原田隆史先生のメルマガに載っていて、以前にも転用した、次の名言。
「もしあなたが金槌しか持っていなければ、全ての問題は釘に見えるだろう」
(アブラハム・マズロー)
非常に示唆に富んだ言葉である。今回はこの言葉に関連する話。
個性が本当に十人十色になってきた。
例えば小学生男子の「好きなもの」一つとっても、一昔前のように「野球」で大体カバーということにはならなくなった。
私が小学生の時は、女子は『光GENJI』で半分近く「きゃー」といった感があった。(無論、全員ではない。)
ちなみに「源氏」でも「ゲンジ」でもなく、「GENJI」なのがポイントである。
『モーニング娘。』の「。」と同様に、当時斬新であった。
今は、女子の好きな音楽はジャニーズ系で半数近くカバーということはない。
JーPOPやK-POPのようなアイドル系からヒップホップ、テクノ系から「ボーカロイド」から演歌調まで、本当に好みが様々である。
私の時代だったら差別的であった「〇〇オタク」という呼び名も、現在では「かっこいい」とすら思われる時代である。
とにかく、この個性尊重の時代に合った教育が求められるというのは、至極当然の流れである。
そして今、教育界ではアクティブ・ラーニングが注目の的である。
もはや定着の感があるが、用語として登場した当時は「何じゃそりゃ」という感じであった。
「一斉学習」という言葉は、「個別学習」「グループ学習」という概念が登場したからこそできた。
つまり、それまでは「一斉学習」という「金槌」しかなかった訳である。
そこに「ドライバー」「スパナ」などの他の工具が入ってきたといえる。
算数の学習方などは、なかなかに変遷があり、バラエティーに富んでいる。
「水道方式」「100ます計算」「丸つけ法」「公文式ドリル」「問題解決学習」・・・
簡単に並記できるものではなく、それぞれに賛否両論あるが、どれも「工具」とみなすと、使い方次第である。
今は新たに「アクティブ・ラーニング」という概念が入ってきた。
時代のニーズに沿った流れである。
この新たな工具をどう使うか。
大切なのは、「アクティブ・ラーニング」の授業をするというのが、一斉学習を否定するものではないということである。
目の前にあるのはねじか釘かというように、状況によって必要な工具は変わる。
工具箱の中身が、金槌だけより、ドライバー、スパナ、ペンチと幅広い方がいい。
場合によっては、電動ドライバーも使う。
ドライバーの先端部だって、色んな種類のサイズと形があると知っていれば、適切なものを使える。
今までの持ち合わせの工具では、無理(または強引)という状況に気付いたということである。
どれがいい悪いではない。
前号にも述べたように、幅広く対応できること。
アクティブ・ラーニングの概念そのものが、それを教育界に求めている。
2016年2月15日月曜日
2016年2月13日土曜日
1000号を迎えて メルマガを続けるコツ?
先月、メルマガが第1000号を迎えた。
よく続けてきたと思う。
一応の目標として、一つ達成したことになる。
同時に読者数も1000人を目標にしており、かなり迫ったものの、残念ながらそこは届かなかった。
(本人の宣伝努力が足りないという声もあり。)
しかし、熱心に読んでくださる方1人の存在は、百人力である。
読者数何万人のメルマガにだって負けないぜという気概、自負がある。
読者の皆様の「御陰様」である。
本当に「有難い」ことである。
読んでくれる人の存在は、続ける上の大きな原動力である。
誰も相手にしてくれないとなると、続けるのは難しい。
まさに社会と個人の関係性、仕事の存在意義である。
ところで、他の「続けてこられた要素」は何か。
一つは「出す」と決めて宣言すること。
とにかく自分との戦いなので、ここは勝ちにいく。(結構負けることもある。)
もう一つ。
これは非常に大きい要素がある。
それは、私が「文章を読んだり書いたりするのが好き」という点である。
(ちなみに一応申し上げると「美しく文字を書く」というのは、全く別次元の能力である。)
これは特性に関わる点であり、教育を考える上でも非常に重要である。
ここから先は、前号の「子どもに合ったアプローチ」という話と関連する。
本人の持つ特性は大切である。
よく「子どもの頃からやっていて、がんばっている内に好きになった」という話をきく。
