らないところは、譲らない。
頑張らせるところは、頑張らせる。
それが「私心」によるものではなく、メタ認知的な客観性をもっているならば、大丈夫である。
その「目指すもの」が苦手な子どもは、ただでさえ苦しんでいる。
「みんな」が当たり前にできるが故に、その苦しみはますます深い。
その上に指導者から「敵」のように見られては、もうトラウマレベルである。
指導者は、常に「できない」という子どもの苦しみに寄り添う心をもちたい。
その苦しみを救う解決方法が、必ずしも「できるようにさせる」だとは限らないということである。
「みんなができる」「全員達成」を目指す時には、心の片隅に置いておきたいことである。
2018年3月4日日曜日
逃げるもよし また歩けるように
2月末よりうっかり更新を忘れたため、不足分を補うまで連日更新する。
前号の続き。
学級をしていて、逃げたくなる辛い状態をどうするか。
結論から言うと、立ち向かおうとして真剣にがんばったなら、その後は逃げることがあってもいい。
ドラマで一躍有名になった「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉は、真理である。
がんばりすぎて死んでしまっては元も子もない。
むしろ、責任を感じてがんばっているなら、積極的に周りに助けを求めるべきである。
それが逆に、「責任をもつ」ということにもつながる。
責任者として素直に「周囲に助けを求める」という有効な手を打とうとしているからである。
時には周りに託し、休むことだってあるだろう。
あくまで、最初から責任を放棄しないということが大切というだけである。
周りに辛い状態の人がいたらどうするか。
その人は、明日の我が身である。
放っておいたら、同じ目に遭う。
たまたま、その役割を負ってくれているのだと考える。
だから何かしらの声をかけ、心をかける必要がある。
辛さを聞いてあげることが第一。
本人は、関わって欲しくないかもしれない。
しかし、関心を寄せていることを伝えることだけでもいい。
一声かけるだけでもいいのである。
実際、私もある子どもについて自分が悩んでいる時、前の担任の方に「私もそうでした」と言ってもらって、とても救われたことがある。
自分だけじゃないと思うこと、思わせることが大切である。
ちなみに、落ちている時はうまくいっている人の話を聞きにいかないほうがいい。
落ち込んでいる時の成功者の話は、余計に落ちる。
こういう時はセミナーに出たり本を読んで何とかするより先に、生活リズムの改善を優先する。
きちんと寝て起きて、栄養のあるものを食べて、できれば少し身体を動かす。
人間らしさの回復の方が先である。
(これは、子どもにとってもいえる。)
セミナーなどに行くのは、その後で元気になってからでいい。
セミナー参加を最も勧めるのは、大きな心配や不安もないけど、何となく宙ぶらりんでどうしていいかわからない人である。
今までの方法で何となくやってはいけているという人である。
エネルギー自体は余っているという人である。
逃げたくなったら、逃げていいから、まず周りに相談すること。
元気な人は、元気でない人に自分の時間を分けて、外に学んでレベルアップすること。
「歩」の字の如く、たとえ少し止まってもいいから、もう一度少しずつ前へ歩きだせることの方が大切である。
前号の続き。
学級をしていて、逃げたくなる辛い状態をどうするか。
結論から言うと、立ち向かおうとして真剣にがんばったなら、その後は逃げることがあってもいい。
ドラマで一躍有名になった「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉は、真理である。
がんばりすぎて死んでしまっては元も子もない。
むしろ、責任を感じてがんばっているなら、積極的に周りに助けを求めるべきである。
それが逆に、「責任をもつ」ということにもつながる。
責任者として素直に「周囲に助けを求める」という有効な手を打とうとしているからである。
時には周りに託し、休むことだってあるだろう。
あくまで、最初から責任を放棄しないということが大切というだけである。
周りに辛い状態の人がいたらどうするか。
その人は、明日の我が身である。
放っておいたら、同じ目に遭う。
たまたま、その役割を負ってくれているのだと考える。
だから何かしらの声をかけ、心をかける必要がある。
辛さを聞いてあげることが第一。
本人は、関わって欲しくないかもしれない。
しかし、関心を寄せていることを伝えることだけでもいい。
一声かけるだけでもいいのである。
実際、私もある子どもについて自分が悩んでいる時、前の担任の方に「私もそうでした」と言ってもらって、とても救われたことがある。
自分だけじゃないと思うこと、思わせることが大切である。
ちなみに、落ちている時はうまくいっている人の話を聞きにいかないほうがいい。
落ち込んでいる時の成功者の話は、余計に落ちる。
こういう時はセミナーに出たり本を読んで何とかするより先に、生活リズムの改善を優先する。
きちんと寝て起きて、栄養のあるものを食べて、できれば少し身体を動かす。
人間らしさの回復の方が先である。
(これは、子どもにとってもいえる。)
セミナーなどに行くのは、その後で元気になってからでいい。
セミナー参加を最も勧めるのは、大きな心配や不安もないけど、何となく宙ぶらりんでどうしていいかわからない人である。
今までの方法で何となくやってはいけているという人である。
エネルギー自体は余っているという人である。
