2017年6月10日土曜日

鯉幟のように

こどもの日に書いた記事。
(うっかり、季節柄のものなのに、アップし忘れていた。)

祝日法には次のように規定されている。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

母への感謝も内容の一つである。
なぜか。
簡単に言うと、母こそ子が存在するルーツだからである。
子どもの成長を願い祝うということは、そのまま母親の存在の肯定につながる。
あまり認知されていないが、この祝日に「母に感謝する」の部分を入れたことは、特筆すべきことである。
(父は残念ながら入っていないが、子どもにとって母親の存在は特別である。
 その点において父は母に完全コールド負けである。)

ところで、こどもの日に関連することといったら何か。
列挙すると
1鎧兜・五月人形
2鯉のぼり
3菖蒲湯
4ちまき
5柏餅

ここに込められた願いを考えると、次のように分類できる。

1、2、3,4は子どもの成長を願うものである。
5だけは、親のため。
柏の葉は新芽が育つまで落ちないために、子が育つまで親が生きながらえるという意味がある。
親が生きることが、子の成長に間接的につながるという考えである。

他の視点で分類する。
2の鯉幟だけが異質である。
どういう視点か、少し考えてみて欲しい。

私の尊敬する野口芳宏先生の言葉に、次のものがある。
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

つまり鎧冑も五月人形も菖蒲湯もちまきも柏餅も「子どもを守る」という支援・厄除けの視点である。
鯉幟だけが「逆境を乗り越え逞しく生きよ」という鍛錬の視点である。

子どもは、守られるべき存在である。
一方で、子どもは、自立に向けて成長すべき存在でもある。

以前、オンライン記事で書いたが、鍛える視点、叱る視点を欠落させないことである。
(参考『子どもを「大切に大切に」しながらダメにする親』プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/17690?page=4)

学級経営においても、この基本は外さない。
勉強ができないで困っていたら、教えてあげればいい。
でも、教えた後は、自分で解けるように見守る段階が必要である。
たとえ子ども同士で教え合わせる時にも、この視点をもたせる。
親切な子どもほど、相手が自力でやろうという段階でもまだ手出しや口出しをしてしまう。
教師でも同様である。

子どもを、何かができない存在として見ない。
子どもは、何かができるようになる存在である。
だから、鍛える。

鯉幟は、激流を昇って鍛えられることで龍になる。
子どもも、いつまでも子どもではない。
必要な部分は守りながらも鍛えて鍛えて、逞しく育てたい。

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