半分正しいが、半分正しくないと思っている。
どういうことかというと、「元々好きになる要素をもっていた」という点が抜けている。
教室を見るとよくわかる。
社交的で発言も活発な子どもは「良い」とされがちだが、それは単なる「特性」である。
「特性」として見た時、そこに良い悪いはない。
その子どもは、純粋に人と会話したり発言したり、自己表現を口でするのが好きなのである。
それを良いとか悪いとかというのは、単に周りにいる受け手の観(フィルタ)を通してのことである。
「一般的に」という場合、その特性が、長所に見えやすいか短所に見えやすいかという「思い込みやすさ」の差である。
いや、もっというと、それが受け手にとって好都合か不都合かということである。
よく発言する子どもは、授業の中で目立つ。
発言を取り上げられやすい。
だから周りにも「すごい」と思われやすい。
実際は、授業の進行に都合がいいというだけかもしれない。
単純にある「答え」を求める発言が欲しいなら、教師が自分で言えばいいだけの話である。
ただ、そうすると「どっちらけ」である。
だから、何か、「子どもの発言で」という形にしたがる。
好都合→好印象→高評価になるのである。
客観的に見ると、実にくだらないことである。
一方、全然教師の意図としない動きをする子どもがいるとする。
例えば、好都合な意見を持っているのに、全然発言しない。
これは「良くない」と思われがちである。
周りは「自分の考えを述べるべきだ」という。
その子の親ですらもそう思っている。
違うのである。
その子どもは「発言したくない」のである。
クラスの仲間が嫌とかどうこうではなく、単純にそこは不得手で、好きではないのである。
発言しないと不都合であるのは、そう考えている教師の側である。
授業の進行上の問題だけである。
教師は、本当に必要なら、ノートにでも書かせて、全体の前で取り上げることもできる。
そう考えると、発言しようがしまいがどっちでもいいということになる。
一方で、発言好きな子どもは、どんどんしゃべる。
すぱっと正解を出すというのは、時に不都合も起こす。
そうすると、コントロールされる。
発言しすぎもやはり不都合なのである。
ただこれとて、発言しようがしまいが問題ない進行の仕方をすればいいだけの話である。
「正解」がすぱっと出る前提で、かつ出なくても大丈夫な進行を組めばよい。
変にコントロールしようとしすぎるから、好都合とか不都合とかの区別が起きるのである。
逆に、「授業名人」と呼ばれる人たちは、要は「対応の幅が広い」といえる。
「懐が深い」とも言い換えられる。
話を元に戻す。
子どもの特性を認めること。
その子にとって、好きなことは、うまくやれるし続けられる。
特に好きでないことは、ぼちぼちしかやらない。
嫌いなことは、やらない。
人に迷惑をかけない範囲であれば、嫌いなことより好きなことを優先すればいいだけの話である。
個性の尊重とは、自分自身の個性の理解からではないかと思った次第である。
よく続けてきたと思う。
一応の目標として、一つ達成したことになる。
同時に読者数も1000人を目標にしており、かなり迫ったものの、残念ながらそこは届かなかった。
(本人の宣伝努力が足りないという声もあり。)
しかし、熱心に読んでくださる方1人の存在は、百人力である。
読者数何万人のメルマガにだって負けないぜという気概、自負がある。
読者の皆様の「御陰様」である。
本当に「有難い」ことである。
読んでくれる人の存在は、続ける上の大きな原動力である。
誰も相手にしてくれないとなると、続けるのは難しい。
まさに社会と個人の関係性、仕事の存在意義である。
ところで、他の「続けてこられた要素」は何か。
一つは「出す」と決めて宣言すること。
とにかく自分との戦いなので、ここは勝ちにいく。(結構負けることもある。)
もう一つ。
これは非常に大きい要素がある。
それは、私が「文章を読んだり書いたりするのが好き」という点である。
(ちなみに一応申し上げると「美しく文字を書く」というのは、全く別次元の能力である。)
これは特性に関わる点であり、教育を考える上でも非常に重要である。
ここから先は、前号の「子どもに合ったアプローチ」という話と関連する。
本人の持つ特性は大切である。