逃げたくなったら、逃げていいから、まず周りに相談すること。
元気な人は、元気でない人に自分の時間を分けて、外に学んでレベルアップすること。
「歩」の字の如く、たとえ少し止まってもいいから、もう一度少しずつ前へ歩きだせることの方が大切である。
2018年3月3日土曜日
覚悟をもつ
全国各地で、なぜ学級づくりが成り立たない状態が起きるのか、そこにどうすればいいのかを考える。
教室内において、一番立場が上の人間は誰か。
「担任」と即答して欲しいのだが、ここをためらう人は結構いる。
「おこがましい」「偉そうな」「子どもが主役なのに」。
謙遜、卑下、意味の勘違いである。
ここが大きな問題であると考えている。
教室内で一番立場が上なのは、担任である。
大事な人間とか重要な人間、価値ある人間と言っている訳ではない。
「立場が上」の人間である。
その場で起きるすべての出来事について、責任を取る姿勢の人間である。
それが子どものはずがなく、当然、担任である。
(その上に管理職がいるという反論があるだろうが、それは教室より更に大きい「学校」単位の責任者である。
当然、担任の過失や責任は、管理職にも及ぶ。
しかし部門ごとの責任者は、その部の長である。)
例えば子どもが自分の授業中にケガをしたら、どんな理由があれど、授業者である担任の責任である。(あくまで「落ち度」ではなく「責任」である。)
反論はないだろう。
教室でいじめがあって問題が起きたら、どんな理由があれど、担任としての責任は免れない。
(誤解なきよう付け加えると、100%と言っている訳ではない。
主たる責任の所在の話である。)
子どもが慇懃無礼で態度が悪くて言うことをきかないのも、学力がついてなくてテストの点数が悪いのも、担任の責任である。
残念ながら、決して前の担任の責任ではないし、親の責任でもない。
そこでここは管理職のせいにしたいところだが、教室内に子どもがいる以上、やはり担任である。
そこは人に押しつけずに、自分で責任を取りにいくしかないということである。
(ただし、前年度までに無茶苦茶に荒れた学級をいきなり初任者や講師に押し付けるような行為は、管理職側の能力と責任を問われるところである。
そんな場合であっても担任として一旦引き受けたからには、無責任とはいかない。
そこには子どもがいるからである。)
ここの自覚ができていないと、子どもに責任を押し付けることになる。
「子どもが主役の教室」という言葉を「子どもに責任をとってもらう教室」と置き換えていないか。
子どもが主役であろうと自治を目指そうと、最も立場が上の責任者は担任である。
ここについては逃げない「覚悟」が必要である。
さて、ここまで書いたものの、そうはいっても、逃げたくなるのが現実だろう。
学級が組織として立ち行かない状態になってしまった教室で過ごす担任の精神的苦痛の大きさは、想像を絶する。
そんな時にどうすればいいか。
次号で考えていく。
教室内において、一番立場が上の人間は誰か。
「担任」と即答して欲しいのだが、ここをためらう人は結構いる。
「おこがましい」「偉そうな」「子どもが主役なのに」。
謙遜、卑下、意味の勘違いである。
ここが大きな問題であると考えている。
教室内で一番立場が上なのは、担任である。
大事な人間とか重要な人間、価値ある人間と言っている訳ではない。
「立場が上」の人間である。
その場で起きるすべての出来事について、責任を取る姿勢の人間である。
それが子どものはずがなく、当然、担任である。
(その上に管理職がいるという反論があるだろうが、それは教室より更に大きい「学校」単位の責任者である。
当然、担任の過失や責任は、管理職にも及ぶ。
しかし部門ごとの責任者は、その部の長である。)
例えば子どもが自分の授業中にケガをしたら、どんな理由があれど、授業者である担任の責任である。(あくまで「落ち度」ではなく「責任」である。)
反論はないだろう。
教室でいじめがあって問題が起きたら、どんな理由があれど、担任としての責任は免れない。
(誤解なきよう付け加えると、100%と言っている訳ではない。
主たる責任の所在の話である。)
子どもが慇懃無礼で態度が悪くて言うことをきかないのも、学力がついてなくてテストの点数が悪いのも、担任の責任である。
残念ながら、決して前の担任の責任ではないし、親の責任でもない。
そこでここは管理職のせいにしたいところだが、教室内に子どもがいる以上、やはり担任である。
そこは人に押しつけずに、自分で責任を取りにいくしかないということである。
(ただし、前年度までに無茶苦茶に荒れた学級をいきなり初任者や講師に押し付けるような行為は、管理職側の能力と責任を問われるところである。
そんな場合であっても担任として一旦引き受けたからには、無責任とはいかない。
そこには子どもがいるからである。)
ここの自覚ができていないと、子どもに責任を押し付けることになる。
「子どもが主役の教室」という言葉を「子どもに責任をとってもらう教室」と置き換えていないか。
子どもが主役であろうと自治を目指そうと、最も立場が上の責任者は担任である。
ここについては逃げない「覚悟」が必要である。
さて、ここまで書いたものの、そうはいっても、逃げたくなるのが現実だろう。
学級が組織として立ち行かない状態になってしまった教室で過ごす担任の精神的苦痛の大きさは、想像を絶する。
そんな時にどうすればいいか。
次号で考えていく。
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