よく「子どもの頃からやっていて、がんばっている内に好きになった」という話をきく。
半分正しいが、半分正しくないと思っている。
どういうことかというと、「元々好きになる要素をもっていた」という点が抜けている。
教室を見るとよくわかる。
社交的で発言も活発な子どもは「良い」とされがちだが、それは単なる「特性」である。
「特性」として見た時、そこに良い悪いはない。
その子どもは、純粋に人と会話したり発言したり、自己表現を口でするのが好きなのである。
それを良いとか悪いとかというのは、単に周りにいる受け手の観(フィルタ)を通してのことである。
「一般的に」という場合、その特性が、長所に見えやすいか短所に見えやすいかという「思い込みやすさ」の差である。
いや、もっというと、それが受け手にとって好都合か不都合かということである。
よく発言する子どもは、授業の中で目立つ。
発言を取り上げられやすい。
だから周りにも「すごい」と思われやすい。
実際は、授業の進行に都合がいいというだけかもしれない。
単純にある「答え」を求める発言が欲しいなら、教師が自分で言えばいいだけの話である。
ただ、そうすると「どっちらけ」である。
だから、何か、「子どもの発言で」という形にしたがる。
好都合→好印象→高評価になるのである。
客観的に見ると、実にくだらないことである。
一方、全然教師の意図としない動きをする子どもがいるとする。
例えば、好都合な意見を持っているのに、全然発言しない。
これは「良くない」と思われがちである。
周りは「自分の考えを述べるべきだ」という。
その子の親ですらもそう思っている。
違うのである。
その子どもは「発言したくない」のである。
クラスの仲間が嫌とかどうこうではなく、単純にそこは不得手で、好きではないのである。
発言しないと不都合であるのは、そう考えている教師の側である。
授業の進行上の問題だけである。
教師は、本当に必要なら、ノートにでも書かせて、全体の前で取り上げることもできる。
そう考えると、発言しようがしまいがどっちでもいいということになる。
一方で、発言好きな子どもは、どんどんしゃべる。
すぱっと正解を出すというのは、時に不都合も起こす。
そうすると、コントロールされる。
発言しすぎもやはり不都合なのである。
ただこれとて、発言しようがしまいが問題ない進行の仕方をすればいいだけの話である。
「正解」がすぱっと出る前提で、かつ出なくても大丈夫な進行を組めばよい。
変にコントロールしようとしすぎるから、好都合とか不都合とかの区別が起きるのである。
逆に、「授業名人」と呼ばれる人たちは、要は「対応の幅が広い」といえる。
「懐が深い」とも言い換えられる。
話を元に戻す。
子どもの特性を認めること。
その子にとって、好きなことは、うまくやれるし続けられる。
特に好きでないことは、ぼちぼちしかやらない。
嫌いなことは、やらない。
人に迷惑をかけない範囲であれば、嫌いなことより好きなことを優先すればいいだけの話である。
個性の尊重とは、自分自身の個性の理解からではないかと思った次第である。
2016年2月11日木曜日
「先生」3種類
私の大好きな作家である中谷彰宏氏の本からの引用。
『うまくいくスピード営業術 速攻で成果があがる65の具体例』PHP
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-61180-8
===================
(引用開始)
スピード営業マンは、コンサルティング業です。
お客様の相談にのる人です。
ただのセールスマンはモノを売る人、販売員です。
そのどちらになるかは、あなたが選んでください。
(中略)
コンサルタントにはだいたい「先生」と呼ばれますが、この先生という言葉がヒントです。
(引用終了)
======================
この「先生」には、3種類いるという。
1医者
→相談を受け、治療をする。
2学校の先生
→知識や技能を提供する。
3師
→ライフスタイル、考え方を提供する。
要は、優れた営業マンは
1困った状態を把握し
2必要な知識を的確に伝え
3相手の方から「こんな生活をしたいからこんなモノが欲しい」という答えを引き出す
というステップを踏むというように解釈した。
「ステップを踏む」というのがポイントで、誰に対してもいきなり3にいく訳ではないのである。
そのまま、教師を含めたあらゆる仕事にも当てはまる考え方である。
教師は、1から3の全ての対応ができる知識と技能、考え方(マインド)を身に付けていること。
さらに、子ども(場合によって保護者)が、どの段階を必要としているのかを見極められる判断力が必要とされる。
目の前の子どもが求めているのは
1「大丈夫だよ」という治療的な言葉なのか、
2「こうするとうまくいく」という具体的な指針やアドバイスなのか、
3「がんばれ」という叱咤激励や「あなたはどうしたいのか」という自らの思考を促す言葉なのか、
ここを見極めないと失敗するということである。
1が必要なのに3のアプローチでは、相手は折れてしまう。
2が必要なのに1のアプローチでは、欲求不満を抱かれる。
相手の段階を見極めないアプローチは、逆効果にすらなるということである。
例えば家庭に大きな問題を抱えていて、心身ともにへとへとな子どもがいたとする。
まずは治療的なアプローチが必要なのに「がんばれ」は逆効果である。
一方、安定した状態にあり、上を目指そうとしている相手なら「がんばれ」の方が適切かもしれない。
「がんばれ」という言葉自体に善悪や良否はない。
刃物や火薬と同じで、状況と使い方次第で良くも悪くもなる。
「叱るか褒めるか」または「認めるか」という話にも似ている。
どっちがいいとか悪いとかではない。
どちらを今子どもは本当に必要としているかである。
教育観に関わる部分なので、次号もう少し深めていく。
『うまくいくスピード営業術 速攻で成果があがる65の具体例』PHP
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-61180-8
===================
(引用開始)
スピード営業マンは、コンサルティング業です。
お客様の相談にのる人です。
ただのセールスマンはモノを売る人、販売員です。
そのどちらになるかは、あなたが選んでください。
(中略)
コンサルタントにはだいたい「先生」と呼ばれますが、この先生という言葉がヒントです。
(引用終了)
======================
この「先生」には、3種類いるという。
1医者
→相談を受け、治療をする。
2学校の先生
→知識や技能を提供する。
3師
→ライフスタイル、考え方を提供する。
要は、優れた営業マンは
1困った状態を把握し
2必要な知識を的確に伝え
3相手の方から「こんな生活をしたいからこんなモノが欲しい」という答えを引き出す
というステップを踏むというように解釈した。
「ステップを踏む」というのがポイントで、誰に対してもいきなり3にいく訳ではないのである。
そのまま、教師を含めたあらゆる仕事にも当てはまる考え方である。
教師は、1から3の全ての対応ができる知識と技能、考え方(マインド)を身に付けていること。
さらに、子ども(場合によって保護者)が、どの段階を必要としているのかを見極められる判断力が必要とされる。
目の前の子どもが求めているのは
1「大丈夫だよ」という治療的な言葉なのか、
2「こうするとうまくいく」という具体的な指針やアドバイスなのか、
3「がんばれ」という叱咤激励や「あなたはどうしたいのか」という自らの思考を促す言葉なのか、
ここを見極めないと失敗するということである。
1が必要なのに3のアプローチでは、相手は折れてしまう。
2が必要なのに1のアプローチでは、欲求不満を抱かれる。
相手の段階を見極めないアプローチは、逆効果にすらなるということである。
例えば家庭に大きな問題を抱えていて、心身ともにへとへとな子どもがいたとする。
まずは治療的なアプローチが必要なのに「がんばれ」は逆効果である。
一方、安定した状態にあり、上を目指そうとしている相手なら「がんばれ」の方が適切かもしれない。
「がんばれ」という言葉自体に善悪や良否はない。
刃物や火薬と同じで、状況と使い方次第で良くも悪くもなる。
「叱るか褒めるか」または「認めるか」という話にも似ている。
どっちがいいとか悪いとかではない。
どちらを今子どもは本当に必要としているかである。
教育観に関わる部分なので、次号もう少し深めていく。
2016年2月7日日曜日
大荒れの成人式?
(今回の記事は「まぐまぐニュース」でも取り上げられたので、参考までにURLを。
http://www.mag2.com/p/news/139065)
成人式で大暴れしたのが全国で何人かいたとニュースで報じられた。
これを見て「全く近頃の若者はどうしようもない」となったら、哀しいことである。
今年の新成人の数は121万人という。
つまり、かなりざっくり計算して1万人で1%。
千人で0.1%。
百人で0.01%である。
つまり0.01%は、47都道府県で万遍なく2人ずつ事件を起こすとほぼ同数になる。
0.01%というのは1万分の1という数である。
1万人に1人、特別に荒れた子どもがいるのは異状事態だろうか。
いや、100人いる学年に数人いる場合だってざらにある。
つまり、割合からすると、決して不思議ではない。
しかし、確実に増えている感がある。
なぜか。
単純に、報道することが原因の一つである。
メディアに取り上げてもらうことで、注目の「負の報酬」が得られる。
(クラスで望ましくない行為をして、担任の先生に怒られまくる子どもが得ているのと同じものである。癖になる。)
そもそも、成人式で暴れるような新成人は、正の注目と報酬を得られなかった子どもたちである。
愛情や承認の欲求を負の報酬で代償している。
暴走族を考えるとわかりやすい。
暴走族の少年にとっては「迷惑行為」であることが大切である。
さらに言うと、それによって、同じ年代の人々に注目されないと意味がない。
逮捕も一つの「勲章」である。
そしていい年になったら「昔は無茶をして・・・」が常套句になる。
暴走族の事件をいちいちメディアで取り上げてたら、その後大荒れになることが容易に予想できる。
注目されたい少年たちの欲求を一気に満たすことができる。
どうすればメディアに取り上げてもらえるか、いかに目立って暴れてやるかの競争になる。
報道されるから、暴れる。
わざわざ暴れているところの写真や暴言の内容まで出回って、してやったりである。
無論、報道すべきものもある。
殺人にいたっているものもあり、これは被害者の視点からも見過ごせない。
社会的に取り上げるべきものである。
それ以外のいつもの暴れる君たちは、逮捕後はメディア的には放置した方が社会のためである。
憧れて後継者としての模倣犯が現れるし、何より残り99.9%以上の立派な新成人たちが迷惑である。
そもそも、そんな暴れる君たちを作ったのは、我々大人である。
反省すべき点はなかったのか。
無論、あるのだが、やはり何よりメディアの影響は大きいと言わざるを得ない。
そういう負の行為に着目するから、未来が暗く見える。
大多数の正しい行為の新成人たちにスポットを当てれば、未来は明るい。
世界の未来、日本の未来は自分には決められないかもしれない。
しかし、自分の身近な小さな社会の未来は決められる。
親だったら家庭であったり、教師だったら教室であったりする。
子どもの欠けているところ、ダメなところに注目するか、優れたよいところに注目するか。
同じものを見るなら、影の部分より光の方を見ていきたい。
http://www.mag2.com/p/news/139065)
成人式で大暴れしたのが全国で何人かいたとニュースで報じられた。
これを見て「全く近頃の若者はどうしようもない」となったら、哀しいことである。
今年の新成人の数は121万人という。
つまり、かなりざっくり計算して1万人で1%。
千人で0.1%。
百人で0.01%である。
つまり0.01%は、47都道府県で万遍なく2人ずつ事件を起こすとほぼ同数になる。
0.01%というのは1万分の1という数である。
1万人に1人、特別に荒れた子どもがいるのは異状事態だろうか。
いや、100人いる学年に数人いる場合だってざらにある。
つまり、割合からすると、決して不思議ではない。
しかし、確実に増えている感がある。
なぜか。
単純に、報道することが原因の一つである。
メディアに取り上げてもらうことで、注目の「負の報酬」が得られる。
(クラスで望ましくない行為をして、担任の先生に怒られまくる子どもが得ているのと同じものである。癖になる。)
そもそも、成人式で暴れるような新成人は、正の注目と報酬を得られなかった子どもたちである。
愛情や承認の欲求を負の報酬で代償している。
暴走族を考えるとわかりやすい。
暴走族の少年にとっては「迷惑行為」であることが大切である。
さらに言うと、それによって、同じ年代の人々に注目されないと意味がない。
逮捕も一つの「勲章」である。
そしていい年になったら「昔は無茶をして・・・」が常套句になる。
暴走族の事件をいちいちメディアで取り上げてたら、その後大荒れになることが容易に予想できる。
注目されたい少年たちの欲求を一気に満たすことができる。
どうすればメディアに取り上げてもらえるか、いかに目立って暴れてやるかの競争になる。
報道されるから、暴れる。
わざわざ暴れているところの写真や暴言の内容まで出回って、してやったりである。
無論、報道すべきものもある。
殺人にいたっているものもあり、これは被害者の視点からも見過ごせない。
社会的に取り上げるべきものである。
それ以外のいつもの暴れる君たちは、逮捕後はメディア的には放置した方が社会のためである。
憧れて後継者としての模倣犯が現れるし、何より残り99.9%以上の立派な新成人たちが迷惑である。
そもそも、そんな暴れる君たちを作ったのは、我々大人である。
反省すべき点はなかったのか。
無論、あるのだが、やはり何よりメディアの影響は大きいと言わざるを得ない。
そういう負の行為に着目するから、未来が暗く見える。
大多数の正しい行為の新成人たちにスポットを当てれば、未来は明るい。
世界の未来、日本の未来は自分には決められないかもしれない。
しかし、自分の身近な小さな社会の未来は決められる。
親だったら家庭であったり、教師だったら教室であったりする。
子どもの欠けているところ、ダメなところに注目するか、優れたよいところに注目するか。
同じものを見るなら、影の部分より光の方を見ていきたい。
2016年2月5日金曜日
「何できちんとできないの!?」の答え
今回も雑感だが、自分の中で深められそうな気のしているテーマについて。
教育がうまくいかない状況を考える。
ポイントは、教える側と教わる側のニーズの違いである。
親や教師(以下「大人」と括る)が子どもに何か教えたりやらせたりしようとする。
こちらにはねらいや要求がある。
一方、子どもの方はやりたい訳でもない、または大人が思うほどは求めてないとする。
このニーズのギャップのある状態は、うまくいかない。
大人が子どもに口にする言葉No.1の「早くしなさい!」は、もろにここに当てはまる。
大人の側には色々と都合があるので、早くしてくれないと困る。
一方、子どもは別に早くやりたいともやる必要があるとも思っていない。
または、やろうとしているが、できない。
よって「何できないの!」「きちんとやりなさい!」も、同種のうまくいかない言葉である。
逆のこともある。
子どもはすごくやりたい、欲しい、できるようになりたい。
しかし、大人の側のニーズはほどほど、またはあまりない。
まあ、可能なら満たしてあげたい、または満たすこともできるが、どちらでもいいと思っている。
これは、結構うまくいく。
この状態だと、子ども自身が考えて工夫をする。
大人はアドバイスを求められるので、一応「いいんじゃないかな」「じゃ、もう少しこうしたら?」と答える。
子どもは更にがんばる。工夫を続ける。
「好きこそものの上手なれ」というのは、ある意味当然といえる。
子どもは、大好きなことなら限りなく熱中し、やめてとお願いしてもやめてくれない。
要は、大人と子どもの間のニーズに変化を起こすことである。
ある行動へのニーズを
大人>子ども から、
大人=子ども にして、
大人<子ども に移行すればよい。
これは、経済に似ている。
供給>需要で、差が大きすぎると、モノが溢れて買い手がいない状態で、売り手としては困る。
大安売りで、価値を感じにくくなる。
供給=需要だと、バランスが良い安定状態である。
供給<需要では、高く買ってもらえる状態であるが、これもほどほどが良い。
あまりに供給量が少ないと、ニーズに応えらず、不満を抱かれる。
需要が子どもの「やりたい」、供給が大人の「やらせたい」と考えると、ぴったり一致する。
子どもの「やりたい」が高まったところで、初めて「できるようにさせる技術」が光る。
要はやる気スイッチを入れることが先、できるようにさせる技術が後ということである。
子どものやる気はあるのに、教えることができない状態を「技量不足」と呼ぶ。
教える技術はあるのに、子どもが嫌々やっている状態を「空回り」と呼ぶ。
両者バランスよくある状態が望ましい。
「何できちんとできないの!?」の答えは単純明快で、
「あなたが思うほど私はやりたくないからです。」
または
「あなたがうまく教える技術がないからです。」
となる。
整理する。
色々書いたが、最重要ポイントは一つ。
子どものニーズを大人のニーズに上回らせること。
アクティブ・ラーニングの状態とはそういうことである。
今後、どうすればそうなるのかをテーマに考えていく。
教育がうまくいかない状況を考える。
ポイントは、教える側と教わる側のニーズの違いである。
親や教師(以下「大人」と括る)が子どもに何か教えたりやらせたりしようとする。
こちらにはねらいや要求がある。
一方、子どもの方はやりたい訳でもない、または大人が思うほどは求めてないとする。
このニーズのギャップのある状態は、うまくいかない。
大人が子どもに口にする言葉No.1の「早くしなさい!」は、もろにここに当てはまる。
大人の側には色々と都合があるので、早くしてくれないと困る。
一方、子どもは別に早くやりたいともやる必要があるとも思っていない。
または、やろうとしているが、できない。
よって「何できないの!」「きちんとやりなさい!」も、同種のうまくいかない言葉である。
逆のこともある。
子どもはすごくやりたい、欲しい、できるようになりたい。
しかし、大人の側のニーズはほどほど、またはあまりない。
まあ、可能なら満たしてあげたい、または満たすこともできるが、どちらでもいいと思っている。
これは、結構うまくいく。
この状態だと、子ども自身が考えて工夫をする。
大人はアドバイスを求められるので、一応「いいんじゃないかな」「じゃ、もう少しこうしたら?」と答える。
子どもは更にがんばる。工夫を続ける。
「好きこそものの上手なれ」というのは、ある意味当然といえる。
子どもは、大好きなことなら限りなく熱中し、やめてとお願いしてもやめてくれない。
要は、大人と子どもの間のニーズに変化を起こすことである。
ある行動へのニーズを
大人>子ども から、
大人=子ども にして、
大人<子ども に移行すればよい。
これは、経済に似ている。
供給>需要で、差が大きすぎると、モノが溢れて買い手がいない状態で、売り手としては困る。
大安売りで、価値を感じにくくなる。
供給=需要だと、バランスが良い安定状態である。
供給<需要では、高く買ってもらえる状態であるが、これもほどほどが良い。
あまりに供給量が少ないと、ニーズに応えらず、不満を抱かれる。
需要が子どもの「やりたい」、供給が大人の「やらせたい」と考えると、ぴったり一致する。
子どもの「やりたい」が高まったところで、初めて「できるようにさせる技術」が光る。
要はやる気スイッチを入れることが先、できるようにさせる技術が後ということである。
子どものやる気はあるのに、教えることができない状態を「技量不足」と呼ぶ。
教える技術はあるのに、子どもが嫌々やっている状態を「空回り」と呼ぶ。
両者バランスよくある状態が望ましい。
「何できちんとできないの!?」の答えは単純明快で、
「あなたが思うほど私はやりたくないからです。」
または
「あなたがうまく教える技術がないからです。」
となる。
整理する。
色々書いたが、最重要ポイントは一つ。
子どものニーズを大人のニーズに上回らせること。
アクティブ・ラーニングの状態とはそういうことである。
今後、どうすればそうなるのかをテーマに考えていく。
2016年2月3日水曜日
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて・・・成人の日
成人の日に書いた記事。
成人ということに対し、どんな価値観を持って新成人は臨むのだろうか。
吉田松陰の作った次の和歌がある。
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし
(松蔭神社のH.P.より引用。)
http://www.shoin-jinja.jp/blog/?cat=4&paged=4
吉田松陰が26歳の時、いとこである玉木彦介の元服を祝して贈った和歌だという。
「今日からは、親にすがって甘えるような心を振り切り、ひとり立ちした人間になるために、力強く歩んで行きなさい。」
という意味だという。
成人の日というのは、ひとり立ちした人間としての自覚を持ち、志を立てる日であるともいえる。
美しく着飾るのも、その門出を祝う周囲の人々の思いあってこそである。
大いに華やかにやってくれていい。
ただ、親をはじめとするここまで育ててくれた人々への感謝の気持ちを忘れずに立って欲しい。
一時期に比べ、成人式の荒れは急激に少なくなったという。
「今時の若者」は、意外としっかりしているのである。
さて、とっくの昔に「成人」し終えた私たち「大人」はどうだろうか。
ちなみに、小学館の『類語例解辞典』によると、「成人」とは、単に成年に達した人全般をさす。
一方「大人」とは、社会的、身体的、精神的に成熟した一人前の人間をさす。
つまり、「成人」してもすぐに「大人」になる訳ではないということである。
自分を省みた時、甘えを捨てているだろうか。
人としての道を力強く歩んでいるだろうか。
志を持っているだろうか。
人として成っているだろうか。
甚だ疑問である。
子どもは大人の背中を見て育つ。
口でうまいことを言っても、何をやっているかが全てである。
「成人式」は新成人のためだけでなく、我々「大人」が自分自身を振り返る機会にもしたい。
成人ということに対し、どんな価値観を持って新成人は臨むのだろうか。
吉田松陰の作った次の和歌がある。
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし
(松蔭神社のH.P.より引用。)
http://www.shoin-jinja.jp/blog/?cat=4&paged=4
吉田松陰が26歳の時、いとこである玉木彦介の元服を祝して贈った和歌だという。
「今日からは、親にすがって甘えるような心を振り切り、ひとり立ちした人間になるために、力強く歩んで行きなさい。」
という意味だという。
成人の日というのは、ひとり立ちした人間としての自覚を持ち、志を立てる日であるともいえる。
美しく着飾るのも、その門出を祝う周囲の人々の思いあってこそである。
大いに華やかにやってくれていい。
ただ、親をはじめとするここまで育ててくれた人々への感謝の気持ちを忘れずに立って欲しい。
一時期に比べ、成人式の荒れは急激に少なくなったという。
「今時の若者」は、意外としっかりしているのである。
さて、とっくの昔に「成人」し終えた私たち「大人」はどうだろうか。
ちなみに、小学館の『類語例解辞典』によると、「成人」とは、単に成年に達した人全般をさす。
一方「大人」とは、社会的、身体的、精神的に成熟した一人前の人間をさす。
つまり、「成人」してもすぐに「大人」になる訳ではないということである。
自分を省みた時、甘えを捨てているだろうか。
人としての道を力強く歩んでいるだろうか。
志を持っているだろうか。
人として成っているだろうか。
甚だ疑問である。
子どもは大人の背中を見て育つ。
口でうまいことを言っても、何をやっているかが全てである。
「成人式」は新成人のためだけでなく、我々「大人」が自分自身を振り返る機会にもしたい。
2016年2月1日月曜日
『一見フツ―でも、教師が「距離を置く子ども」の共通点4』
先月、また「プレジデントオンライン」に次の新しい記事がアップされた。
『一見フツ―でも、教師が「距離を置く子ども」の共通点4』
http://president.jp/articles/-/17039
この記事は後半がメインなのだが、まずは問いかけの前半までである。
要は、先日書いた児童虐待の話の続きである。
後半には、親がきちんと叱ることの大切さを書いている。
(まだアップされていないが。)
叱ることは、叱る側も痛い。
褒める方や見ない方に逃げたくなる。
しかし、それは緩やかな「マイナスの教育」の始まりだと思っている。
また、褒めるべき時に叱ってもよくない。
(わかりやすいのが、掃除。
さぼっている子どもを叱るより、きちんとやっている子どもを褒める方を優先する。)
叱られるべき時に叱られない子どもは、結果的に不幸である。
叱ってくれる人は、その相手に何らかの愛情がある人である。
叱るという行為は、文句や罵倒とは違う。
ここを間違えると、変な人の言いなりになる。
その行為の根源が、愛情か自己中心かが判断基準である。
自分の機嫌や都合とは関係なく、相手を中心に考えているかどうかである。
叱られることへの耐性が弱くなっているといわれる現代だからこそ、叱ることの重要性が問われていると思う次第である。
『一見フツ―でも、教師が「距離を置く子ども」の共通点4』
http://president.jp/articles/-/17039
この記事は後半がメインなのだが、まずは問いかけの前半までである。
要は、先日書いた児童虐待の話の続きである。
後半には、親がきちんと叱ることの大切さを書いている。
(まだアップされていないが。)
叱ることは、叱る側も痛い。
褒める方や見ない方に逃げたくなる。
しかし、それは緩やかな「マイナスの教育」の始まりだと思っている。
また、褒めるべき時に叱ってもよくない。
(わかりやすいのが、掃除。
さぼっている子どもを叱るより、きちんとやっている子どもを褒める方を優先する。)
叱られるべき時に叱られない子どもは、結果的に不幸である。
叱ってくれる人は、その相手に何らかの愛情がある人である。
叱るという行為は、文句や罵倒とは違う。
ここを間違えると、変な人の言いなりになる。
その行為の根源が、愛情か自己中心かが判断基準である。
自分の機嫌や都合とは関係なく、相手を中心に考えているかどうかである。
叱られることへの耐性が弱くなっているといわれる現代だからこそ、叱ることの重要性が問われていると思う次第である。
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